TRANSLATE

AD | all

神の国


神の国:救い主の招き

  1. 人間とは?
  2. 罪からの解放
  3. イエス・キリストの死、埋葬、甦り
  4. 信じるとは? -悔い改め、信仰告白、 水と聖霊とによるバプテスマ-
  5. 信仰の歩み -信仰義認、聖化、栄光化-

7.人間とは?

人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは
と、何世紀も前にイスラエルのダビデ王は、 「創造者なる神」讃歌の中で問いかけています。この問いは、人間喪失がちまたで問われるようになっている昨今、深刻さを増しています。核兵器の脅威、資源危機、環境汚染から予想される人類絶滅という悪夢、社会の無秩序化、コンピューター・システム化による情報過多、物事の変化の加速度化による混乱に加えて、気象異変、自然災害の増加等々、人類はかつてない危機に直面しています。
  • 人の起源は? 人が存在する理由は?
  • 人の価値は? 人の究極的な目的は?
これら果てしない疑問に、聖書は答えを与えています。 他でもない、人間が神のことばを無視してきたところに、今日の悪夢、混乱、諸悪の根本的な原因があるのです。神の光に照らすことによって初めて、真の人間理解ができ、人間の存在理由、価値、目的に答えを与えることができるのです。
あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。
わざわいの日が来ないうちに、また
「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。
太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。
...こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、
水がめは泉のかたわらで砕かれ...ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る...
神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、
すべてのわざをさばかれるからだ
と、伝道者は、人間の一生が神の御手の中にあることを語っています。 死から生き返った多くの人たちが体験談の中で、銀のひもによって肉の体が霊と結びつけられていたことを証言していますが、そのことはすでに聖書の中で語られているのです。
人間は、原始の時代に処女生殖で始まったのでも、進化の過程で偶然に存在するようになったのでもありません。 進化論を提唱したダーウィン自身、神を冒涜する間違った仮説を提唱してしまい、自分が考えていた以上にそれが悪用されてしまったことを悔い、晩年にはクリスチャンになり、《ヘブル人への手紙》を愛読したという事実はなぜか、進化論信奉者によって伏せられているのですが、人間は、最初から神の似姿を反映する、地における「神の代理人」、地のすべての生き物の支配者として、また、栄光と誉れある被造物として創造されたのです。人類の父祖アダムはちりから造られ、神のいのちの息を吹き込まれたことにより生きものとなった、とあるように、人間の本質が肉と霊の結合であることを、また、他の被造物とは全く異なる、その独自性、不思議、神秘を聖書は語っています。
霊、肉ともに完全に生かされ、神との正しい関係に生きることが人間のゴールであり、神の創造の目的なのです。神が、 見て、よしとされた 人間は、創造者なる神に認められただけで、 もう十分な存在価値があるのです。にもかかわらず、すでに天界からの脱落者であったサタンの誘惑にかかり、人間は罪を犯し、神から離れたことにより霊的に死に、罪に生きる者に成り下がってしまったのです。 新約の時代になり革命的な『福音』がもたらされたことにより、イエス・キリストを罪の奴隷から自分を解放してくださった救い主(へブル語でメシア、ギリシャ語でキリスト)と信じた者たちは、この世に在ってすでに信仰により、霊的に死んだ状態から解放されたのです。しかし、この世に在っては肉体の死は誰にでも訪れます。この肉の体が完全に贖われる新しい体、「永遠不死の甦りの体」が授けられ、キリストを待ち望む者が霊肉ともに完成されるのは、主の再臨のときであると聖書は語っています。
また、創造の最初、 人が、ひとりでいるのは良くない と考えられた神は、 人間を社会的な動物として、共同体の中で、相互の関係の中で生きる者として意図されました。父、子、聖霊、の愛の相互関係の中に生きておられる神ご自身の理想的な姿が創造に反映されているのです。この、神、人、すべての被造物の関係の完成図は、ヨハネの黙示録二十一章の新しいエルサレムに集約されています。神の贖いのご計画の終着点は、創造の初めに神が意図された永遠の都の再現なのです。
それではなぜ、人間の歴史はこんなにも大きく、神の御旨からそれてしまったのでしょう。神への反逆、罪について知る必要があるようです。

引用聖句/参考聖句:7.人間とは?

