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第237号 マタイの福音書4:1-11

悪魔の誘惑、攻撃に勝つために神が備えてくださった手段、神の言葉『聖書』

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当ることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。             マタイの福音書4:1-11
キリストは、水と御霊のバプテスマを受けられた直後、公の宣教活動を始められる直前に、御霊に導かれて荒野に行かれ四十日四十夜断食されました。悪魔がキリストに挑戦したのは、キリストが身体的に一番弱っておられた極限状態のときでした。キリストの上に御霊が下り、父の愛と御力に満たされた直後に、悪魔がキリストに挑んだということに留意することは大切です。悪魔がキリストに挑んだと同じように、キリストを受け入れ、御霊によって歩み始めた者たち、キリストのしもべたちは、悪魔の誘惑、攻撃の格好の対象となるのです。自分の王国を脅かす者たちに、悪魔の誘惑、攻撃は容赦なく臨みます。
興味深いことに、長期間の断食では、第二、三日目が非常に苦しく、四日目以降は続く三十七日まで、比較的楽になると言われています。しかし、四十日目頃には医学的に、人は食物が絶対に必要になるとのことです。ですから、四十日四十夜の断食後という、このときのキリストの状態はまさに何が何でも身体が食物を必要とする状態で、もはや随意で必要という状態ではなかったのでした。「試みる者」サタンの挑戦はすべて「もし~なら」というパタンで表現されていますが、この表現は修辞的用法で、「あなたは~であるのだから~せよ」の意で用いられているようです。
サタンはキリストの出自を知りながら、不遜にも「人」の肉の弱さに挑戦したのでした。キリストのお答えは三度とも御言葉での反撃でした。しかも、そのとき臨機応変にキリストご自身が語られたお言葉ではなく、「書かれた言葉」での応答でした。キリストの時代の「書かれた言葉」とはヘブル語聖書の巻き物のことで、今日私たちが用いている旧約聖書と全く同じ書です。キリストがサタンに打ち勝たれたのが、すべてこの聖書の中の御言葉によってであったという事実は、キリスト者が、聖書の力と権威に開眼する必要を教えています。容赦ないサタンの攻撃に対し、信仰生活を勝利で終えるための最大の武器は手元にあるのです。サタンの支配下に置かれているこの世にあって、神の言葉『聖書』は、信じる者の安全を守る唯一の避け所です。

キリストが用いられた御言葉はすべて、モーセ五書の『申命記』からの引用でした。悪魔の最初の試みに対し、キリストが引用された申命記8:3は、イスラエルの民が荒野で四十年間、試練のときを過ごさなければならなかったとき、神が語られたお言葉で、そのとき神は、天からのパン「マナ」で民を養われたのでした。民は、何もない荒野で主のご命令に従うとき、身体の要求が満たされるだけでなく、すべてが添えて与えられることを、多くの奇蹟、―神のご介入― を通して学んだのでした。キリストは、悪魔にその「書かれた言葉」を示すことによって、ただ神に従うようにと、命じられたのでした。
ヨハネの福音書には七つの「わたしは~です」宣言が載せられていますが、キリストは後に、「わたしはいのちのパンです」と言われ、ご自身を天からのパン「マナ」に関連づけられました。預言者エレミヤが
「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」(エレミヤ書15:16)
と語った御言葉とはまさにこのマナのことで、他でもないキリストご自身のことでした。

次に悪魔はキリストをエルサレムの「神殿の頂」に連れて行きました。ここには、超自然的な現象で、場所の移動が起こったことがほのめかされているようです。そこは、逃げるに逃げられない窮地、神殿の尖塔のことかもしれません。サタン自身、神の御旨、ご計画が顕されている聖書によく通じており、神の子に対する御使いの守りが約束されている詩篇91:11-12を引用して、キリストに、御言葉を行動で立証するよう挑みました。
マラキ書には、「こうしてわたしをためしてみよ」という、神の挑戦的な応答が記されています。この聖句は、神が挑戦する者に「ご自分を試すこと」を許されるということをほのめかしています。言い換えれば、神は「試すこと」をご自身、提供され、人はそれを拒もうとしても抵抗できないというのが、文意のようです。この世の支配者として、神に反逆する者たちを従えている「試みる者」サタンは、力において神と対等であるかのような印象を与えますが、神の許される範囲で人を誘惑し、試み、攻撃することができるだけで、むしろ、神の視点からは、そうすることから自らを制御できない被造物にすぎないという表現のほうが、当を得ているのです。

