ダニーをしのんで
2015年2月3日
親愛なるフルダミニストリーの皆さま
伝道所があるブラカン(Bulacan)から帰って、今ノバリッチズ(Novaliches)にある、私の母のところに滞在しています。以下、その後の報告をいたします。
1月29日の夜、ダニーの兄妹、それに彼のおじ、めい、いとこの合わせて十人が私の母の家で泊まり、翌日の朝、皆で、ブラカンの伝道所と農園に行き、ダニーのための祈りと賛美を捧げました。
ダニーがいかに伝道所、農園の仕事、―井戸、有機ガスタンクの設置、豚小屋、nipa hut(ニパ 小屋)の建設、農園計画など― に献身したかを皆に見てもらい、近所の人々にも、ダニーの親族を紹介しました。彼らは一日をそこで過ごし、夕方、アブラ(Abra)に帰りました。その日、彼らは私に、ダニーのここに来る前の私生活について話してくれました。
それは次のようなものでした。
「彼と妻の間は長年うまくいっておらず、特に金銭面でトラブルがあり、妻は四人の子どもたちの養育のため、彼にお金を稼ぐように、プレッシャーをかけていた。彼は、2008~2009年、小さな鉱山で働くなど、いろいろな仕事をしてきたが、2013年には、彼の妻は子どもたちを連れて家を出、彼女の田舎に帰った。妻の兄弟、家族は彼のことを虫けらのようにみなしていた。」
そのようなとき、2013年6月、アブラにいたダニーは彼の二人の甥とともに私たちの農園で働くようになったのです。彼が私たちといっしょに働いた二年弱の間に、彼は運転免許証およびパスポートの取得をし、銀行口座の開設もしました。
昨年のクリスマスに休暇をとって田舎に帰ったとき、彼は妻の兄弟(彼の悪口をさんざん言っていた)にパスポート、運転免許証などを誇らしげに見せたそうです。
しかし、この1月2日に伝道所に戻ってきたとき、彼は何か神経がピリピリした感じで、いつも考えこんでいたり、天を仰ぎ、深いため息をついたりしていました。私や、私の父、叔母が「何かあったの?」と聞いても彼は何も打ち明けませんでした。
この2月1日、近所の人々に集まってもらい、私たちは伝道所で再び、祈りと賛美をささげました。そのとき、私たちは生前のダニーについて語り合いました。私たちが話したことは次のようなことです。
近所の人たちは「彼はちょっとした雑用でも本当によく引き受けてくれた。後から考えると、あたかも彼の好意が後々までも想いだされるように、そのことが彼の遺産として残るようにと、心づもりしていたかのように思われる。でも彼は何か、ことを急いでるようだった」と話してくれました。また1月12日(ダニーの誕生日)、叔母がダニーの誕生祝いの料理を作っているときのことでした。ダニーはふと「もうあと二、三日だ」とつぶやくように言ったのです。叔母はすかさず、「何が二、三日?」と聞き返しましたが、彼は何も答えませんでした。またダニーは、彼の親友と甥に、こんなことも言ったそうです。「もしぼく(ダニー)がいなくなるようなことがあれば、メアリー・ジェインがかわいそうだな」と。そのようなことを言うダニーを、彼らは何か変だと思ったのでした。
私自身、1月18日に、奇怪な夢を見ました(今でもよく覚えています)。それは、ダニーが半身裸で横たわり、そばに半身がへびのような黒髪で短髪の女性がいて、彼女は私に向かってみだらな、不気味な笑いをうかべて、彼の後ろに回ったのです。私は即座に、イエス・キリストの名において祈り、「悪魔よ、ダニーから出て行け!」と二、三回叫んだところで、目が覚めたのです。私はダニーに、その夢のことを話して「女性かだれかを傷つけたことはない?」と尋ねました。彼は「だれもいない」と答え、彼自身も、自分の生活が山奥の中にいるような困難な状況にある夢を見たと、話しました。そこで私は彼に、主に赦しを請い、その夢について祈るようにと勧めました。
