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信仰への招き


神の啓示の光


聖書とは?

六十六巻の書(旧約聖書三十九書、新約聖書二十七書)から成り、異なった四つ以上の言語(ヘブル語、ギリシャ語、アラム語、ラテン語)で、千六百年もの長期にわたって、およそ四十人の著者によって、見事な一貫性で書き上げられた驚くべき、永遠の真理の書。
最初の書、『創世記』の神の天地創造に始まり、最後の書、『ヨハネの黙示録』の新しい天地創造、新しい神の都の到来で 完結する、神の人間救済のための、過去、現在、未来に及ぶ、イエス・キリストを通しての贖いのご計画を、神が霊感を与えられた著者を通して、預言的に顕わされた、人間史にご介入しておられる生ける神の愛の語りかけ、「神のことば」。
今日、千百以上の言語に翻訳され、時間、空間、民族、国家の壁を越えて、すべての人間に多大な感化を与え、与えて来た、「今、どのように生きるべきか?」に、 真の答えを与える神の知恵と力と恵みの書。
真理はあなたを自由にする!

神の約束:旧・新約聖書への招き

  1. 天地創造
  2. 人間の堕落
  3. イエス・キリストのご降誕-初臨-
  4. 聖 霊
  5. イエス・キリストの再臨、聖者の甦り
  6. 神の国と地獄、神の裁き

1.天地創造

あなた方は知らないのか。聞かないのか。 初めから、告げられなかったのか。神の基がどうしておかれたかを悟らなかったのか。~~~主は永遠の神、地の果てまで創造された方。 わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。 と、聖書は、神ご自身が宇宙の基であられることを語っています。
現代科学は、宇宙が、ビッグバン特異点から生まれ、膨張し、やがて再び、特異点の火の玉に戻ることを有力視するようになってきていますが、これは、創造者である神が、無から火の玉のビッグバンを引き起こされ、ついには宇宙が、大きな白い御座におられる方の前(宇宙の一点)から逃げ去り、火によって消え失せると告げている聖書を裏づけているのです。
私達には、神の存在を「証明する」ことは出来ないかも知れません。が、奇しく、恐ろしいほどに設計された神の創造、被造物を見るとき、これらが偶然に存在するようになったのではなく、設計された方、秩序を保っておられる方がその背後に存在しておられることを否定することは出来ないのです。
われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう と意図された神は、 土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
とあるように、人間は、動物とは全く異なり、「人格」を備え、神との関係を正しく持つことの出来る被造物として、「男」、「女」の順で、はっきりと区別されて造られました。男女が、価値、地位において平等に造られたことは、新約聖書に記されているイエスの女性に対する態度から明らかですが、男にはリーダーシップをとる責任が課され、女には助け手として男に服従すること、お互いに、愛の心で補い合うことが意図されたのです。この創造の秩序には、三位一体の神に、本質、力、栄光においては同等であるにもかかわらず、父、子、聖霊、という順序があり、存在の在り方が異なっているという神の奥義が反映されているのかも知れません。
エデンの園には、聖霊を象徴するいのちの木と、神のことば、イエスを象徴する知識の木とがありました。しかし、聖書の最後の書では、神が、イエスと同じ復活の体を与えられた人々と住まわれるようになる新しい神の都、エルサレムでは、知識の木は消え、永遠の命を与えるいのちの木だけ意味ありげに残るのです。イエス・キリストにおける、永遠の神の国の完成が、聖書の一貫したテーマであり、 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。 と言明される神の、人類のための贖いの歴史が、神の選びの民、イスラエルを通して語られていくのです。

引用聖句/参考聖句:1.神の創造

イザヤ40:21、:28、41:4、創世記1~3章、ヨハネの黙示録20:11、 第二ペテロ3:10、:12、詩篇19:1、139:13~14、135:6-5、へブル人11:3、ローマ人1:20、第二ペテロ3:5-7、エペソ人1:11、ルカ7:36-50、8:1-3、ヨハネ4:1-30、8:1-11、第一コリント11:3-16、エペソ人5:21-24、 第一ペテロ3:1-7、ヨハネの黙示録21、22章、1:17-18

