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第236号 ヨハネの手紙第一5:1-13

キリスト者が確信をもって信じるべき五つのこと

①キリストは「神の御子」、「まことの神」である ②キリスト者は「永遠のいのち」を持っている ③神は御心にかなう祈りを何でも聞いてくださる ④キリスト者は「罪を犯さない」 ⑤キリスト者は「真実」を知り、真実に生きている, のうち、主張①、―キリストは「神の御子」、「まことの神」である― には、六つの証言があると、ヨハネは語る…
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝ったからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
このイエス・キリストは水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は、御霊です。御霊は真理だからです。あかしをするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。  ヨハネ第一5:1-13
『ヨハネの手紙第一』は、「神によって生まれた者」とはどのような者のことなのか、そのしるしを教えています。それは、神の義を知り、義を行い、兄弟を愛する者であり、ナザレ人イエスがキリストであると信じる者であり、神の御命令を守り、この世に勝った者であり、悪者が近づかないようにキリストが守ってくださっているので、罪を犯さない者であり、「神の御子」キリストのゆえに、「永遠のいのち」を持っている者であると、ヨハネは書簡の中で、繰り返し語っています。神の無比の本質「愛」に力点を置いているヨハネは、この書簡の4章から5章にかけて、キリストを信じる者に神の愛が全うされていることの四つの証拠を明記しています。信じる者は、恐れを締め出す全き愛によって揺るがされることのない確信に導かれていること、表裏のない心底からの愛を兄弟と分かつことができること、神の御命令を守ることは重荷ではなく、従順の喜びであること、また、この世に打ち勝った勝利を実感することによって、自らと神との関係を知ることができること、この四点です。

世に打ち勝つ勝利とは、キリスト者の信仰の勝利のことで、信じる者の愛が成長、成熟すると、信仰も成長し、勝利に至るのです。ヘブル人11章にリストが挙げられているように、旧約時代からの信仰の先達は、ただ神に信頼し、神の言葉をそのまま受け入れ、実行することによって信仰の勝利を得たのでした。人間史を赤裸々につづった聖書には、信仰の勝利者だけでなく、信仰路線から外れ、堕落した人たちの例証も多く挙げられています。それらの例から、堕落に陥っていく過程をたどることができます。キリストの実弟ヤコブは
「貞操のない人たち、世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」(ヤコブ4:4)
と警告しましたが、堕落へのステップ1は、信じる者がこの世との友好関係を持ちはじめることです。この世に目を向けはじめることが、神を敵に回すことになると、ヤコブは警鐘を発したのでした。ヤコブはまた別の箇所で、
「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」(ヤコブ1:27)
と語り、この世の汚れに染まらないようにと警告しました。ステップ2はこの世の影響を受け、染まることです。ステップ3は、この世を愛することです。このことに対し、ヨハネは
「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます」(ヨハネ第一2:15-17)
と、警告する一方で、信じて御旨を行う者の永久の勝利にも言及しています。最後のステップ4は、この世への迎合、一致です。もうこの世と同じになってしまった、信者の状態です。パウロは
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ人12:2)
と警告し、この状態から抜け出すには、意を決して、罪からの完全な方向転換をしなければならないことを命じています。

この書簡の5章でヨハネは、キリスト者が確信をもって信じるべき五つのことを明記しています。
①キリストは「神の御子」、「まことの神」である 
②キリスト者は「永遠のいのち」を持っている 
③神は御心にかなう祈りを何でも聞いてくださる 
④キリスト者は「罪を犯さない」 
⑤キリスト者は「真実」を知り、真実に生きている。
キリストご自身も明確に宣言されたこれらのうちの最初の真理、「イエス・キリストは神の御子である」ことに関して、ヨハネは、信じるに値する明確な根拠を挙げることによって、初代教会の時代、教会内に忍びこんでいた異端的な考えを論駁しています。冒頭に引用した箇所で、ヨハネは、この真理を証しするものが六つあることを提示しています。邦訳では定かではありませんが、7、8節は、古代ラテン語訳聖書、欽定訳聖書(KJ)、世界英語聖書(WEB)ほかでは
「天には、あかしするものが三つあります。父とことばと聖霊です。そして、これら三つはひとつです。そして地には、あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。そして、三つは一致しています」
のように、証言するもの六つ、―天と地で三つずつ― を明確に記しています。邦訳やNIVには、このような詳細は記されていませんが、聖書の中には、補足的にこれらの詳細に言及している訳は多く、この文脈の理解の大きな助けになります。

