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第333号  ピリピ人3:10-21

キリストの再臨、御国樹立の究極的な意義

キリストを「救い主」として信じる、イスラエルを含め、全諸国民は天からの聖なる都エルサレムに神とともに永久に住むことになる…

私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして、死者の中からの復活に達したいのです。
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追及しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえられたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。
兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物を自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。ピリピ人3:10-21

冒頭に引用したピリピ人への書簡3章でパウロは、信徒にとって究極的な目標が神との永久の交わりであることを思い起こさせています。
この3章11節でパウロは、最後までキリストに忠実であった信徒が、キリストが再臨されるとき、その他のすべての人たちより先に甦ると信じていたことが分かります。邦訳の「死者の中からの復活」は、「死者の中から、復活の中から」と二重の前置詞を用いて表現した特有なギリシャ語で、すべての人たちの一般の復活のことではなく、それに先立つ限られた人たちの甦りの出来事です。

ペテロは自らの書簡で、この句をキリストご自身に用いていますが、パウロはここで、自分と同じように「復活に達したい…捕らえようとして追及している」、キリスト者に向けてこの句を用いています。すべての死者の一般の復活を達成しようと追求する人はだれもいませんから、ここでパウロが言及しているのは明らかに、「幸いな者、聖なる者」の甦り、すなわち、黙示録20:5-6に記されている「第一の復活」です。


パウロはピリピ人への手紙の中で
イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰する(2:10-11)
日を待ち望むようにと奨励していますが、果たしてパウロはいつ、全世界の人々がキリストを王として迎える日が到来すると予期したのでしょうか。

パウロはまた、テモテへの第二の書簡の中で信徒に、おそらく初代教会の讃美歌を引用して、
私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる(2:11-12)
とも約束しています。

ここで、信徒がキリストとともに地を支配することに関するほとんどすべての聖句は未来時制で書かれていることは注目に値します。キリストの弟子はこの世でキリストの通った道、―栄光に至る苦しみの道、冠の前に担う十字架の道― を歩んだ後、キリストの再臨後、諸国の民を支配する勝利者となるのです。

主の再臨の期日に関しては、キリストの昇天直前に弟子たちが尋ねた質問
イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか
に対する主のお答え
いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです(使徒の働き1:6-7)
から、次の四つの前提を指摘することができます。
1.かつてイスラエルには「国」があった 
2.イスラエルはこの「国」を失った 
3.いつか、イスラエルはこの「国」を再興する 
4.この「国」を樹立する方はキリストである
キリストは質問が間違った仮定に基づいているとき、よく質問に対し質問を返す方法を取られましたが、このときはそうされず、タイミングについての質問だけを取り扱われました。

言い換えれば、この出来事は神の暦の中にすでにあり、間違いなく起こるが、期日は御父が決定されることで、弟子たちは知る必要がない。その日まで弟子たちが専心すべきことは福音宣教で、聖霊の力によって、地の果てにまでキリストの証人となりなさい、ということでした。


ペテロは、キリストの昇天後、二度目の公の説教の中で
あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。このイエスは…万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません(下線部、「再興」の意)
と、かつて弟子たちがキリストに質問したと同じ「再興」という稀なギリシャ語を用いて、時期は分からないが、地に御国を樹立するためキリストが再臨される、との確信を人々に伝えています。

信徒にとって、キリストの御国の究極的な意義は何かといえば、「甦りの身体が与えられ、主とともに永久にいるようになる」ということです。キリストが十字架上で息を引き取られる直前に、そのことを象徴する出来事が起こりました。キリストと同じ日に十字架にかけられた犯罪人の一人が自らの罪を認め、キリストに
イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください
と懇願したとき、キリストは
まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます
と答えられました。

キリストはあえて、「国」という言葉を用いるのを避けられ、その代わりに、宮殿の庭に匹敵するペルシャ語の「パラダイス」を用いて、悔い改めた犯罪人の霊と魂が、肉体の死の直後から、王とともに特別な名誉ある場所にいることを、教えられたのでした。動物のいけにえ制度に象徴される『旧約』に代わって、キリストが『新約』をご自分の血によって締結されて以降、キリストを信じて亡くなった信徒はみな、キリストの再臨まで、この「パラダイス」、神の御許にとどまっているのです。


ユダヤ人のメシア、全人類の救い主、キリストとともに神の民がこの世を支配するときが来る、ということは旧新約両聖書が約束していることです。現今の全地が物理的、道徳的な激変によって邪悪なものが除かれ、聖められた後、キリストの千年支配が始まります。
しかし、聖句の中には、キリストが地上の御国を支配される可能性を排除しているように思われる箇所もあるとの指摘があります。たとえば、よく引用されるキリストの声明は、不当な裁判が行われた最後の夜、ポンテオ・ピラトに返答された
わたしの国はこの世のものではありません(ヨハネ18:36)
は、その一つです。

このお言葉に対して「この世の中にはない、この世のようではない、この世のためではない」等々、解釈が試みられてきましたが、キリストのこの声明は、その国の性質や場所についてではなく、その由来、源に関心が払われたかのようです。実際、邦訳では定かではありませんが、ギリシャ語聖書をはじめ、多くの英語訳聖書には36節の最後に
わたしの国は他のところからのものなのです
と記されており、決して地上に成る御国を否定したお言葉ではないのです。


むしろ、キリストがこのとき暗に示されたのは、キリストが支配されることになる御国が、この世の軍事力にはるかにまさる天からの力によって存続することになる、まさに地上に樹立される神ご自身の御国であるとの声明であったとみなすことができるのではないかと思います。

黙示録の19、20章には、神の民を攻撃し、滅ぼすために、反キリストの軍勢が中東に結集するとき、神の民は防御のために武装する必要もなく、キリストの言葉と神からの火によって一瞬のうちに勝敗が決まることが記されています。
初代教会の信徒は、キリストの再臨直後に、聖められた全地に主の千年支配が始まり、その後、現今の天地が滅び、究極的に新しい天と地に下って来る新しい都、神のエルサレムに、人類史すべての神の民が永久に住むことを信じて亡くなり、今パラダイスで、甦りの身体が贖われるキリストの再臨の日を待ち望んでいるのです。