2.人間の堕落

神の聖なるみ姿を反映する者として、地上の生き物を支配する権威を授かり、また、神の完璧な本質を担い、霊的、理性的、道徳的、かつ、不死の生き物として、完璧な環境、神との正しい関係の中に置かれていたにもかかわらず、
ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、 こうして死が全人類に広がった
と、最初の人間アダムの神への反逆(神の命令に従わないこと)によって、神との正しい関係が失われ、人間が罪の中に生きなければならなくなったと聖書は語っています。
人間が罪ある者として永遠に生きることは神の御心ではなかったので、人間は死ななければならない存在となり、いのちの木のあるエデンの園(神と共なる場所)から追われることになったのです。自由が与えられていた人間の、神への故意の反逆によって、「罪が世界に入った」瞬間、人間は神を愛するのではなく恐れるようになりました。平安、自信、有意義な生活が、罪によって、不安、恥(自己卑下)、空虚な人生に一転してしまったのです。罪を犯して霊的に死んだ人間に、このようにして肉体の死が始まり、世代から世代へと、罪の結末を刈り取る人間史が始まることになります。 アダムとエバの最初の子供、カインの、弟アベル殺害に始まり、地上には暴虐が満ち、心を痛められた神は、神の前に正しく生きたノアの家族八人と、一対ずつの生き物(洪水以降、神に捧げる犠牲のためと食物として、清い生き物は七対ずつ)を残して、洪水によって人と地とを滅ぼされました。しかし、洪水が、人間の罪という問題の根本的な解決にならなかったことは、洪水直後に犯したノア自身の罪と息子ハムの罪ですでに明らかでした。
その後、人間の神不在の国家統制主義への憧れは、バベルの塔建立という形をとって表面化してきましたが、神は言葉を混乱させられることによって分裂を起こさせ、人々を全地に散らされました。なるほど、科学や考古学は、洪水後、人類が共通の祖先から、三つの主流(ノアの三人の息子セム、ハム、ヤペテ)に分かれ、また、共通の地理学上の地域から広がったこと、さらに、バビロン(当時、バベルと呼ばれた)から異端が発生し、占星術がエジプトへ伝承されたことを明らかにして、聖書の語っていることを裏づけています。また、中国の漢字が創世記の最初の11章までの出来事に基づいて作られていると考えられるということは意義深く、すべての言語の源が一つであることを示唆している一つの証しです。
興味深いことに、この時言語を分けられ、人々の間に分裂を起こされた神は、ずっと後のペンテコステの日(聖霊降臨日)に、主の御名によって集まっていた群れに、九つの聖霊の賜物の一つである異言(神に話す霊の言葉)を与えることによって、人々を再び一つに和合させられました。弟子のユダに裏切られ捕えられた夜、イエスは父なる神に神の子たちが一つになるようにと、この世に残していくご自分を信じる者たちのために祈られましたが、父なる神がキリストの祈りに答え、約束の聖霊を送ってくださったのです。

引用聖句/参考聖句:2.人間の堕落

創世記1:28、 ローマ人5:12、 創世記2~4、6~9、11章、 第一コリント12:8~10、第二コリント14:2、 使徒の働き2:1~12、:44~47、 ヨハネ17:11、:21~23、