  1. 詩篇8:4、
  2. 伝道者の書12:1、:2、:6、:7、:13、:14、
  3. 創世記1:26~28、2:7、:21~22、詩篇8:5~8、使徒の働き17:26、
  4. 創世記2:7、
  5. ヨブ記10:8~12、詩篇139:13~16、
  6. 第一コリント7:29~35、第二コリント5:9、:15~17、
  7. イザヤ14:12~15、エゼキエル28:12~15、ルカ10:18
  8. ピリピ人3:21、
  9. 創世記2:18、

8.罪

今日の新聞、テレビ、ラジオの報道は、毎日のように、暴力、不正、無秩序、混乱、犯罪、憎悪、差別に満ちた社会の罪悪を描き出しています。これら諸悪の根源を他人や環境のせいにしてしまうことは、容易いことですが、果たして自分は潔白で、罪が全くないと言い切ることができるでしょうか? イエスは、姦淫の場で捕えられた女を、モーセの律法に従って石打にしようとした宗教指導者たちに、 あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい と言われました。
自分を見つめたとき、あなたは、 他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。 さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。... 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、 かえって、したくない悪を行なっています と、使徒パウロが語っているのが、 まさに自分の姿であると、素直に認めることができるでしょうか? 
全知全能の神の答えは、 すべての人は、罪を犯した... 義人はいない。ひとりもいない です。
あるいは、あなたは「皆がやっていることだから」と、罪を犯すことは人間の当たり前の本質だから、社会の法に触れるような犯罪でなければ問題ないと、軽くみなしてはいないでしょうか? それに対し聖書は、 人の心は何よりも陰険で、それは直らない... 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、 悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、 ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、 内側から出て、人を汚すのです と、問題の根源が、人間の行なうことにあるのではなく、 人間そのものにあることを、厳しく指摘しています。人間は、罪人であるがゆえに、罪を犯すのです。
へブル語聖書に記されているイスラエルの民の神に対する反逆の歴史は、神が愛の神であると同時に、ご自身 あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、私を憎む者には、 父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし と宣言されたように、 罪に容赦なく報われる「怒りの神」でもあることを語っています。出エジプト後、荒野で、不平、不満に明け暮れるイスラエルの民のために執り成し、何度も神の怒りをなだめて来た、神に忠実な者と認められたあのモーセでさえ、たった一度、神のご命令通りに行なわなかったことによって、乳と蜜の流れる地カナンに入ることが許されなかったことを聖書は記しています。
では、聖書が語る罪、神の視点から見た罪とは、 一体どのような罪でしょうか?
神の完全な基準に達することができない者はすべて罪人であり、犯した罪は必ず裁かれるというのが聖書の答えです。すなわち、神の権威と掟に従わない故意の反逆はすべて罪なのです。選択の自由が与えられている人間は、罪を犯す(神の御旨に服従しない)道を選ぶことによって、神に反逆しているのです。   義なる神は、決して罪を見過ごされることはありません。この世の目をごまかすことはできても、神の目をごまかすことはできません。
私たちは、おのおの自分のことを 神の御前に申し開きすることになります とパウロが語っている、 私たちの死後訪れる神の裁きを、だれも免れることはできないのです。 ヨハネの黙示録20:11~15は、最後の審判の光景を描写していますが、いのちの書に名が記されていない者はすべて火の池(地獄)に投げ込まれ、永遠の苦しみを受けることになるとはっきり告げています。

引用聖句/参考聖句:8.罪

  1. ヨハネ8:7、
  2. ローマ人2:1、7:19、
  3. ヨブ記37:23、エレミヤ32:27、
  4. 詩篇14:1~3、ローマ人3:23、:10~12、
  5. エレミヤ17:9、
  6. マルコ7:21~23、
  7. 出エジプト20:5、
  8. 出エジプト32:7~10、
  9. 民数記11:1~3、14:18~20、21:6~9、
  10. 民数記12:7~8、
  11. 民数記20:9~13、27:12~14、申命記1:37、3:23~27、
  12. 申命記4:23~26、ヨシュア24:19、ナホム1:2~3、
  13. ローマ人14:12、
  14. ヘブル人9:27、
  15. ヨハネの黙示録20:10、