父なる神と、「神の言葉」なる子なる神と、父と子の御霊であられる聖霊なる神とは、三位格の、しかし、お一人の神です。イエス・キリストが天から来られた「神の御子」であることは、神ご自身によって、また、神の言葉「聖書」を通して、さらに、内住のキリストである「聖霊」の御働きによって、証しされました。他方で、地上においては、人々が目撃できる形で、「御霊」と「水」と「血」の三者が、キリストが御子であることを証ししたと、ヨハネは語りました。モーセの掟は二人以上の証言によって、判決が確定することを定めていますので、三者の証言の一致によって、天においても地においてもこの真理は証しされたのです。しかし、キリストが「水」と「血」によって来られたことと、キリストが御子であるとの証言とはどのように関連づけられるのでしょうか。

このことは神の言葉、聖書に明確に記されています。福音書は、キリストがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき、父ご自身が天からキリストに聞こえる声で「これは、わたしの愛する子」と証言されたことを記しています。また、キリストが十字架上で亡くなられるときが近づいたとき、天上の父は、地を超自然的な暗闇でおおわれ、キリストの死と同時に、地震を起こし、神殿の垂れ幕を切断されるというご介入をされましたが、このとき、ローマの百人隊長は「この方はまことに神の子であった」と証言したのでした。したがって、「水」は洗礼への言及、「血」はキリストの十字架による死への言及で、罪とは無縁の神ご自身によってしか達成できない、人類を罪から解放する「贖いによる救い」を達成されることにより、ご自身がまことに神の御子であったことを、キリストは証しされたのでした。
明らかなように、キリストは敬虔なユダヤ教徒の家庭で育ったユダヤ人でしたが、ヤーウェ信仰に生きるユダヤ人たちが踏襲してきた儀礼的な身の洗いや沐浴によって来られたのではなく、また、人々を水の洗いや沐浴で罪から聖めるために来られたのでもなく、革命的に、イスラエルの祭司制度に終止符を打つために来られ、新しく「水による洗礼」を布告され、ご自身、その洗礼を受けられることによって、ご自分を受け入れ、従う者のために模範を示されたのでした。このように、洗礼、―「水」―  によって、キリストは、ご自分が「神の子」であるという真理を、この世に証しされたのでした。
同様に、キリストは、動物のいけにえを繰り返しささげて罪からの解放を試みてきたイスラエルの祭司制度に終止符を打つために、ご自分の血をいけにえとしてささげられ、人と神との和解を達成してくださったことにより、ご自分が罪を贖う神であることを示されたのでした。御使いであれ、勇士であれ、義なる者であれ、被造物にすぎない罪ある者が、自分と同じ罪人の罪の贖いをすることは不可能ですが、キリストにはできたのです。それは、罪のないキリストの血には、「神の子」たるがゆえの、聖めと贖いの力があったからです。キリストは、ご自身、人の苦しみと死を通して、ご自身が「神の子」であることを、この世に告げ知らせてくださったのでした。
ヨハネは、キリストが十字架上で亡くなられた直後、わき腹から流れ出た「水と血」を目撃することによって、まさにキリストが「水と血とによって来られた」神の子、メシヤ(救い主)であったことを確信したのでした。

三人目の力強い証言者は、神の御霊、―今日もキリスト者のうちに内住してキリストを証ししてくださっている聖霊― です。キリストは過越の祭りの前日、弟子たちと最後の晩餐のときを持たれ、弟子十一人に最後のメッセージを語られたとき、真理の御霊が遣わされることを約束されましたが、そのとき、真理の御霊、聖霊は「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせ」、信じる者を「すべての真理に導き入れる」助け主であること、神が送られる強力な、キリストご自身の証人であることを話されました。聖霊が御子について証しされることは神ご自身の証しで、神の証しは人の証しにまさっているうえ、キリストを信じる者は、この証しを、内住の御霊のゆえに、自分自身の内に持つことになるので、弟子たちは、師キリストを見える形では失っても、キリストとの関係を永久に保ち続けることができることを教えられ、励まされたのでした。

最後にヨハネは、この証しを信じる者はみな、「永遠のいのち」を持っていることを思い起こさせています。この生命、神からの無上の賜物は、人の努力によって獲得できる類のものではなく、贖いを達成された御子が、「初穂」として甦られたことにより、持っておられ、キリストが「神の御子」、「まことの神」であるという真理を信じる者にだけ与えられる確約であることを再度、信じる者たちに銘記させたのでした。