3.イエス・キリストのご降誕-初臨-

神の子イエス・キリストが、神の贖いのご計画」を達成されるために、この世に来られること(福音)は、すでに初めから神の創造の青写真の中にあり、キリストによる救いが人間の罪の結果、後から加えられた解決策ではないことを聖書は語っていますが、このことに驚かれる方もおられるでしょう。使徒パウロは、万物が御子によって、御子のために造られたと語っていますが、神がすべてを天地創造の最初から計画しておられたというこの驚くべき証言は、聖書の至る所に記されているのです。
聖書の中で、唯一人の異邦人著者ルカは、
神はすべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました
と、語っていますが、イエスがこの世の救いのために来られるという最初の預言は、アダム、エバが罪を犯した(神のご命令を守らなかった)直後、すでに創世記三章で語られています。
わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく
と、神はサタンに対する宣戦布告をされました。ユダヤ人の子孫にサタンに勝利する者が現れること、すなわち、十字架上でのイエスの勝利を預言されたのです。人間史を流血で染めてきたユダヤ人迫害、幼児虐殺、クリスチャン迫害の背景には、サタンのこの世に及ぼす力と支配が救い主到来のときまでと宣告されたことに対するサタンのあがき、苦闘があるのです。神に真っ向から立ち向かえないサタンの策略は、神の子たちを神から引き離し、永遠の救いから阻むことによって神のご計画を妨害することです。
神は、創造の初めから不変のご計画を、アブラハム、モーセ、ダビデ、イスラエルの民との間にそれぞれ交わした契約を通して、またイスラエルの族長たち、指導者たち、王たち、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル他多くの旧約の預言者たちへの啓示、ビジョンを通して、世代から世代へと徐々に顕わして来られました。これらへブル語聖書に記されている預言は、神でありながら人間として(受肉されて)、この世に二千年前に来られた(初臨)、また、再び来られる(再臨)イエス・キリストを証ししているのです。他方、キリストのガリラヤ、ユダヤでの福音宣教、神の国の教えについて書かれた新約聖書は、当時すでに流布、朗読されていたヘブル語聖書を解釈しています。言い換えれば、キリストこそ、ヘブル語聖書の予言を成就された救い主であることを、新約聖書は語っているのです。
イエスご自身、へブル語聖書がイエスのもたらされた『福音』に照らすことによって理解できることを教えられましたし、新約聖書の『ヘブル人への手紙』の著者も、 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、 多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました と、神の約束がイエス・キリストにおいて成就したことを語っています。
なるほど、へブル語聖書に詳細に記されている神の律法を全うすることによって(一つの違反もなく守り)、「神の義」の要求を満たし、罪人である人間を救うという、愛と義の神の「贖いのご計画」を達成できる人間は、罪のない神の子イエス・キリストをおいて他にいないのです。

引用聖句/参考聖句:3.イエス・キリストのご降誕-初臨-

コロサイ人1:16、 イザヤ14:24、46:9~11、48:3~5、 使徒の働き2:23、 エペソ人1:4~5、:11、 使徒の働き3:18、 創世記3:15、12:2~7、  出エジプト19:5~6、 サムエル記第二7:14~16、 歴代誌上17:4~14、4:28、   エレミヤ31:31~34、 エゼキエル36:24~29、 ルカ24:27、:44~49、  ヨハネ5:39、:46、 ヘブル人1:1~2、

