ナグササ湾の近くのアエタ部族訪問
4月10〜13日
私たちはサンアントニオ ザンバレスのナグササ湾の近くに住む別のアエタ部族を訪問、滞在し、最後の二日間は礼拝のときを持ちました。
サイドカー
私たちは一万ぺソ(二万一千円)でオートバイの横に取り付けるサイドカーを買いました。オートバイ(中古のユーロスターで二万八千ペソ)の持ち主はアリエスとレアです。
サイドカーには荷物、人を乗せます。
4月14日
ナグササ湾の近くに住むアエタ部族の訪問を終え、次にカワグに住むアエタ部族を訪問、滞在しました。そこで、私たちがバナナ商売を助けているアリエスとレアに会いました。バナナの供給はこのところの雨不足で減少しています。
写真上の中腰の婦人がレアです。サバとラテュンダンの二種類のバナナを売っています。
海外へ輸出する特別なバナナはミンダナオ産です。
4月15日
私たち(私と母グローリと娘エゼキエレ、そしてアエタ部族出身のアリエル)はケソン市に戻り、翌日、私とアリエルは伝道所/有機農園があるブラカンに行き、父がどうしているか見に行きました。
アブラ出身の少年、アジが父の面倒を見、ランボが農園の仕事をしています。翌日、母も来て料理などをして手伝ってくれました。父は一日中ハンモックで寝ていました。
アブラ出身の少年、アジが父の面倒を見、ランボが農園の仕事をしています。翌日、母も来て料理などをして手伝ってくれました。父は一日中ハンモックで寝ていました。
後から思えば不思議なこと
4月19日
父が六十九歳の誕生日を迎えました。
体調は少し悪かったのですが、お祝いに久しぶりにナグササ湾の海辺に行くということで、嬉しそうでした。料理をしながら、母は父に、神さまに人生を献げなさいと話していました。
体調は少し悪かったのですが、お祝いに久しぶりにナグササ湾の海辺に行くということで、嬉しそうでした。料理をしながら、母は父に、神さまに人生を献げなさいと話していました。
母が初めて見た光輝く父
父の死後、母は私に次のようなことを語ってくれました。「そのとき、あの人の頭の上に光を見た。彼は輝いているように見え、彼の服は綺麗にアイロンがかかって、清潔そうで、顔には笑みを浮かべていた。今までそんな彼の姿を見たことがなかった」と。
そのときの私はといえば、海辺に行く準備に追われて忙しくしていたので、父の様子をしっかり見ている暇がありませんでした。そして、その日の朝9時、私たちは車で出発。途中で母と弟のイアンは私たちと別れ、別行動で父と私たちはカワグに寄り、部族の人たちに子豚を与えたときはもう午後4時でした。
そのときの私はといえば、海辺に行く準備に追われて忙しくしていたので、父の様子をしっかり見ている暇がありませんでした。そして、その日の朝9時、私たちは車で出発。途中で母と弟のイアンは私たちと別れ、別行動で父と私たちはカワグに寄り、部族の人たちに子豚を与えたときはもう午後4時でした。
私たちはまだ昼食を取っていなかったこともあってか、同乗の父は少し疲れた様子でしたが、とにかく、ナグササ行きの船が出るサンアントニオまで車を走らせました。
サンアントニオに着いたのはすでに午後7時。その日はあいにく、教会暦のレントの休暇中で人が多く、駐車に手間取りました。ナグササに行く船は小さかったので、最初は私たちの荷物だけをまずナグササに運び、また戻ってきて今度は私たちを乗せてという段取りで、ナグササに行くまでにずいぶん時間がかかってしまいました。
ようやくナグササの島にたどり着いたときはもう夜中の午後11時40分。しばらく海辺で休んでいたら、父が気分が悪いというので手、胃のあたりをマッサージしたところ、彼は吐いてしまいました。父に薬と水を飲ませ、少し症状がおさまったと思ったら、また戻しました。服を着替えさせたところ、父は一言、「眠たい」と言いました。
竹で編んだベッドに父を寝かせた後、明日の朝はここでバーベキューをして父の誕生日を祝おうと、皆で確認した後、私たちも神さまに父のことを祈りながら午前2時ごろ砂浜で寝ました。一時間後、風のせいで私は目覚めトイレに行きました。その後、父にジャケットをかけて、私はまた眠りました。
安らかな父の最期
朝の5時半ごろ、同行していたアジが「お父さんが…」と言って私を起こしたのです。私は素早く起きて、父の身体を揺すりましたが、息をしていないのです。
警察が来て検分を行いました。アジに船を操縦できる人を探してもらい、父を船に乗せました。アエタ部族の人々も駆けつけ、彼らも私たちも父の突然の死を悼み泣きました。私は乗船中、息をしていない父を抱きながら、同行した皆と一緒にただ泣くばかりでした。
本島に到着後、私のもう一人の弟シップも来てともに泣きました。その後、葬儀の手続きを済ませ、父の遺体をザンバレスからケソン市に移しました。
警察が来て検分を行いました。アジに船を操縦できる人を探してもらい、父を船に乗せました。アエタ部族の人々も駆けつけ、彼らも私たちも父の突然の死を悼み泣きました。私は乗船中、息をしていない父を抱きながら、同行した皆と一緒にただ泣くばかりでした。
本島に到着後、私のもう一人の弟シップも来てともに泣きました。その後、葬儀の手続きを済ませ、父の遺体をザンバレスからケソン市に移しました。
後で知ったことですが、生前、父は親友たちに、誕生日に海辺で死にたいと言っていたそうです。
4月16日
左上は父の最後の写真です。近所の人が撮ってくれたそうです。写真の二人の子どもたちはいつも伝道所/有機農園に父を訪ねてきました。
4月22日
左上の写真を撮った日から六日後に父は亡くなり、今、お棺の中に入っています。
葬儀場にはナグササ湾のアエタ部族がいち早く駆けつけてくれました。
葬儀場にはナグササ湾のアエタ部族がいち早く駆けつけてくれました。
4月25日〜28日
父の葬儀が執り行われました。
4月27日
葬儀では、私たちの伝道の一環として、牧者たちが食べものと薬を用意し、私たちは子どもたちに学用品を手渡し、父兄も昼食に参加しました。