以上が、私がダニーの親族や友たちと分かち合った事がらです。
2月2日、私は農園に行って、豚のえさやり、野菜の水やりや、やぎを外に出したりなどの作業を、叔母、隣人のテレサ、アシたちの助けを借りて、まさに奮闘しながらやりました。ダニーがいなくなったということが、いかに大きな損失であるかを、改めて実感させられました。ダニーの助手であった二人の少年は、ショックと恐怖で戻ってきていません。
目撃者の話によれば、ダニーが撃たれたとき、彼はオートバイを何とか止め、助けを求め立ち上がろうとし、そのまま力なくくずおれてしまったのでした。救急隊が来たときにはもう彼の息はなかったとのことです。本当に悲劇でした。
だれが、何の理由で彼を撃ったのか、果たして彼だけが標的だったのだろうか?と、思いを巡らすにつけ、今でも私の胸は刺し通されたかのようにずきずき痛みます。そして殺人者が戻ってきて、伝道所にいる私たちを狙うのではないかと、考えたりします。
私の家族と隣人は、次は何が起こるか分からないので、できるだけ伝道所に近づかないほうがよいとも言い、隣人の間にも恐怖と困惑が広がり、多くの憶測話が飛び交っています。
警察は、「フィリピンには正義公道がない」と言っていますので、この事件も闇のなかに葬られることになると思います。過去、政治家が暗殺されたときも同様でした。
私は、今、何をなすべきか、わからない状態です。
私は、ダニーの弟や妹たちに農園を手伝って欲しいと話しましたが、彼らは子どもたちの世話で手が放せないと言います。農園での働き手について、皆さま、どうか祈ってください。
私は昨日と、今日の朝、土壌と野菜に塩をまきながら農園、伝道所が続けられるようにと祈りました。「塩」は、神がブラカン(Bulacan)で伝道所、農園を始められ、維持されるという象徴です。私は重い心で、伝道所、農園の仕事をしながら(これは、ダニーが毎日、やってくれていたことです)、神に祈り泣き叫びました。
ダニーの助手二人が怖れとショックで再びこの農園に戻って仕事をするかどうか分らない現状もあわせ、私は今、無援、孤独で気分が落ち込んでいます。
どうか私のためにお祈りください。
まだ悲しみの中にあって メアリー ジェイン
追伸:
言い忘れましたが、私の両親と隣人は、安全のため伝道所に寝どまりするのをやめたほうがよいと言っていますので、現在、隣人が農園と伝道所の世話をしてくれています。ダニーは妻と子どもたちとのトラブルについては全く私に語りませんでした。ミニストリーからの彼の毎月の給料すべてを家族に送るとだけ言っていました。
アブラ(Abra)での彼らの生活がどんなに困難で貧しいものであるかを私は知っています。私は、彼の田舎、サパル(Sap-al)には行ったことがありません。アブラには何度も行きましたが、サパルとは違います。
アブラの中心都市バングエド(Bangued)は、ケソンシティー(首都マニラ北東部にある隣接都市)からバスで八~十時間のところにあり、そこからjeepney(小型乗合バス)に揺られること六時間、ラクブ(Lacub)まで行き、そこからさらに徒歩で二時間かけてやっとブネグ(Buneg)。そこには、ダニーの兄が住み、部族のキリスト教会があります。そこからさらに徒歩で六時間かけて、ようやく彼の故郷サパルにたどり着くのです。
ダニーともう二年近く会っていない彼の母親はそのような遠方におり、歩けないので、彼の葬儀に出席することができず、ダニーの死を非常にいたみ悲しんだとのことです。また彼の親族の話によれば、1月28日の朝の葬儀のとき、彼らは遺体となったダニーの目から、涙がこぼれ落ちるのを見たというのです。
ダニーは、2013年6月にアブラを去ってから、兄弟たちに一度も会っていませんでした。それを聞いて、私の胸は突き刺されたように痛みました。
