キリストの千年支配の御国
イザヤの預言した「地上に成るメシアの御国」、そこでのキリスト者の特定な役割は…
しかし、千年が終わると、サタンはその牢から解き放たれ、地の四方にいる諸国の民を、すなわちゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海の砂のようである。彼らは地の広いところに上って行き、聖徒たちの陣営と、愛された都を包囲した。すると天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには、獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。 黙示録20:7-10私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は、『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。……いと高き方の聖徒たちのためにさばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時期が来た。 ダニエル書7:13-22
千年支配の御国が描写されている黙示録20章1-10節の段落での意外性は、最後に悪魔が地下牢から解放され、地の民を惑わすという奇想天外な展開です。これは、黙示録が人の想像ではなく、神の霊感によって書かれた書であることを裏づけています。
最初の人類の神への反逆以降、長い人類史が許されてきたのは、神の悪魔退治の御目的のためでした。神の御旨は最初から最後まで一貫しており、創世記で始まった神の大家族構想は黙示録で完成し、最後に神の御旨に反逆した御使いから人まで、すべてが取り除かれます。
悪魔の神への最後の挑戦、「ゴグとマゴグ」を惑わし、「地の四方にいる諸国の民」を召集して起こす戦いは神ご自身による天からの火で瞬時に裁かれ、反逆で汚れた現存の天地は一掃され、新創造の天地に、聖められた神の大家族が永久に住むことになるのです。ともに一人の神によって造られた人と地は、贖いの過程にも類似が見られ、両者とも霊的な新生が物理的な新生に先行します。
具体的に言えば、人の救いは、人がまだ古い肉の身体でこの世に生きているときに、信仰告白によって起こります。まず霊的な新生が起こった後、キリストの再臨によってすべての信徒に甦りの身体が与えられ、身体の新生、すなわち、物理的な新生が起こるのです。
同じように、神に反逆する霊的存在、生き物がすべて取り除かれた後、汚れた古い天地は聖い新しい天地に変えられ、このように、千年期の終わりは現存の天地の新生を画することになります。
神はなぜ、このような奇想天外な展開と悪魔の劇的な終焉をもくろまれたのでしょうか。
いろいろな要因や解釈がある中で、
①「究極的に善が悪に勝つ」との聖書の主張を人が確証するためと、
②ちまたで信じられている「環境が人の心を変える」との仮説が正しくないことを実際に体験することで、人の内に住み着いた恐ろしい罪、―その根源は悪魔― が暴露されるための二点が、挙げられるのではないかと思います。
千年期支配は、民の人気投票による民主主義ではなく、愛と憐みの神の君主制です。千年期には、勝利を得た信徒とキリストが「鉄の杖」を用いて民を支配することが預言されていますが、鉄の杖は残酷な独裁者の象徴ではなく、不義な者に対する義なる統制を示唆しているように思います。
千年期に義なる方による、公明正大な支配が恩恵、寛大な福祉をもたらしても、罪から完全に解放された新創造の甦りの身体ではなく、罪が住む旧創造の肉の身体で生きる限り、人の内部には、満足できず、自治を望む反逆心、自我が依然として存続するのです。そのような罪の性質は悪魔の一声で覚醒され、悪魔は苦もなく、世界中からの反逆軍を集めることになります。しかし、悪魔が騙すことのできる人々は、悪魔が提供できるすべて、すなわち、神への反逆、反キリスト、無秩序を望む人たちだけなのです。
神の支配、天の御国を受け入れるか、拒むかで全人類が永久に分離されなければならない、その必然性が至福の千年期の最後に明確になります。神が究極的に備えておられる新しい天地に着地する新しい都エルサレムは、被造物に対する神の御旨に喜びと感謝の心で応え、自ら入国を待ち望んだ人たちだけが棲息するところなのです。
黙示録20章は、聖書の中で千年期について明確に語っている唯一のくだりで、他に明確な声明はありません。ただ、黙示録には数箇所、千年期に関する間接的な言及は記されています。それらの箇所はみな、「贖われた者は地を治めることになる」というように預言的に約束されたことの成就が20章である、という形で千年期に言及しています。
パウロの書簡の中にも、ヒントがあります。パウロは信徒が信徒間の争いをこの世の法廷で訴え合っていることに対し
聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか(コリント第一6:2)
と非難しました。
パウロがここで言及した裁きは、全人類の最後の審判のことでないことは明らかです。最後の裁きはキリストの御手にのみ委ねられているからです。信徒が民を支配し、裁きを執行する責任を担う時代は、千年期だけです。ここでパウロが、信徒の未来の役割をだれもが聞き知っている当然のこととして語っていることは着目するに値します。
また、パウロは真実の言葉として、
耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる(テモテ第二2:12)
とも約束しました。初代教会の信徒はキリストご自身が通った道、すなわち、栄光に至る苦しみ、冠を授与される前に十字架の道を歩むことを当然のこととして教えられ、励まされていたのです。
ヘブル語(旧約)聖書には、神ご自身の支配下で、地が未曽有の平和と繁栄の時代に変えられるという多くの約束が記されています。全地が本来の状態に復興されるというビジョンは、イザヤをはじめ、預言者たちの間に広く行き渡っていました。
しかし、へブル人の間では、その御国が神ご自身に起因するものなのか、あるいは人(救い主)に起因するものなのか、また、現存の古い地に起こることなのか、あるいは新創造の新しい地に起こることなのかが曖昧でした。ヘブル語聖書だけの情報では決めかねたのです。そこで、
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない(65:17)
とのイザヤの預言は、新約聖書が書かれるまでに流布していた聖書外典やユダヤ教の擬似文書などを通して、新しい地が創造される前の古い地上、すなわち、現存の地に、四十年から千年にも及ぶ救い主の時代がもたらされると解釈され、その期待がユダヤ人の間で広まったのでした。この期待は、黙示録20章に概略が記されているメシアの御国に著しく相似しているのです。
イザヤ書以外に、神の民がこの世を支配する時代が訪れることを強調的に預言しているのは、ダニエル書です。中でも、冒頭に引用した7章13-22節は、神の民が地を治める未来を極めて明確に記しています。キリストご自身、この段落を引用され、最後の夜、ご自分を不当に裁判にかけた大祭司を前に、
あなたがたは、人の子が力ある方の右の座につき、そして天の雲とともに来るのを見ることになります(マルコ14:62)
と、ご自分の再臨を予告されたのでした。
この7章13節から始まる段落には、「人の子」は来臨後、「聖徒たち」とともに、諸民族、諸国民を治めるとの声明が三度、繰り返されています。「いと高き方の聖徒たちが国を受け継ぎ」、「いと高き方の聖徒たちのためにさばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時期が来た」、そして、27節の「国と、主権と、天下の国々の権威は、いと高き方の聖徒である民に与えられる」の三箇所です。
このくだりで言及されている国々は、17節で「地から起こる」と明記されているので、この「人の子」が受け継ぎ、聖徒たちが治める国が地上にあることは間違いなく、このダニエル書の預言は、まさに、黙示録のキリストによる千年期の描写に一致するのです。
聖書には、実際の時の流れを凝縮して、よく似た出来事を一つのことであるかのように描写している箇所が少なからずあります。その一つは先に引用したイザヤ書65:17-25で、新しい天地での永遠と古い地での千年期が一つのビジョンとして描写されています。これは異なった未来の出来事を一つのビジョンとして時の隔たりを短縮して告げる聖書の預言に特有な特徴で、キリストもこの特徴をたとえに用いられました。