9.罪からの解放

「地獄」と聞いて、複雑な反応を示される方が少なからずおられると思います。死んだらどうなるのか?という疑問は、色々な考えを生み出してきました。死んだら何も残らない、苦しみも喜びもなく、それですべてが終わると考える人から、すべての者が天国に行くとか、あの世には、罪深い魂が天国に入るために備えられる場所があると信じる人まで、様々です。しかし、聖書は、このいずれの考えも支持していません。
主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、 永遠の滅びの刑罰を受けるのです、と記されているように、 罪人の行く先は、神から引き離された永遠の苦しみの場、地獄です。 イエスが、ラザロ、アブラハムという固有名詞を用いて神から引き離された場の恐ろしさをありありと語られたのは、このたとえが人々に警告を告げるために作り上げられた架空のことではなく、現実のことであることを意義深く語っています。
それでは、私たち罪人が、 神の裁きから逃れる道はあるのでしょうか?
あります。 注意深くここまで読み進んでこられた読者はすでに、いのちの書(6、8章で言及)とは何のことだろうか?と、関心を持たれたことでしょう。最後までいのちの書に名が記されていることが、永遠の滅びから免れる道であると、聖書は語っています。もっと厳密に言えば、小羊のいのちの書に名の記されている者は滅びに至る裁きを免れることもできるのです。
人間は、宗教的な動物と言われています。 人間は自らの宗教心を満たすために、太古の昔から神を崇拝してきました。神のご命令、警告にもかかわらず、太陽、月、星、火、水、木、石、鳥、動物、等々、この地上にあるすべてのものが崇拝の対象になってきました。また、神を崇拝するつもりがいつの間にか、犠牲(いけにえ)を捧げることとか、宗教的な儀式を行なうこととか、聖典、礼拝を守ることであるかのような曲解も生じてきました。
果たして、神のためと称して、自らの宗教心を満足させ安心させるため 何か宗教的なこと、霊的なことをすることが、いのちの書に名が記されることでしょうか?これに対し、聖書ははっきりと、 神は、 何かに不自由なことでもあるかのように、 人の手によって仕えられる必要はありません、 また、 人は神の役に立つことができようか。 賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。 あなたが正しくても、それが全能者に何の喜びであろうか。 あなたの道が潔白であっても、それが何の益になろう と語っています。
聖いものを人間の汚れた器から出すことができないことをご存じの神は、宗教的な努力、行為によって救われようとすることの空しさを至るところで語っておられます。神が人間に求めておられるのは、絶対的な服従のみなのです。
このように、人間の手による宗教によって、人間は全き神を満足させることはできません。宗教は、人間の罪深い本質を変えるどころか、罪を取り除くことすら出来ないのです。では、絶大な創造者の前になす術もなく、人間はただ自分の無力さに絶望感を抱かざるを得ないのでしょうか?
しかし、愛の神は絶望のどん底にある人間に、 救いの光を送って下さいました!  主を求め従う者の名が小羊のいのちの書に記され、永遠の救いに入れられるようにと、イエス・キリストをすべての人間の救い主としてこの世に送ってくださったのです。
聖書は、 この方以外には、だれによっても救いはありません。 世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、 どのような名も、人間に与えられていないからです と、イエス・キリストが、 人間が救われる唯一の道であることを教えています。

引用聖句/参考聖句:9.罪からの解放

  1. 第二テサロニケ1:9、
  2. イザヤ33:14、マタイ13:42、
  3. ルカ16:19~31、
  4. 出エジプト記20:4、申命記4:16~19、イザヤ44:9~17、
  5. コロサイ人2:21~23、
  6. 使徒の働き17:25、
  7. ヨブ記22:2~3、
  8. ヨブ記14:4、
  9. エレミヤ2:13、ローマ人1:19~25、
  10. イザヤ40:9~31、45:5~25、
  11. 使徒の働き4:12、
  12. ヨハネ14:6、

