神の警告、COVID-19 第一波
「わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない」と偽りの平安に安住している神の民…
「あなたがたは、わたしを恐れないのか…わたしの前で震えないのか」と嘆かれる主…
「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。…
私は思った。「彼らは、卑しい者たちにすぎない。しかも愚かだ。主の道も、自分の神のさばきも知らない。だから、身分の高い者たちのところへ行って、その人たちと語ろう。彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているから」と。ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。…
これらについて、わたしが罰しないだろうか。―主のことば― …ぶどう畑の石垣に上り、それをつぶせ。ただ、根絶やしにしてはならない。そのつるを除け。それは主のものではないからだ。…彼らは主を否定してこう言った。『主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない』…
それゆえ、万軍の神、主はこう言われる。「あなたがたがこのようなことを言ったので、見よ、わたしはあなたの口にあるわたしのことばを火とする。この民は薪となり、火は彼らを焼き尽くす。…
しかし、その日にも、…わたしはあなたがたを滅ぼし尽くすことはない。…さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。あなたがたは、わたしを恐れないのか。…わたしの前で震えないのか。…しかしこの民には、強情で逆らう心があった。それで彼らは離れて行った。彼らは心の中でさえ、こう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。…あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。それは、わが民のうちに悪しき者たちがいるからだ。彼らは野獣を捕る者のように待ち伏せし、罠を仕掛けて人々を捕らえる。…これらに対して、わたしが罰しないだろうか。…
荒廃とおぞましいことが、この地に起こっている。預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、わたしの民はそれを愛している。結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」 エレミヤ書5章
エレミヤ書5章には、霊的にも道徳的にも堕落した首都エルサレム(神の契約の民イスラエルを代表)が描写されています。神の憤りに最初エレミヤは、神の掟に通じ、神を知っているイスラエルの指導者なら無知な一般住民とは違うだろうと期待したのですが、全民の背信の現実に、神の裁きのメッセージを受け入れざるを得ませんでした。
この文脈で神は、神の創造の摂理に従っている天地、自然現象の中でも海と雨を取り上げ、神に逆らい自ら災いを招いている人とを対照させ、神が与えられる「良いもの」を拒む、民のうちの「悪しき者たち」を罰さざるを得ない、と言われました。
堕落を「愛している」民もすべて同罪です。
神はご自分を恐れない反逆の民を、「刈り入れのために定められた数週」(5:24、下線付加)が無事守られ収穫できることを心の中でさえ感謝しないと嘆かれましたが、この数週はユダヤ暦の、オメル(束)を数え始めるニサンの月の十七日「初穂の祭り」から、大麦の収穫の終わり、小麦の収穫の始まりを告げる「七週(ペンテコステ)の祭り」(今年は5月31日)に至るまでの七週間のことで、神の暦では神が「良いもの」で満たしてくださる祝福の祭日でした。
このシバンの月の六日に、シナイ山でモーセに律法が授与され、西暦一世紀、聖霊降臨によってエルサレムに「キリストの群れ、教会」が誕生したのでした。
COVID-19の世界的大流行で都市封鎖となり、在宅勤務、外出禁止、自宅待機、自己隔離が敷かれたため、世界中のかつてない多くの人たちが見えない霊の世界に関心を持ち、オンラインで宗教的な情報源からのメッセージに耳を傾けたことが幾つかの調査で挙げられていました。
緊急事態宣言が解除された後も、生活様式、経済問題がすぐには解決されるわけではないので、突如として出現し、世界中に感染者580万人余、死者36万人余をもたらしたこの疫病は一体何であったのか、また、今後の生き方を見出すため、引き続き、物事の背後の真理を探究する動きが続くことと思われます。
日本で、神、また、神の言葉『聖書』への関心がどれほど高まったのか分かりませんが、ちなみに、K-A-Sグローバル・リサーチによる5月20日時点の調査結果では、米国人の39%、イスラエル系ユダヤ人の34%がコロナ禍後、神への信仰が強化され、対照的に、ドイツ、イタリア、ポーランド、イギリスはそれぞれ、わずか19%、22%、22%、18%として挙げられていました。
国家元首が『聖書』の神を信じ、神の御旨に沿った国家政策を推し進めている米国とイスラエルで、国民の神への立ち返りが高まっていることは非常に興味深いことです。元首が神に依存している国を神が祝福されることは聖書の主張で、今後、この傾向はますます明確にされていくと思います。
人が危機に直面して初めて霊に覚醒することは、聖書の至るところでイスラエル史を通して証しされています。人は自らの健康、家族、仕事、生計が揺さぶられ、脅かされると、霊的な答えを要求するようになります。
ご利益宗教が唱える「神に帰依して宗教行事に専心すれば、現世での家族安泰、成功、繁栄が約束される」が、真の神の約束とは無縁であることは、他宗教や新興宗教に比べてキリスト信仰に魅力を感じる人が少ない理由の一つではないかと思いますが、一瞬先の死活が問われる危機に直面したとき初めて、人は真の神が保障してくださっている良いもの、「永遠のいのち」につながっていることの意義を見いだすのではないかと思います。