4.聖 霊

神は、ご計画を契約、預言を通して、徐々に顕わしてこられましたが、生きた「神の言葉」であるイエス・キリストこそ、神の約束の完成であり、最後の啓示でした。
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。 ことばは神であった
で始まるヨハネの福音書の中で、十二弟子の一人ヨハネが、 この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった と記しているように、へブル語聖書の全約束が文字通り成就されることを待ち臨んでいたユダヤ人たちは、惨めな罪人として十字架上で死を遂げられたイエスを、預言の成就として受け入れることが出来なかったのです。
新約の時代に生き、歴史を異なった視点から見ている私たちと違って、旧約の預言者たちは、キリストの初臨(ご降誕)と再臨との間に、長いギャップの期間(今日の教会の時代、異邦人に福音が宣べ伝えられる時代)があることを知る由もなかったので、キリスト(救い主)の二回の来臨を一回の来臨の出来事として預言したのでした。正確には、人間史においては二回から数回に分けて起こる類似した出来事を一つの出来事であるかのように語られるという、神の預言の与えられ方の性質上生ずる止むを得ない矛盾、混乱でした。神の言葉を正確に伝える召名を帯びていた預言者たちは、神が示されたとおりに「苦難のしもべ」であると同時に「勝利の王」であるメシア像を民に伝えたのでした。
神の預言を先取りして未来占いに悪用し、ひと儲けしようとするのは人間だけでなく、自分の命がかかっているサタンも必死になって預言の解読を試みているでしょうから、神がそのような一筋縄ではいかない預言の語り方をされたのは当然なのです。したがって、預言を受けたユダヤ人たちも、「苦難のしもべ」の預言の部分はすっかり忘れ、彼らのメシアは政治的にも霊的にも「勝利の王」としてご降誕され、この世を支配される救い主、圧政下に置かれて苦しんでいたユダヤ人たち同胞を政治的に解放してくれる王という、自分たちにとって好都合なイメージでだけ待ち望んでいたのでした。しかし神のご計画では、ユダヤ人のメシアはまず「苦難のしもべ」として来臨され、『福音』を宣べ伝え、十字架上で死なれ、昇天された後、再び「勝利の王」として来られることになっていたのでした。
このことは、望遠鏡で遠方を見るとき、重なっている二つの山が横に並んでいるのか、縦に距離を置いて隔たっているのか判別できないことを体験済みの方なら、容易に理解していただけることだと思います。「神の国」を支配する勝利の王としてのユダヤ人のメシアはまだ来ていないと、その来臨を未だに待ち望んでいる《ユダヤ教》と、あの十字架につけられたナザレ人イエスこそ、人類の救い主であると信じる《キリスト教》とが分かれたのは、ここに理由があるのです。
主のことばによって、天は造られた。 天の万象もすべて、御口のいぶきによって
と、詩編の著者によっていぶき(息)と表現されている神の霊(聖霊)は、神のことばとともに、あたかも神の片腕であるかのように創造の業に携わられ、イエスの御降誕、洗礼、荒野での試練、犠牲の死、甦りのときをはじめ、いつもイエスとともに居られました。イエスの驚くべき伝道の業は、すべて聖霊の導きによるものでした。
使徒ルカは、新約聖書のルカによる福音書と使徒の働きの中で、イエスが肉の体で人間とともにこの地上に住まわれたときから、やがて「キリストの霊」として地上に存在されるようになるしばしの間(キリストが父なる神の御許におられる間)、すなわち、キリストの再臨までの過渡期に起こること、また、現実に起こっていることを記しています。すなわち、使徒の働きには、イエスが、復活され、昇天された後もひき続き、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことを、聖霊を通して行なっておられるということが書かれているのです。
イエスが苦しみを受け、罪人として死刑に処され、復活され、昇天されることは、イエスの弟子たちが神の恩寵を受けるための唯一の方法でした。すなわち、父の約束の聖霊(遍在のイエスの霊)が、イエスの代わりに来られることによって、イエスを信じるすべての者の内に宿られることが可能になったのです。
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます
とイエスが語られた聖霊は、五旬節の日(ペンテコステの日)に、信じる者すべてに与えられました。
イエスの昇天とペンテコステの出来事は、聖霊の導きによる、異邦人への福音伝道の時代、教会成長の時代という新しい時代を画することになりました。聖霊の力により、キリストの福音がもたらされ、信じる者が集まるところには、エルサレムという地理的な束縛を越えてどこにでも、神の宮、教会が建てられ、福音の業は、世界中に広がりました。天の父なる神がイエスの名によって遣わされた真理の御霊とも呼ばれる聖霊は、人々を罪に目覚めさせ、真理へと導いて下さる助け主であり、聖霊の助けがなければ、神、キリスト、聖書を理解することはできないのです。
あなたがたは、世にあっては患難があります。 しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。
全世界に出て行き、すべての造られた者に、 福音を宣べ伝えなさい。 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、 信じない者は罪に定められます。 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、 わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、 病人に手を置けば病人はいやされます。
聖霊に満たされた弟子たちは、師イエス・キリストの大宣教命令を受けて、全世界に『福音』を伝えるべく、乗り出していったのです。

引用聖句/参考聖句:4.聖霊

ヨハネ1:1、:11、 マタイ2:43、28:19、 マルコ16:15、 使徒の働き1:8、 詩篇33:6、創世記1:1、 マタイ1:18、 ルカ1:35、3:21~22、4:1、 ヘブル人9:14、  ローマ人8:9~11、 使徒の働き1:1、 マルコ8:31、 ルカ24:26、  ヨハネ16:7、14:16~20、 使徒の働き1:8、2:1~39、 マルコ16:15、 ルカ24:47、 ヨハネ4:20~24、14:12、:26、15:26、16:7~8、:13~15、ローマ人8:14~16、:26~27、第二コリント3:16~18、 ヨハネ16:33、マルコ16:16-18