10.イエス・キリストの死、埋葬、甦り

神は罪を憎まれます。が、他方で、罪人を愛し赦そうとされるのも神です。神の掟が罪人に霊と肉との死を宣告しているのに、この死を免れることができるとしたら、神ご自身が与えてくださる解決以外に方法がないことは明らかです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、
世を愛された。
それは御子を信じる者が、 ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである
と記されているように、 天地創造の前から神とともにおられ、創造に携わられた、完全な神であるイエス・キリストが、また完全な人間として、この世の罪を負うために、来てくださったのです。
聖書のすべての教えの中心は、イエスの死、埋葬、甦りに置かれています。旧約時代の聖者たちは、この世に救い主(ユダヤ人の王、メシア)が来ることを待ち望んできましたし、新約時代に生き、すでに主の御許に召されたクリスチャンたちも、また今日生きているクリスチャンたちも、人類の救いのために主イエス・キリストが十字架上で達成してくださったことにいつも立ち帰り、信仰を持ち続けてきました。
信じない者にとっては、不愉快で、 ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなキリストの十字架が、 クリスチャンにとっては、なぜ神の力なのでしょう?
イエスが、十字架上で死ななければならなかった背景には、主に次の三つの要因がありました。
  1. 悪を見逃されることのない聖なる神の罪に対する怒りをなだめるには、神の愛、憐れみによる以外に方法がないということ
  2. 旧約時代、動物の血によって人間の罪の贖いが行なわれていましたが、無傷、欠損のない動物犠牲による贖いにも、故意ではない罪だけを贖うという限界があったということ
  3. すべては、神のご計画のもとで、神がイニシアティブを取られてなされたと同時に、イエスが人間の罪を担う神の小羊として、進んで神の御旨に従い、へブル語聖書の預言を成就してくださったということ
イエスは、極悪人として十字架に処刑されるという一見敗北とも思えるような屈辱的な死から甦られることにより、イエスを信じる者に勝利をもたらしてくださったのです。イエスは、すべての人間(罪人)を罪から、また律法の力から解放してくださっただけでなく、 神は、十字架において、 すべての支配と権威の武装を解除して、さらしものとし、 彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました とあるように、 人間を虜にしていた悪の力からも解放してくださったのです。
したがって、今、イエス・キリストを信じる者は、キリストによって神と和解させられたのであり、神との正しい関係に戻されたことによって、神の怒り、罪、律法、そして、死から完全に解放されたのです。旧約の動物犠牲では達成することができなかった罪人の救いを、イエスはただ一度、ご自身を犠牲として捧げることにより達成してくださったのです。
これが滅びに至るしかなかった罪人にとって『福音』(良い知らせ)でないとしたら、何が福音でしょう? クリスチャンが、イエス・キリストを仰ぎ見るのは、イエスこそ唯一、真(まこと)の救い主だからです。

引用聖句/参考聖句:10.イエス・キリストの死、埋葬、甦り

  1. ヨハネ3:16、
  2. コリント人1:15~17、
  3. 第一ヨハネ4:9、
  4. 第一コリント1:18、:23、
  5. ローマ人3:23~25、ヘブル人10:22、
  6. レビ記1~7章、16章、民数記15:22~31、ヘブル人9:7、
  7. 使徒の働き2:23、3:18、13:29~30、第一コリント15:3~4、ガラテヤ人1:4、
  8. コロサイ人2:15、
  9. ローマ人5~8章、第二コリント5:17~21、
  10. ヘブル人9:12、:25~26

