キリストの福音宣教の転換期
キリストは十字架刑に掛かられるため、照準をエルサレムに向けられたとき、十二弟子に癒やしと除霊のための超自然的な力と権威を授け、迫害と艱難期の指示を与え、村から村への宣教に遣わされた…
イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。「…人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。…
次の日、一行が山から下りて来ると、大勢の群衆がイエスを迎えた。すると、見よ。群衆の中から一人の人が叫んで言った。「先生。お願いします。息子を見てやってください。…霊がこの子に取りつくと、…打ちのめして、なかなか離れようとしません。あなたの弟子たちに霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」…しかし、イエスは汚れた霊を叱り、その子を癒やして父親に渡された。人々はみな、神の偉大さに驚嘆した。…
さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、私を受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」さて、ヨハネが言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」しかし、イエスは彼に言われた。「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの見方です。」
さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。…サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。そして一行は別の村に行った。 ルカの福音書9:1-6、:37-43、:46-56
ルカの福音書9章には、キリストのガリラヤでの宣教の最後から照準がエルサレムに移されるまでの過渡期の出来事が記されています。
十二弟子は、悪霊の領域と身体的病の領域に対処する霊的能力と、その力を行使する権威を授けられ、送られた者「使徒」として、村から村へと宣教に遣わされました。「神の国の到来」を告げることが彼らの宣教で、彼らが行う癒やしや除霊は、彼らの宣教が真正であることを証明するものでした。
人々が使徒を受け入れるということは、メシヤ(救い主)が神の国をこの地上にもたらされたことを受け入れるということでした。もし村人が使徒を受け入れなければ、村を出て行くとき「足のちりを払い落としなさい」と、キリストは指示を与えられましたが、これは、正統派ユダヤ教徒の間で異邦人の領域を訪問したとき行われる慣習で、神の裁きを警告する象徴的行為でした。一時的には神が沈黙しておられるように見えても、反逆する者に裁きは必ず下るのです。
しかし対照的に、もし受け入れるなら、使徒の「平安の祈りがその家に留まる」という御言葉(マタイ10:13)は、予測できない天災、人災の多い昨今、キリスト者はいつも主の守りを祈っていく必要があり、その祈りは聞かれるということなのです。
9章には、五千人に与えられた食事の奇蹟、キリストの内弟子三人が山上でキリストの変貌とモーセ、エリヤの出現による神の国を垣間見、天からの神の声「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け」を聞いた超自然的体験が記され、キリストのガリラヤ宣教のクライマックスになっています。
四福音書のすべてに記録されている五千人に与えられた食事の奇蹟は、神に依存する信仰を弟子たちに生み出させるに十分でした。五千人は、ギリシャ語では男性への言及ですから、子女を含めれば一万五千人以上の大群衆で、このような奇蹟は神がご介入されなければ不可能ですが、そのとき、わずかな食物を分かち合おうと差し出した少年がいたことと、その愛の行為をきっかけに、キリストが「五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった」(9:16)ことに着目することは大切です。
同じように、終末末期、予測できない天災、人災にいつ襲われるか分からない危機の時代、キリストの神に向けての祈りは、いつも神に依存する必要を信徒に教えています。
ヘルモン山の近くピリポ・カイサリア地方でキリストは弟子たちに初めて、ご自分の究極的な使命「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」(9:22)に言及され、弟子たちにご自分の弟子としての覚悟「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て日々自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」(9:23)を銘記させられました。
洗礼者ヨハネはキリストを「世の罪を取り除く神の子羊」として、イスラエルの民にメシヤ到来を告げましたが、まさに十字架上で死ぬことによって人類の罪を贖う「いけにえの子羊」として紹介したのでした。
