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第287号  ヨシュア記3:7-17

『ヨシュア記』から学ぶ神の「救い」の全局面、―勝利、所有、安息―

『黙示録』に記されている終末末期の神に逆らうこの世の連合軍の「ひな型」はヨシュア記に… 預言的洞察を告げる神の言葉『聖書』の学びは未来への備え…

主はヨシュアに告げられた。「今日から全イスラエルの目の前で、わたしはあなたを大いなる者とする。わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを彼らが知るためである。あなたは契約の箱を担ぐ祭司たちに『ヨルダン川の水際に来たら、ヨルダン川の中に立ち続けよ』と命じよ。」ヨシュアはイスラエルの子らに言った。「ここに来て、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたの中にいて、自分たちの前からカナン人、ヒッタイト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人を必ず追い払われることを、あなたがたは次のことで知るようになる。見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立ってヨルダン川を渡ろうとしている。今、部族ごとに一人ずつ、イスラエルの部族から十二人を取りなさい。全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、川上から流れ下る水がせき止められ、一つの堰となって立ち止まる。」
民がヨルダン川を渡ろうとして彼らの天幕から出発したとき、契約の箱を担ぐ祭司たちは民の先頭にいた。箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。主の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。  ヨシュア記3:7-17
ヘブル語(旧約)聖書の『出エジプト記』は、神の救いを基本的に束縛からの解放と見ていますが、『ヨシュア記』はさらに進んで、神の約束する救いの最も重要な局面を描いています。神の救いには勝利と所有と安息が伴われることを教えているのです。すなわち、ヨシュア記は、イスラエルの民がカナンの原住民を征服し、カナンの地を所有したことで終わっていますが、エジプトでの隷属下からの解放をはるかに超えた神の「救い」の全局面、―勝利、所有、安息― を、神ご自身が成就してくださったとして描いています。

「主は救い」の意の名、ヨシュアは、「イエス」のヘブル語表記で、『ヨシュア記』には、キリストの初臨、―ご降誕― によってもたらされた「救い」の完成、すなわち、キリストの再臨で地に具現する神の国に至るまでの信仰の戦いの「ひな型」が記されています。救われた者が信仰の第一歩を踏み出すヨルダン川越えは、主ヤーウェを頭とする神の民の軍勢が、いよいよ約束の地の所有と祝福の人生への入口に立ったことを象徴しているのです。

キリスト者にとっても、キリストによる救いには勝利と所有と安息が含まれ、したがって、再臨の主を待ち望む現時点では、信徒にとって神の安息に入る約束がまだ残っているのです。
私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。(ヘブル人4:1)
と、御言葉を信仰で実践しなかった信徒たちの例を挙げてパウロが警告したように、ヨシュア記の記録は、キリストの福音を受け入れ、救いに入った信徒が背信に陥り、裁かれ、安息に入れないようなことが決して起こらないための覚えです。

ヨシュア記では、敵や武器のことに全く触れられておらず、ただ神の言葉「みおしえ」が唯一の武器で、御言葉の斉唱と暗唱が奨励されたことが1章に記されていますが、これは神の軍勢の戦いを特徴づける特記すべきことといえます。まさに神が勝ち取れと命じられる戦いは、パウロが
悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ人6:11-12、下線付加)
と教えたように、人の力、この世の武器ではなく、神の力によってしか征服できない霊の戦いなのです。

3~4章には、ヨルダン川越えとカナンでの最初の宿泊地ギルガルに設置された十二個の石の詳細が記されています。ヨルダン川越えは約束の地への境界を渡ることであり、ちょうど出エジプト時の「紅海越え」に類似する意義深い出来事です。すでにイスラエルの神の恐るべき力を聞き知っていたカナンの原住民はイスラエルのカナン入植を非常に恐れていました。
ヨシュア記の著者は「紅海越え」に次ぐこの劇的な出来事を描写するのに、重複して語る「上書き」の技法を用いています。すなわち、3章で一気にヨルダン川越えの結末までを語り、4章でもう一度、一連の出来事の幾つかを取り上げ、詳述、展開させていくという技法です。そのため、4章では3章で語られた出来事の途中で起こった、川底からの石、川越えの成功談、民が渡り終えた後、水の流れが完全に元どおりになったこと、主の力強い御手の証しとして宿泊地ギルガルに積み上げられた石の話が、強調的に再び記されているのです。

今月は、3章に焦点を当てて、非常にユニークなヨルダン川越えのメッセージから洞察を得たいと思います。神はカナン入植に備え、二つの覚えを語られました。まず、これは聖戦であること、次に、この聖戦に携わるためには、民自身、自らを聖めなければならない、の二点です。
イスラエルの民は「契約の箱」に先導されてヨルダン川を渡り、カナンの地に入ります。この箱はレビ族の祭司たちだけが担ぐことのできる聖なる箱、神のご臨在の象徴です。この箱は、神のご臨在の目に見える象徴であると同時に、十戒の二つの石の板を収納する場所です。約束の地に入植というイスラエル史の重要な時点にさしかかったイスラエルの民にとって、この箱の存在は、敵陣に向かう神ご自身の指導力への信頼と、未踏の地に向かう民の確信の拠り所として重要、かつ、必要でした。