11.信じるとは?-悔い改め、信仰告白、 水と聖霊とによるバプテスマ-

私たちは、イエスが十字架上で死なれ、葬られ、甦られ、悪の力を完全に克服してくださったことにより、信じる者には、「永遠の命」が与えられること、また、小羊のいのちの書に名が記されることにより、神の裁きから免れることができることを学んできました。
さて、この福音が、あなた自身の問題として、 関わってきたでしょうか?
「イエス・キリストを信ずる信仰によって救われる」という『福音』を聞き、自分も救われたいと思うあなたが次に踏むステップは、あなた自身の罪を悔い改めて、主イエス・キリストを、天の父なる神(ヤーウエ)が人類救済のため地上に送られた御子、油注がれたユダヤ人の王「救い主」として受け入れ、「水と聖霊とによるバプテスマ(洗礼)」を受けることです。
それでは、悔い改めるとはどういうことでしょうか? 神の御前に自分の犯した罪を告白し、過去(無意識のうちに、あるいは、意図的に)神を無視し、神の御旨に反逆してきた自らの態度を改め、人生の百八十度の方向転換をすることです。過去の罪深い自分とは縁を切り、完全に心を入れ替えて、神を喜ばせる道を歩む決意をすることです。真の悔い改めには、当然、悔い改めに相応しい行ないが伴われます。
次に、イエス・キリストを信じるとは、 イエスを私たち(人間ひとりひとり)の罪のために死んでくださった生ける神の御子キリストとして、受け入れることです。これは、イエスが世界宗教、偶像神の温床地で弟子たちに、ご自分をだれだと思っているのかと尋ねられたとき、弟子シモン・ペテロが信仰表明した言葉でした。
イエスご自身、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 私を通してでなければ、 だれひとり父のみもとに来ることはありません と言明されたように、 キリストのみが救いに至る唯一の道であることを信じ、自らを主の御手に完全に委ねていくことです。罪深い自分に神に対して何もできないことが分かっているので、神の御手に自らを任せるのです。
あなたは章を追ってここまで読み進んでこられました。 すでに心の中に 二千年前ガリラヤ地方に住まわれたナザレ人イエスを あなたの救い主として受け入れ始めたでしょうか?
聖書は、 あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で 神はイエスを死人の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、 あなたは救われる、 また、 主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる と語っていますが、信じた今、口で告白することが大切です。 ヘブル人への手紙の著者は、 今日、もし御声を聞くならば...心をかたくなにしてはならない と、今日聖書を読んでいる私たちにも決意を迫っています。 決断の時は、今です。
最後のステップは、イエスの名による全身浸水礼(水のバプテスマ、洗礼)と、天からの浸礼(聖霊によるバプテスマ)とを受けることです。それによって、あなたはキリストの証し人、クリスチャンとしてのスタート台に立つことになります。
「聖霊によるバプテスマ」はイエスの場合、祈っておられると御霊が下ったと記されているように「水のバプテスマ」に引き続いて起こることが多いのですが、時を経て授かることも、あるいは、水のバプテスマに先立って授かることもあります。いずれにせよ、水のバプテスマと同様、本人にも周りの人たちにもそれとわかる体験、現象であることを聖書は明確にしています。
バプテスマにより、主イエスとの個人的な関係の基と、永遠の救いの基が築かれたことになり、クリスチャンとしての信仰の歩みはここから始まるのです。それでは、最後の章で、聖書の語る救いについて学ぶことにしましょう。

引用聖句/参考聖句:11.信じるとは?

  1. 使徒の働き3:19、エペソ人5:8~10、
  2. ルカ3:8、使徒の働き26:20、マタイ3:8、
  3. マタイ16:16、第一コリント15:3、
  4. ヨハネ14:6、
  5. ヘブル人7:25、
  6. ローマ人10:9、
  7. ローマ人10:13、
  8. ヘブル人3:7~8、:15、4:7、
  9. マルコ16:16、使徒の働き2:38、
  10. ルカ3:21~22、
  11. 使徒の働き8:15~17、
  12. 使徒の働き10:46、
  13. 使徒の働き19:2~6、ガラテヤ人3:2~4、