この世が与えるものはすべて無に帰しますが、神から与えられたものだけは現存の天地が揺さぶられても永久に残ります。肉体が滅んだ後永遠に生きるか否かは、今、この世でキリスト信仰に生きる道を受け入れるか否かで決定されます。
死後、訓練を受けて御国に入れられる場所「煉獄」の概念は異端の教義で、聖書のどこにも記されていません。永久の生命に連なるチャンスは死後にはないのです。
COVID-19で感染者数、死者数の上位を占めたのはキリスト教国でした。
神の守りが期待されるはずの国々が異教の国々以上に厳しく打たれたことに疑問をもたれた方が少なからずおられるのではないかと思いますが、このことは、キリスト信仰がご利益宗教ではないことを証しする以上に、神の預言の成就の観点から捉えることができます。
使徒ペテロの預言「万物の終わり…さばきが神の家から始まる」(ペテロ第一4:7、:17)から、今日が神のご計画のどの時点にあるかを知る明確な指標が示されたとみることができます。
使徒ペテロの預言「万物の終わり…さばきが神の家から始まる」(ペテロ第一4:7、:17)から、今日が神のご計画のどの時点にあるかを知る明確な指標が示されたとみることができます。
神はこれまで二千年近く、キリストの群れ、教会に福音宣教を任せて来られましたが、その全教会史は黙示録2、3章の小アジアの「七つの教会」に象徴されています。
特にキリスト教神学の教義に基づく組織の教会、また、人類史最後の時代を象徴する「ラオディキアにある教会」は、キリストが
あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す(黙示録3:16)と、他のどの教会に対してよりも嫌悪感で非難されたキリスト不在の教会です。世の終わり、教会への悔い改めの警告です。
キリスト教神学は、ギリシャ語で書かれた新約聖書(特に福音書と書簡)と、旧約(ヘブル語)聖書では、人類の創造と堕落を記述した創世記の三章までとメシア預言に関わる預言書の一部に重点を置いて来ましたが、キリストが律法を全うしてくださったのでキリスト者はもはや律法に戻る必要はないとの理由で、ユダヤ教徒にとっては一番重要な『モーセ五書』をほとんど扱ってきませんでした。
しかし、キリストが語られた福音の基はすべて、当時流布していた『ヘブル語聖書』にあり、旧約の神とキリストに対する信仰は基盤となる旧約(ヘブル語)聖書を学ばずして、正しく理解することはできないのです。
旧新約両聖書を貫いている重要なテーマを簡潔に挙げるなら、
1.創造、2.神の絶対権、3.契約、4.裁き、5.義、6.愛、7.憐れみですが、これらの基はすべて、旧約聖書のイスラエル史、律法、預言の中で語られています。
もっと他にもテーマはありますが、簡潔にまとめたこれらの基本的なテーマを神は、被造物「人」にご自分の本質と御目的についての基本的な真理を伝えるために用いられたのでした。
もっと他にもテーマはありますが、簡潔にまとめたこれらの基本的なテーマを神は、被造物「人」にご自分の本質と御目的についての基本的な真理を伝えるために用いられたのでした。
(1)創世記だけでなく、預言書、ヨブ記、詩篇ほか至る所に神の創造の素晴らしさが記されています。
(2)聖書の神を信じる者は、ヘブル語聖書から
わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを行う者(イザヤ書45:7)
と主張される神を知っているので、今日全世界を揺るがしているCOVID-19の背後にも主権者なる神がおられ、神の摂理の下で善も悪もすべてが許されていることを確信することができるのです。
(3)神はイスラエルの族長アブラハムと永遠の契約を結ばれました。贖いの契約に永久に真実な神は、キリストの再臨によって地上にダビデ王国を具現されます。今日なおもキリスト教神学の組織の教会が信奉している「置換神学」、―イスラエルは神を十字架上で殺害したので裁かれ、教会に置き換えられ、イスラエルに約束された祝福は霊的なイスラエル、教会のものとなったと主張― の根拠は聖書のどこにもなく、反イスラエル、反ユダヤ主義を生み出すことになったのでした。
(4)神への反逆に生きていた人が罪悔い改めて神に従うとき、神の本質(6.愛、7.憐れみ)は喜んで悔い改めた人の罪を赦し、その人は神の大家族の一員として御国に入れられますが、同時に、神が義なる神で不義を容赦なく裁く方であることを忘れてはならないのです。
神を正しく理解するには、神が要求する5.義が、「罪人」が自らの力、努力では達成できないものであることを知るために、『モーセ五書』に記された、神が制定された律法と神殿でのいけにえ制度を学び、理解する必要があるのです。
どの聖書用語も、『ヘブル語聖書』で最初に登場した文脈に基づいて定義が確定し、その定義は全聖書で一貫しているので、新約聖書のキリストのたとえを解釈するとき、説教者によって解釈が大きく異なるという矛盾は生じないことになります。
残念ながら、この原則が無視されてきたため、神学のキリスト教会では新約聖書の解釈に混乱が起こり、正しい神理解にも大きな影響を及ぼしてしまったようです。
旧約聖書に流れるヘブル人の習慣、考え方、生活様式を基盤として新約聖書を理解するとき、解釈は一貫し、ヘブル語で聖書を顕された神ヤーウェを正しく理解することができます。
冒頭に引用したエレミヤ書で神が繰り返された驚きの嘆き「あなたがたは、わたしを恐れないのか。…わたしの前で震えないのか」は、今日の教会の問題です。
聖書で「パン種」に象徴されている「罪」の定義があいまいになり、創造者、絶対者、裁き主なる神を全く恐れず敬わず、救いを得たと安心している「悪しき者たち」が教会に満ちているのです。