天界に実物がある「幕屋」の聖具の中で一番重要な「契約の箱」には主の御座が象徴されており、この箱が民の前方、隔てられた距離のところを祭司に担がれて移動するということは、安息の地へと先導される主への敬意が払われるべきことと、神の奇蹟的なご介入を民が背後に立って見る必要があるということでした。
文頭に引用したくだりには、征服すべき七部族のカナン原住民が挙げられていますが、ヨルダン川東岸ですでに三部族を征服して、モーセの指揮下、二部族半のイスラエルの民に異邦人の王たちの割り当て地が与えられたことから、神が聖絶を命じられたカナンの部族は全部で十部族でした。信仰の戦いの『ひな型』が記されているヨシュア記のカナン人十部族は、黙示録に記されている終末末期、主の再臨直前に神に逆らう「十の王国」のまさにひな型ともいえます。
神が永久の所有を約束された「エレッツ イスラエル(イスラエルの地)」の嗣業を認めない諸国民が今日に至るまで中東不和を引き起こし、昨今、イスラエルの四方の国境からの同時攻撃の脅威が日増しに高まっていますが、これらの諸国民が、黙示録で「十本の角」(黙示録12:3ほか)に象徴されているのです。
➪『一人で学べるキリストの啓示:ヨハネの黙示録の預言』参照

戦闘力を備えたカナンの部族、すなわち、この世の勢力に対抗すべく、約束の地征服に向かうイスラエルの民が銘記しておく必要があったのは、いったいだれが力ある真の神か? ―イスラエルの神か、バアルやアシュタロテに象徴されるカナン人の偶像神か―、と、地の所有を正統的に主張できるのはだれか? ―主ヤーウェか、カナン人か― の二点でした。神は、ご自分が大自然をも支配しておられることを、水をせきとめる奇蹟を通して、また、水の過酷さを克服する神こそ大地を所有する真の神との当時の通念に訴えて、ご自分こそ全地、全諸国民の主であることを立証されたのでした。
「紅海」において、また、ノアの時代の大洪水において、さらにさかのぼれば、天地創造時に示された超越的な力をこのヨルダン川越えでも起こされたのでした。したがって、出エジプトの出来事を聞き知っていたカナンの原住民は今、自ら恐るべき神の力を目撃することによって、また、四十年前の紅海横断の出来事を経験していない新しい世代のイスラエル人も全員、眼前で神のみわざを見ることによって、主への確信を新たにすることができたのでした。

イスラエルの民がヨルダン川を渡ったのは「第一の月の十日」、すなわち、ニサンの月の十日で、奇しくも、イエス・キリストがエルサレムに勝利の凱旋をされた受難週の日曜日はちょうどイスラエル暦のこの日でした。
イスラエルの民がヨシュアを導かれる神に従って信仰の戦いを始めたように、新約の民も、先導されるキリストに従って信仰の戦い、―勝利者として神の国の報酬を所有し安息に入る― を始めたのです。
13節に明記されているように、この時期は春で、ヘルモン山の雪解け水でヨルダン川が死海に注ぎ込む「アダム」と呼ばれる地点は水かさ、水流が増し、川の幅も深さも最大になるため横断が危険な時節でした。しかし、ヨシュアは
見よ、契約の箱を。全地の主が、あなたがたの先頭に立ってヨルダン川を渡ろうとしておられる。(下線付加、11節は邦訳では「見よ。全地の主の契約の箱が…渡ろうとしている」)
と、神のご臨在、先導を民に再度銘記させ、水があふれるヨルダン川に信仰で突入するよう勇気づけたのでした。イスラエルのカナン征服は、ヤーウェがもはやイスラエル民族、地域だけの神ではなく、「全地の神」であることが知らされる劇的な出来事になったのでした。2章に記されているように、これはまさに、異邦人でありながら、ヤーウェが天地の神であることを認識し、イスラエルの偵察隊を助けたカナン人ラハブの信仰告白でした。

民全員がヨルダン川を無事渡り終えるまで、祭司たちが「契約の箱」とともに干上がった川床の真ん中に留まったということは、このことが単なる自然現象ではなく、神が御目的のために引き起こされた出来事であったことを明らかにしています。「契約の箱」は、神ご自身が川の一番危険な場所に立たれ、民とともに信仰の戦いを導いてくださったことのしるしでした。パウロは
これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(コリント人第一10:11)
と、この世の武器ではなく、神の言葉が終末末期の信仰の戦いに直面している信徒に必要であることを明確にしています。