12.信仰の歩み -信仰義認、聖化、栄光化-

信仰生活とは、歩み出した道を踏み外すことがないように、最後まで忍耐をもって走りぬくことです。後に起こることをすでにお見通しのイエスが、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか、また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います...しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われますと、世の終わりまで信仰を持ち続けることが容易ではないことをすでに示唆しておられますが、信仰には「一度救われたら、永遠に救われる」という免罪符はありません。とはいえ、神のみ旨は、すべての人間を救うことです。
聖書が語る救いには、次の三つのステップがあります。
  1. 数ある様々な宗教の中でキリスト教だけが、信仰による義認を唱えています。信仰義認とは、神が信じる者を罪人のままで、キリストの十字架上での贖いによって義人(神の律法を全うした者)とみなしてくださるということです。神の側から愛の御手を差し伸べてくださり、それに応えた者には、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています...
    今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありませんとあるように、神の子たちとしての特権を与えてくださるのです。
  2. 業によってではなく、良い業をするために救われたクリスチャンは、神の御心にかなった生活をするように心がけなければなりません。キリストに似た者になることを目指して、聖霊の助けによる聖化の生活が始まるのです。祈りによって、日々罪の赦しを請い、すべてのことに感謝を捧げ、そして心の願いを申し上げ、また、聖書を通して、祈りを通して、神の御旨を知り、キリストに在る兄弟姉妹と交わりのときを持ち、神のご命令に従い、聖徒に相応しい生活をすることによって、救いに向かっての成長が始まるのです。
  3. クリスチャンの信仰の歩みは、イエス・キリストがこの地上に再臨されるとき、すなわち、信じる者が、栄光あるものによみがえらされるとき、栄光化によって完成されます。
栄光化とは、 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、 私たちの卑しいからだを、 ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、 栄光のうちに現れます。
パウロが、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙で語ったように、永遠に生きる甦りの体が与えられるとき起こる、最後まで耐えて信じ続けた者たちに与えられる報酬のことなのです。旧約時代の預言者ダニエルも、思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、代々限りなく、星のようになると、神とともに永遠に生きる者たちの栄光の姿、状態をキリストご降誕六百年も前に描写したのでした。
この誘惑の多い悪に満ちた世、神の王国とサタンの王国とが共存しているこの世に在って、神の声を聞き、御旨に従って生きていくことは楽な道ではありません。この世の終わりに、人々は耳に聞こえの良い教えにそれていき、選民、聖徒ですら騙される時が来ることを聖書は語っています。
ヘブル人への手紙の著者は、一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできませんと警告し、パウロの弟子テモテも、信仰の破船に会う者がいることを記し、また、神ご自身いのちの書にある名前が消されることがあり得ることを明らかにしておられます。
しかし、絶えず目を覚まし、最後まで神の御旨に従って生き続ける者は、神の武具 ―腰に真理の帯、胸に正義の胸当て、足に平和の福音、頭に救いのかぶと、手に信仰の大盾、口に神のことば― を身に帯びて、悪霊の力から守られ、最後の勝利を勝ち取ることができるのです。どんな試練のときにも信じる者をイエスご自身が守って下さると約束されたのですから、拠るすべのないこの世に在って、キリストに従っていくに勝る確かな道はないといえましょう。
イエス・キリストを受け入れたい、信じたいと思われたあなたに、7~12章で 人間とは? 罪とは? キリストの贖いの死とは? 信仰とは?信じた後は? 等々様々な疑問について解説してきました。

引用聖句/参考聖句:12.信仰の歩み

  1. 第一コリント9:24~27、ヘブル人12:1、
  2. ルカ18:8、
  3. マタイ24:10~13、
  4. ヨハネ6:39~40、
  5. ローマ人5:1、
  6. ローマ人8:1、
  7. ローマ人8:14~17、
  8. エペソ人2:10、
  9. ピリピ人2:3~8、第一テサロニケ4:3~7、
  10. 第一ヨハネ1:9、
  11. ピリピ人4:6、
  12. 第一ペテロ1:14~16、2:2、
  13. 第一コリント15:43、ピリピ人3:21、コロサイ人3:4、ダニエル12:3、
  14. マルコ13:6、:22、ルカ21:8、第二テモテ4:3~4、
  15. ヘブル人6:4~6、
  16. 第一テモテ1:19~20、
  17. 出エジプト32:33、
  18. エペソ人6:10~18、第一コリント9:27、15:57~58、第一ヨハネ5:3~4、
  19. ピリピ人3:8~12、ヨハネの黙示録3:10~11、第一コリント1:8、第一テサロニケ5:23~24、列王記第二6:15~17、詩篇91篇、
  20. マタイ28:19~20、マルコ16:15、ルカ24:47、

《旧(へブル語)、新約聖書への招き》、《救い主の招き》で解説してきたのは、聖書に記されている神のご計画を、鳥がはるか上空から地を眺め下ろして一瞬の内に広範囲を見渡すことができるように、最初から最後までを簡潔にさらったものでした。神の深遠なご計画の大まかな全体像がつかめたところで、さらに詳しい聖書の学びに取り組んでください。