キリストは23節で、「神の子」となった信徒たちに次のステップ、「神の弟子」となることを教えられたのです。キリストの十字架上での贖いによって、信じる者はみな、過去の罪が赦され、「神の子」とされましたが、その後、キリストの弟子となる覚悟の道が続くのです。
ヘルモン山で起こったと思われるキリストの変貌の出来事は、ギリシャ語で「内からの変化」を意味する変容として描写されています。
モーセはイスラエルの民をエジプトでの隷属下から解放し、エリヤはイスラエルの民を偽りの神々の束縛から解放し、今、キリストは、罪のこの世を罪と死の奴隷から解放するためにエルサレムに向かおうとしておられました。
旧約の預言者モーセとエリヤが成し遂げた脱出劇の完成がキリストによって達成された暁には、キリストを救い主として信じた者はみな、栄光の神の国に入るのです。信徒も栄光の甦りの身体に変容させられるキリストの再臨時がその完成のときですが、黙示録にはその直前に、エルサレムにモーセとエリヤを思い起こさせる二人の証人が登場し、大いなる奇蹟と神の言葉で大宣教をすることが記されています。
キリスト再臨の道を備えるため、天界で最後の出番を待っているモーセとエリヤがこの終末末期に現れる二人の証人で、今日、そのときは非常に近くなっています。
ペテロが、天界のビジョンで見たキリスト、モーセ、エリヤを地上に留めるため、それぞれに「幕屋」を造ろうと提案したことは単なる思いつきではなく、このときはちょうどイスラエルの主の例祭「仮庵の祭り」の時期だったのです。
イスラエルの民が仮庵を建て、天空を仰ぎ、出エジプト後の荒野での放浪生活を思い起こし、祭りの期間を過ごす「仮庵の祭り」は、まさに仮のこの世から永久の神の国への遷移が象徴された主の例祭でした。
黙示録7:9-17には、この世の終わりの艱難期を経て天上に挙げられた大群衆の信徒が、主の御前で完成された救いを喜び、神をほめたたえている情景が預言的に描写されていますが、まさに、キリストによる御国の樹立を祝う「仮庵の祭り」の描写です。
今年は10月13日の夕刻から祭りが始まりますが、ゼカリヤ書14:16-18には、この祭りがメシヤの千年支配の御国で、地上の全諸国民によって祝われることが預言されています。
しかし、次から次へとこのように驚くべき奇蹟を目の当たりにして、まだ弟子たちでさえ、不信仰であることが、キリストのお言葉「いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」(9:37)に反映されており、9章の後半には、キリストの真の弟子に要求される決断と覚悟が教えられています。
これは、9章冒頭に記されているように、直接キリストから力と権威を授けられ、神の国宣教のため村々へ遣わされた十二弟子が成功例ばかりではなく、除霊ができない現実に直面し、また、キリストの直弟子ではない信徒たちが除霊を成功させているのを見、不快に思う心の貧しさを露呈し、さらには、弟子たちの間で優劣関係を探る思いが渦巻いている現状をご覧になったキリストの個々人の生来的な罪の気質に対する悲しみの溜息でした。
共観福音書に記されている同じ出来事を比較すると、弟子たちの信仰生活に欠けていたのは信仰、祈り、断食であったことが分かります。神から授かった霊の賜物は自動的に実を生み出すというのではなく、個々人の神との親密な関係と霊的修養を経て発揮されるのです。
キリストはご自分が裏切りによって死刑に処され、地上を去られることを再度話され、その後の宣教を弟子たちが担うことを銘記させられましたが、そのとき生じるであろう派閥の問題、罪人の心に生じる比較「だれが一番偉いか」、「だれのミニストリーが優れているか」に対する答えを簡潔に示されました。
弟子たちの心の中には、自分たちこそキリストの直弟子で主流、他の信徒たちは傍流という誇りと思い上がりから支配欲が潜んでいましたが、キリストは「あなたがたに反対しない人は、あなたがたの見方です」と、彼らを自流に誘い込み、自分のミニストリーを大きくすることではなく、ともにキリストのミニストリー、「神の国宣教」に努める重要性を教えられました。すなわち、神の力は神ご自身のイニシアティブにより、他のどのキリスト者たちを通しても、地上で顕されるという警告でした。
ルカの福音書では、キリストが天から遣わされた真正のメシヤであることの確証が伝えられた後、9章51節以降、人々がキリストの教えを受け入れるかどうか、信仰の決断をするか否かに論点が移っていきます。
もしイスラエルの宗教家たち、権威当局が福音を受け入れなければ、弟子たちに迫害が迫ることになります。生半可な信仰では信徒は迫害に耐えることができず、この世、―不動産、所有物、肉親、慣習等々、この世に属するもの― を選び、キリストを捨てることになりますから、まず、キリストは、迫害の危機に直面して弟子たちがどのように対処すべきかの心構えを教えられました。
信徒は、この世の人々が必要と思うすべてのものに対する執着心を除き、迫っている危機に今応答することと、「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません」(9:62)と、神の国に自らが確実に入ることを第一優先にすべきであるとことを警告されました。
この教えは、世界的にキリスト者迫害が急増している今日、イエス・キリストを受け入れ、信仰生活を送っている信徒が真剣に実践しなければならない警告です。