悪魔は最後に、キリストの御目的が人が神への反逆のゆえに失ったこの世の支配権を人の手に取り戻すことであることを知って、自分を拝めばこの世を手渡すとの取引を提供しました。自分こそ神であるとの幻覚にとりつかれ、神に反逆し続けている堕天使ルシファーことサタンにとって、全被造物を支配下に置き、崇拝されることは悲願です。しかし、キリストは、悪魔が提供した、サタン崇拝との引き換えにこの世を獲得する一見安逸な、しかし、恐ろしい破滅の道ではなく、ご自分をいけにえとして捧げる十字架を通してのこの世の奪還と人類の救いの道(苦難の、しかし、究極的な勝利の道)を選ばれたのでした。イスラエルの族長時代、イサクの長男エサウが、一時的な肉の欲求を満たすため、弟ヤコブの誘惑に負け、神からの霊的祝福である「長子の権利」を軽蔑し、いとも簡単に失ってしまったのとは正反対の神への従順がキリストが選ばれた道でした。
この悪魔の最後の挑戦に応答してキリストは、聖句を私的な目的で間違って引用し、神の言葉を乱用したサタンに
「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」
と、「書かれた言葉」の権威で命じられました。主に命じられ、サタンはキリストの御許を離れざるを得ませんでした。神と違って偏在のサタンは場所に拘束される存在にすぎず、物理的にキリストから離れることで、敗北を認めざるを得なかったのでした。

詩篇2篇は
「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは…主と、主に油そそがれた者とに逆らう…天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる…それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ…主が怒り、おまえたちが道で滅びないために…幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は」
と、この世の常が神への反逆であること、しかし、神に反逆するこの世の諸王国、諸国民の行く末はついには神の御子の支配下に置かれることであることを告知しています。黙示録には、このようにヘブル語(旧約)聖書の至るところで予告されたことが、キリストによってついに成就することが詳細に告げられています。ヘブル語聖書がキリストによる救済の予告篇であれば、新約聖書は解決篇で、両聖書のすべての書には、神の御子、救い主イエス・キリストが証しされています。キリストご自身が神の救済手段「神の言葉」で、信じる者の唯一の避け所です。
キリスト者は、悪魔の支配するこの世にあって、「神の言葉」を避け所として最後まで忍耐強く信仰を持ち続けるなら、悪魔を筆頭に、神に反逆し続けたこの世の諸王国、諸国民が裁かれ、滅びるとき、だれの目にも明らかな遺産、―神の国と永遠の生命― を受け継ぐことになるのです。

キリストが悪の権化サタンに、「書かれた言葉」だけで勝利されたのであれば、キリスト者も師にならって、悪魔の誘惑に対する武器が御言葉、『聖書』であることを銘記することは必須です。太古から、生命を創造することも、生命の泉なる神ご自身から流れる生命の水を止める力もない悪魔は、生命の水を汚染することを試みてきました。悪魔の策略はすべて、人が神の生命に与ることがないように、神に由来する聖いものに混ぜ物をして、人を神から引き離し、反逆させることです。
悪魔は、神の秩序と真理に逆らうありとあらゆる教え、慣習、宗教、迷信をこの世に導入してきました。その結果は無秩序と混乱、今日この世に満ちている不道徳、暴力、犯罪、戦争、社会と家庭の破壊です。キリストの教会に対しても、悪魔は数多くの反キリスト、偽教師、偽預言者を送り込み、真理への疑問や異端的教えをはびこらせ、信仰破壊を執拗に繰り返してきました。人間史上、どんなに多くの人々が、サタンの罠に落ちて滅びに至ったことでしょう。神にとって最大の悲しみに違いありません。

サタンとはヘブル語の「ハ・サタン」に由来する悪の権化の称号で、「敵」の意です。イザヤ書14:4-21とエゼキエル書28:12-18にそれぞれ、バビロンの王、ツロの王になぞらえて語られているのは、このサタンのことです。ここに描かれている、「全きものの典型…知恵に満ち、美の極み」として創造されたのに、傲慢になり神に反逆したために、聖なる神の御許から投げ出され、「王たちの前に見せもの」とされた神の敵は、人ではありません。人は決して神の敵ではなく、正反対に、神の家族の一員として、神ご自身が楽しんでおられる三位格の神、―父、子、御霊― との関係を分かち合う相続者として創造されたのです。サタンはかつて天界の御使いの最高峰で、今は神の最大の敵です。
サタンの力は、聖書の至るところに描写されています。旧約時代には、聖徒ヨブから生命以外のすべてを奪い破滅をもたらし、新約時代には、神の御子キリストに挑戦し、終末末期には反キリストにこの世を支配する権威を与えと、サタンは傍若無人ぶりを最後まで発揮します。サタンが侮ることのできない恐ろしい存在であることは、神以外にサタンを咎め、取り扱うことのできる者は御使いをも含めていないとの種々の声明から明らかです(ヨブ記は、サタンを「レビヤタン」、「ベ・ヘマス」として描写)。しかも、悪魔が天界から投げ落とされることになるまでは、神ご自身が、サタンが御前に出て人を訴えることを許されるのです(黙示録12:10)。
しかし、神の備えは完璧です。「この世の神」(コリント人第二4:4)が究極的に追い出されるまでの間、神は、信じる者が戦い、身を守るための唯一の武器として『聖書』を与えてくださったからです。信じる者は神の言葉で、悪魔の誘惑、攻撃に勝利することができるのです。