2013年の6月中旬にダニーが農園を手伝ってくれるようになってから、私は、休暇を取って兄妹、親族の者たちを訪ねるようにと、ダニーに勧めていましたが、ダニーは、娘たちをはるかに愛していました。去年、ダニーはアウロラ(Aurora)の娘たちのところへは二度戻ったのでした。
私は、ダニーがいかに娘たちを愛していたかを知っていました。ですから、彼は彼女たちには学校を卒業させたいと常々言っていました。ただ彼の妻のことについては、ダニーは一言も口にしませんでした。今、私は、ダニーが私に話してくれたこと、知らせてくれたことを一つひとつ思い出しています。
どうか落ち込んでいる私のために神の導きをお祈り下さい。
愛をこめて メアリー ジェイン
2015年2月4日
今日は丸1日、ノバリッチズ(Novaliches)の母の家で過ごしました。
両親と隣人は私が伝道所に滞在することを望んでいません。その理由は、あのダニーを撃った犯人は、彼が射殺される数分前に私が彼といっしょだったことを見ているので、次は私を襲うかもしれないと、皆、心配しているからです。
ダニーは人違いで撃たれたに違いないという者もいれば、いや、単なる路上のオートバイ同士の喧嘩だという者もおり、あるいは、彼のパスポート、免許証などを見て羨ましく思って襲ったに違いないという者もおりで、それぞれ、いろいろなことを言うので私は考えこんでしまいます。
1月29日、2月1日の伝道所での集会、―ダニーの親族の訪問― は問題なく、終えることができました。しかし、その後も周りの人たちは、まだ犯人が捕まらず、襲撃の理由も不明なので、伝道所にいる私たちを殺しにやってくるかもしれないと、私たちに話すので、ただでさえショックの中にいるのに、余計、気が落ちこんでいます。
ああ、皆さま、どうか私が恐怖と落胆、そしてこの悲劇に立ち向かう力を神さまが与えてくださるようにと、また私をただ利用するだけではない真の良き働き手を送ってくださるようにと、お祈りください。
ダニーが伝道所で働くようになる前、デュマガットの家族が私と一緒にここに住んだことがあります。2012年に、彼らの息子が私の支援のもと大学を卒業しました。しかしその七年間、特にミニストリーの進展は何もありませんでした。私が、隣人の井戸から水を汲んだり、雑草を手作業で取ったりして、大部分の時間を費やしていたのでした。その間、デュマガットの家族は私の援助をあてにするだけの生活で、私としてもそれしかやりようがなかったのです。
しかし、今では、すでに伝道所、農園には進展がみられます。ダニーが亡くなったいま、私には神さまが次に何をされるおつもりなのか、分かりません。しかし私は、神さまに信頼を置くことを学んできました。
私はまだこのショックと悲しみから抜け出すことができないでいます。あの事件が起きたのはつい最近のことで、それゆえ、ダニーが死んで横たわっている光景が私の脳裏から離れないのです。どうか敵の攻撃に対してお祈りください。
ここにはいっしょに親密に私と祈ってくれる人がいません。私の祈りの友は皆さまがたとフィリピンの他の地方にいる友たちです。私は娘とともに祈っています。
私は2月11日~14日まで伝道所に滞在する予定です。どうかお祈り下さい。
私はあなたが送ってくださったe-mailで引き続き励まされています。
「彼の死がどんなに私たちにとって大きな損失であろうとも、そのことを許されたのは神さまで、ダニーの魂を救うためだったのです…」
この言葉やその他のあなたからのe-mailsで、私の気持ちは楽になりました。私も周りの人たちも、ただ恐れを抱くのではなく、私は、この励ましの言葉を私の周りの人たちにも理解してもらおうと思っています。どうか私のためにお祈りください。
まだ私は悲しみの中にいますがそれでも多くの愛をこめて
メアリー ジェイン