5.イエス・キリストの再臨、聖者の甦り

旧約の預言者たちが預言したように、イエスのご降誕によって、古い時代の終わりが告げられ、新しい時代が到来しました。しかし、実際には、この古い時代は、まだ新しい時代に重なって続いているのです。新しい時代はもう来たのですが、まだ完全にではないということです。言い換えれば、イエスを信じ、自分を罪から解放してくださるキリストとして受け入れたクリスチャンは今、もうすでに救いの中に在るのですが、それでも、まだ救いの完成を味わうのを待っているという状態に匹敵します。
この二つの時代が重なり合っている時期が永遠に続くはずはなく、この目に見えない、聖霊の働きによってのみ体験することのできる「神の国」にやがて終止符が打たれ、「神の国」が世界的な、目に見える現実になるのはキリストの再臨の時に到って初めてなのです。使徒パウロは、この不完全な終末の時代に生きるクリスチャンのジレンマを、
私たちはこの幕屋(この世の肉体)にあってうめき、この天から与えられる住まい(甦りの体)を着たいと望んでいます、 今の時の軽い患難は、私達のうちに働いて、 測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです
と、表現しています。
新約聖書には、何と三百以上ものキリストの再臨に関する参照文があります!この「核時代」、一瞬先のことが分からない脅威にさらされて生きている私たちにとって、神が歴史を統括しておられるからすべてを主にお委ねすればよいこと、キリストの再臨のとき、信じる者には約束の成就、喜び、完成がもたらされるということが揺るぎない確信であり、希望であるなら、何と素晴らしいことでしょう。これに勝る慰め、平安はこの世にはないでしょう。
イエスの再臨の「時」に関しては、すでに西暦一世紀の初代教会の時代から、 終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望にしたがって生活し、次のように言うでしょう。
「キリストの再臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠ったときからこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
という嘲りに対する警告が与えられていましたが、
主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。 かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、 すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです
と、使徒ペテロは、すべての人の救いを願って止まない「神の愛」が「神の忍耐」であることをまず教え、続く件で、しかしキリストがこの世に報酬と裁きを下される再臨は必ず起こる、すなわち、次に起こることになっている神のご計画の大イベントであることを警告したのでした。
ノアの時代に先立つ大文明が地上から一掃された出来事、「ノアの大洪水」が実際に起こったように、主が約束された再臨も誰の目にも明らかな出来事として起こるのです。私達は初代教会の時代より、二千年近くもキリストの再臨に近づいているのですから、この御言葉は、かつてないほど深刻に捉えられるべきでしょう。
しかし同時に、私たちは昨今、偽預言者、宗教指導者たち、占い師たち、霊能力者たちによって、 間違って予言されている世の終わりの年、日時に惑わされている多くの人々を見ますが、聖書ははっきりと、天の父なる神のみがその「時」をご存じなのであって、御子イエスですらその「時」をご存じないことを記しています。しかし、イエスは、目を覚まして、世の事象の中に現れる再臨のしるしを見落とさないようにと忠告されました。
イエスの初臨の目的は、
失われた人を捜して救うため、世が救われるため
でした。しかし、今度は、民を裁くために、人間史に結末をつけるために、主の民を解放するために、クリスチャンに対する神の約束を完成するために、イエスはこの地上に、
天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、
すなわち、甦りの体で戻ってこられるのです。そのとき、「患難の時」を最後まで堪え忍んだ者たちに、待望のイエスと同じ甦りの体が与えられ、キリスト支配の千年王国がこの地上に始まることを聖書は語っています。

引用聖句/参考聖句:5.イエス・キリストの再臨、聖者の甦り

第二コリント5:2、:4、4:17~18、 ローマ人8:23~25、 第二ペテロ3:3~4、:9  使徒の働き1:7、 マルコ13:32、 マタイ24:3~51、 第一テサロニケ5:1~6、 ルカ19:10、 ヨハネ3:17、 使徒の働き1:11、 マタイ16:27、24:30~31、 第一テサロニケ4:16~17、 ヨハネの黙示録6:9~17、20:1~6、 第一コリント15:51~52、 ピリピ人3:21

