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第331号  黙示録20:1-10

千年支配のキリストの御国への入国直前の背教、迫害への備え


背教、迫害に直面していた初代教会時代のキリスト者に、先に待ち構えているもっと困難な時期に備えるため、実践的な目的で書かれた『黙示録』の通読、熟読は、終末末期に生きている私たちにとっても必読書…

また私は、御使いが底知れぬ所の鍵と大きな鎖を手にして、天から下って来るのを見た。彼は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り、千年が終わるまで、これ以上、諸国の民を惑わすことのないように、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をした。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになる。

また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。

しかし、千年が終わると、サタンはその牢から解き放たれ、地の四方にいる諸国の民を、すなわちゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海の砂のようである。彼らは地の広いところに上って行き、聖徒たちの陣営と、愛された都を包囲した。すると天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには、獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。    黙示録20:1-10


キリスト者のためにキリスト者によって書かれた『ヨハネの黙示録』は、御使いを通して聴覚と視覚への映像で示されたキリストの啓示を筆写したもので、初代教会時代、小アジアの諸教会に回覧書簡の形で伝えられました。著者ヨハネ自身が書くことを意図したのではなく、未知の出来事の、想像することさえ不可能なことを見、聞いたまま叙述することが命じられたので、必然的に「絵ことば」が用いられたのでした。

象徴の使用は、物事を隠すためではなく、むしろ、明確、明瞭にするために意図されたのです。聖書の預言、諸書、書簡はどれも朗読されることが意図されていることから、しかも、黙示録には

朗読する者…聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである(1:3)

と明記されていることから、目と耳と口を通して御言葉を通読することは、実践者に最深の意義と最大の感化をもたらすに違いありません。


黙示録は、背教、迫害に直面していた当時のキリスト者に、またその先に待ち構えているもっと困難な時期の備えのために、実践的な目的で書かれました。もっと厳しく言えば、信徒が殉死に至るような状態に追いやられたとしても、信仰のゆえの苦しみを「耐え抜く」ように、また、すべての敵の圧政に屈することなく、自らの名を「いのちの書」に留めるように、と信徒を励ますことに向けられたのでした。ですから、この書の理解を試みるとき、「ここに記されていることが、迫害のさ中にある信徒にどのように役立つのだろうか」と、自問しながら読み進み、自分自身の備えを固めていく必要があるのではないかと思います。

二十二章で構成されている黙示録は、(1)最初の三章は「今、正されなければならない諸事」(2)4-18章は「より良くなる前にますます悪くなる諸事」(3)最後の四章は「最悪の後、はるかに良くなる諸事」、のように分けることができ、(3)で劇的変化をもたらすのは、キリストの再臨です。

ヨハネの時代、遠未来の出来事であった(3)は、終末末期に生きる私たちにとっては、すぐにも直接関わることになると思われる出来事です。黙示録20章は、再臨後のキリストによる千年支配の時代を描写していますが、(3)の中でも、最悪の後、メシアによってこの世が劇的に変えられるという朗報の部分です。


20章には「千年」という言葉が六回も用いられていることから、しかもそのうちの二つには「その千年」―邦訳では定かではない― と定冠詞が付けられていることから、これは象徴ではなく、長い実際の期間を表し、それ自体が重要性を画する新時代であることを明確にしています。

黙示録では、大艱難期を「一時と二時と半時の間」、「千二百六十日の間」、「四十二か月の間」、すなわち三年半と明記していますから、これら信徒の極度な苦しみの期間を、それに続く「千年間のキリストの支配の期間」と比べれば、この書が信徒を励ますために書かれたという目的にかなうことが分かります。信徒は、先に備えられている栄光に目を留めて、今を耐えることができるのです。パウロは、このことを

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます(ローマ人8:18)

と語りました。


冒頭に引用した20章1-10節の段落で、キリストの支配の「千年」がいつ、どこで、どのように起こるのかという疑問を持たれる方が多いのではないかと思います。千年期は、白い馬に乗ったキリストが軍勢を連れて天から下って来て、獣と偽預言者を退治した後、「大きな白い御座」での裁きの出来事が起こる前に起こります。すなわち、キリストの千年支配は再臨と裁き、―全人類の最後の審判― の間に位置づけられます。

次に、キリストと信徒による支配は天か地か、どこで起こるのでしょう。黙示録では、天と地を行ったり来たりが頻繁に起こっているので混乱が起こりがちですが、通常、文脈の中で明確な場所の表示がされています。19章に記されている出来事にさかのぼると、キリストと軍勢は天から下って地で敵を打ち負かし、サタンを縛る御使いも天から下ってきて、サタンは地で捕らわれます。この後、千年支配の最後にサタンは地下牢から解放され、地で神に対する最後の戦いを挑みます。その直後、全人類の最後の審判の直前に、現存の「天と地」は消滅します。

明らかなように、上記の文脈では「地」に焦点が置かれており、出来事はすべて「地」で起こります。そうであれば、4節に記されている「多くの座」は、そのときまでにすでに地上に戻っておられるキリストとともに支配することになる信徒の地上での働きの場ということになります。黙示録の書の前半部で、

勝利を得る者、最後まで(キリスト)のわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える

こと、また、キリストの血によって贖われ、神のために王国とされ祭司とされた人々は「地を治める」ことが約束されていましたが、そのことが20章以降で成就することが記されているのです。また、

この世の王国は…キリストのものと(なり)主は世々限りなく支配される(11:15)

との、最後のラッパを吹き鳴らした御使いの宣言は、人の堕落以降サタンが支配していたこの世が完全にキリストの支配下に置かれたことの宣言でした。


サタンは、この段落の最初と最後に登場するだけで、その間、長期に亘って地の民は、キリストと信徒たち(最後まで、あるいは死に至るまで主に忠誠であった)によって支配されます。この中には、ヨハネが天の祭壇の下で、早く身体が贖われるようにと叫んでいるのを見た殉教者たちもいます。彼らは、この時点までに「第一の復活」にあずかり、甦りの身体で主に仕え、地の民を支配するのです。

地の民として千年支配の御国に入るのは再臨のキリストをメシアとして受け入れ、キリスト者となったすべてのユダヤ人と、大艱難期に迫害に苦しむ信徒を生命をかけて助け、キリストから

あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです(マタイ25:40)

と、その善行が認められた未信者と、その時点でまだ信仰告白の年齢に達していないすべての子どもたちです。これはキリストが「羊とやぎのたとえ」で語られた預言の成就で、たとえ獣のしるしを受けた未信者であっても、最後のキリストに対する行為によって

世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい(マタイ25:34)

とのお言葉がいただけるのかもしれません。


しかし、千年期の最後のサタンの再度の惑わしで、至福の御国を楽しんだ住民の驚くほど多く、―「数は海の砂のよう」― は、肉に宿る罪のゆえに神に反逆し、天からの火で滅ぼされた後、「第二の復活」で不死の身体が与えられ、サタンとともに「昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける」ことになります。「火と硫黄の池」が絶滅の場ではないことは、そこに「獣も偽預言者も(生きて)いる」ことから明らかです。