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Yさんの証し その33

もう一つの邂逅(かいこう)、主の不思議な巡り会わせ

2019年6月8日(土)

頌主

月報を誠にありがとうございました。
情けなや、月の初めに風邪をひいてしまい鼻垂れ小僧の毎日ですが、何とか無事に過ごさせていただいております。

3月から、お便りしたいことが重なり、少しずつ書き記させていただければと思いながら6月になってしまいました。申し訳ございません。
今日は、前回「証しその31」でお話しさせて頂いた「もう一つの邂逅(出会い)」について書かせていただきたいと思います。

「ひび割れた壺」の伝説

数年前、「証しその5」で“ひび割れた壺”の 「伝説」(出典不明)についてお話させて頂きました。サセックス在住時代、隣家のユダヤ人ご夫妻から聞いた伝説で、現在の職場に入ってからも、Hebrew語担当の同僚と司書の先生の助言を頂きながらその出典について探っておりましたが、残念ながら答えを見出せぬまま一年以上が経ちました。

年明けに転機が訪れました。
2月に図書館の元同僚、―「証しその25 & 31」で言及のユダヤ人の友人― から連絡があり、彼女の修士課程の現Supervisor(指導教官)が、3月に地元P市のユダヤ人集会で説教をする、とのことでした。

当日集会に参加させていただき、また友人が私のことをあらかじめ紹介してくれていたおかげで、相手方に警戒されることなく、お話しの機会を頂くことができました。

友人のSupervisorの専門の一つがたまたま「ユダヤの伝説・説話」であると知り、後日、私は電子メールにて「“ひび割れた壺”の伝説の出典を教えていただければ大変有難いのですが」と、お話しいたしたところ、即時にご回答を頂くことができたのです!

「ひび割れた壺」の伝説の出典

(前後省略)
それは ゾーハル/ルリアの神秘的神話の単純な改作のようである。
実質上、世界が創造されたとき、悲劇的な災難があり、神の光を保持するはずの船の幾つかが壊れたのであった。光の破片がそのとき、この世界に落ちた。
人の仕事は、戒めや善行他を守ることによって、これらを正当な場所に戻すことである。しかし、光の破片の幾つかは邪悪な力に捕獲され、人々が悪を行うときはいつも、邪悪な力はそれら破片の上に悪の把握を強化する。すべての破片が神に戻されるとき、メシヤ(救世主)が来るであろう。
このことは、ゲルショム・ショーレムの『ユダヤ人の神秘主義』、あるいは、ジョセフ・ダンの『カバラ』の中に書かれている。          非常に短い紹介まで
It sounds like a simplistic retelling of a Zoharic/ Lurianic mystical myth. In essence, when the world was created there was a tragic mishap and some of the vessels meant to hold the divine light broke. Shards of light then fell into this world. The human task is to lift those back to their rightful place by keeping the commandments, good deed etc. But some of the shards were captured by evil forces, and whenever humans do bad – they strengthen the hold of evil over them. The Messiah will come when all shards are lifted back to God. You can find this in Gershom Scholem's Jewish Mysticism or in short in Joseph Dan's 'Kabbalh - a very short introduction.

Supervisorを紹介してくれた元同僚とも不思議なご縁の出会いでしたが、今回もまた主の不思議な御手に導かれての邂逅となりました。心からHallelu-Jah(ハレルヤ)!です。


明日9日、日曜日は、教会でPentecost(ペンテコステ)が祝われ、synagogue(ユダヤ教会堂)では、本日6月8日から10日にかけて、ペンテコステ/週の祭り(שָׁבוּעוֹת シャブオト)が祝われます。シナゴグでは、『ルツ記(מגילת רות‎ メギラト・ルツ)』を読む習慣があり、ルツ(嫁)のナオミ(義母)への献身と愛(loyalty & compassion)、そして、ボアズ(夫)の慈愛(Chesed/Hessed חֶסֶד ヘセド:Loving kindness)に思いを巡らす大変良い週末になりそうです。

“Radical Then Radical Now on Being Jewish”

ラビ、ジョナサン・サックスは、著書のp.120~p.121で「裁き(Mishpat、ミシュパト)」、―自分が嫌だと思うことを人さまにしないこと― と「慈善(Tzedekah、ツェダカー)」、―律法で定められた行うべき慈善― を説明した後、次のように記しています。

以下は、Jonathan Sacksジョナサン・サックス著“Radical Then Radical Now on Being Jewish” (Continuum 2000) のp.122からの抜粋です。
そして、最後に‘ヘセド’があり、通常は『優しさ』として翻訳されるが、実際には契約の愛を意味する。
‘ヘセド’は、家族の一員である者たちに私が負っている忠誠心であり、契約社会では、一つの拡張された家族からの全ての市民は、唯一人の神の子どもとして一家族である…
‘ヘセド’は、礼儀正しい社会秩序を権利と義務だけに基づいて構築することは決してできない、という考えを表している。
私たちには、「律法の条文を超えて」、すなわち、公平と相互関係の要求を超えて行かなければならないときがある。‘ヘセド’は、個人的で数量化できない、社会の「私と汝」の次元、律法として決して形式化することはできないが、代わりに、関係の質に属する、また、貧しい人、未亡人、孤児、見知らぬ人が私の兄弟であり姉妹であるという考えに属する、思いやりと人間性…(肉太活字部分、強調付加)
"And finally there is hessed, usually translated as "kindness" but in fact meaning covenantal love.
Hessed is the loyalty I owe to those who are member of my family - and covenantal society is one in which all citizens from a single extended family, as the children of one God. ....
Hessed represents the idea that gracious social order can never be constructed on the basis of rights and obligations alone. There are times when we must go "beyond the letter of the law", beyond the requirements of equity and reciprocity. Hessed is personal, unquantifiable, I-Thou dimension of society, the compassion and humanity that can never be formalized as law but instead belong to the quality of relationships, to the idea that the poor, the widow, the orphan and the stranger are my brothers and sisters...


皆さまにとって良い週末となりますように。
次回6月11日のヨシェルの会も主の祝福と聖霊に満ちた一層素晴らしいひとときとなりますように。

Y