6.神の国と地獄、神の裁き

イエスは、神の国(マタイの福音書では、天の御国(天国)と表現)をたとえを用いて語られました。聞いた者が、たとえの中の登場人物に自分の姿を見い出し、語られていることを自分のこととして受けとめ、受け留めたメッセージを実践に移すことによって神に応答し、神に出会うことができるようにと、イエスはあえてたとえで語られたのですが、聞く耳のない者、神に応ずる心のない者は一層心を頑なにし、
見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることも
しなかったのでした。神の国は、イエスの宣教を通して、信じた者にはこの世に在っても部分的に体験することはできるのですが、イエスが再臨されるときには、誰の目にも見える現実のことになるのです。 数多いたとえの中から、神の国についてイエスが示してくださったことを、学んで見ましょう。
有名な《種蒔きのたとえ》は、神のことば(福音)を聞く者の四通りの反応を示しています。イエスは、神の国の奥義を理解するには、この世の知恵によるのではなく、霊的な啓発が必要であることを示唆しておられます。引き続き語られた《毒麦のたとえ》は、この悪に満ちた世に生きる者が今、特にキリストの群れ、教会の中に蔓延する悪に対しどのように対処していくべきかを示唆しています。《ぶどう園のたとえ》は、この世の基準とは異なる神の国の公平を語ることにより、社会から疎外された者、寄る辺のない者、捨てられた者に対する主人(神)の憐れみを表しています。《小作人のたとえ》では、神の召命に正しく答えていく信者の責任が問われています。主人の息子(神の御子イエス)に対する態度が問われているのです。《婚宴のたとえ》では、神の無償の招待にもかかわらず、この世のことに心が奪われ、神の国に入りそこなう信者のことが厳しい口調で語られています。《十人のおとめ》と、《タラント》のたとえでは、キリストに従う者のキリストの再臨への備え、神の国に入る備えが語られています。
以上、七つのたとえを取り上げてみましたが、
金持ちが神の国にはいるよりは、 らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい
と言われたイエスは、信者にとっても神の国に入ることがいかに難しいかを警告されたのです。他方、神の国に入ることが許されなかった者は、外の暗闇、永遠の火の刑罰の場に投げ込まれることが記されています。聖書は、地獄が不死の悪魔(サタン)、堕天使、悪霊のために用意された場所であること、しかし、神の裁きの日には死もハデス(黄泉)も、邪悪な者たちもすべて投げ込まれる永遠の刑罰を受ける実在の場であることをはっきり語っています。
この裁きは、大きな白い御座に座っておられる方キリストによって執行され、第一の復活(5章イエス・キリストの再臨・聖者の甦りで扱った最後まで耐え忍んだ「聖者」の甦り)にあずからなかった死者たちにも、裁きの座に立つために甦りの体が与えられ、いのちの書に名の記されていない者は皆火の池(地獄)へ投げ込まれることになります。したがって、地獄が、霊ではなく、体が永遠の苦しみを受ける場であることは聖書の明確な主張なのです。
旧約時代の神ヤーウエの証し人、キリストの証し人、すなわち、聖徒が完成され、悪魔と手下どもが地獄へ投げ入れられ、邪悪な者も地獄へ投げ入れられた後、新しい天と地が創造され、新しいエルサレムが天から下ってきて、天の父の御国に入ることが許された者たちの体だけでなく、環境も贖われることにより、神の「贖いのご計画」は完成し、神の国が、被造物のすべてに成就するのです。神が人とともに住まわれ、神の霊(聖霊)が人々の内に宿られ、十二種の実がなるいのちの木に象徴される永遠に生きる者たちの永遠の世が始まるのです。神が座しておられる天上の御座と、キリストが座しておられる地上の大きな白い御座、これら二つの御座が、 いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる という神のご計画通り、新しいエルサレムでは、一つの 神と小羊との御座 になるのです。
こうして、全宇宙が、神がご計画された最初の状態に戻されることにより、へブル語、新約、両聖書に記された神の救済のご計画は、幕を閉じることになります。
もはや、のろわれるものは何もない。 神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、 神の御顔を仰ぎ見る。 また、彼らの額には神の名がついている。 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、 彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。 彼らは永遠に王である。

引用聖句/参考聖句:6.神の国と地獄、神の裁き

マタイ13章、 マルコ4:10~12、 ルカ8:8~10、 ヨハネの黙示録19:20、20:10、:15、ルカ17:20~21、23:43、 マタイ20:1~16、21:33~44、22:1~14、25:1~30、19:4、 マタイ13:40~42、22:13、25:30、:41、5:29~30、18:8~9、25:41~46、 ヨハネの黙示録20:11、 第二コリント5:10、 ヨハネの黙示録20:5、:12~15、 ゼカリヤ12:10、 ローマ人11:25~27、 ヨハネの黙示録1:7、21、22章、ヨハネ14:16、エゼキエル47:1~12、 ヨハネの黙示録4~5章、エペソ人1:10、 コロサイ人人1:15~17、 ヨハネの黙示録1:8、22:3~5
→ 神の国:救い主の招き

さらに聖書の深い理解を求めておられる方には、
フルダ・K・伊藤著 一人で学べるルカの福音書 文芸社
のご購読をお勧めいたします。『ルカの福音書』の解説だけでなく、全聖書の大切な原則、主張、イエス・キリストの教えのほとんどを学ぶことができます。