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第326号  マタイの福音書2:1-20

キリストのご降誕は紀元前6年の秋だった

ユダヤ人歴史家ヨセフスの記録、―ヘロデ大王は「贖罪の日」の直後に起こった月食と「過越の祭り」の間に亡くなった― が正しければ、ヘロデ大王の死は、紀元前5年の終わりから4年の初めになり、イエス・キリストのご降誕は紀元前6年の秋になる…

イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。『ユダのベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について、詳しく聞いた。……博士たちは……夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子捜し出して殺そうとしています。」……ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。……ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」        マタイの福音書2:1-20


聖書学者たちは、キリストのご降誕の時期を、2BCE(紀元前二年)、あるいは1BCEとする多少の例外を除き、8BCEから4BCEの間とみなしています。ご降誕の時期の算出は、ヘロデ大王の死がキリストのご降誕の後、起こったとする聖書の記述に基づき、いろいろ考証されて来ました。その結果、『ユダヤ古代誌』を記したユダヤ人歴史家フレウィウス・ヨセフスの記録から、ヘロデ大王は4BCEの「過越の祭り」(4BCEは4月12日)の前に亡くなったとの見解に、歴史家や学者の多くが落ち着きました。

ヨセフスの年代設定に必ずしも疑問がないわけではありませんが、ヘロデの死の直前に月食が起こったと記録していることが年代設定に重要な鍵を残しました。今日、天文学では、2022BCEから3000CE(西暦三千年)にかけて起こった、あるいは、起こる月食の日付と時刻さえも正確に割り出すことができるのです。ですから、どの月食が出来事に該当する時期に起こったのかを割り出すことができれば、それがヘロデの死の時期の決定的な証拠になるのです。


11月8日、日本全国で皆既月食、―月が地球の影に完全に隠れ、満月が赤黒く見える天体現象― が見られました。日本全国で次回、皆既月食が見られるのは2025年9月8日とのことですが、今回の皆既月食では天王星食も見られたことから、以前、皆既月食と惑星食が同時に見られた1580年7月26日の出来事以来442年ぶりの天体現象とのことでした。

天体現象は神が創造の初め創案され、古代、天空のしるしは神の御旨、「神の栄光を語り告げ(る)」(詩篇19:1)手段と捉えられてきました。時節を知る色々な手段が発明、開発された今日も、恒星、惑星、衛星、彗星は季節を知る暦として有益であることに変わりないのです。特に、イスラエルから観測される月食の前後にはイスラエル史上大きな出来事が起こりました。


伝統的に、①4BCE3月12日に起こった部分月食がヘロデの死の時期の決定的証拠となる月食である、と受け入れられてきました。しかし、その後、さらに三つの月食、―②5BCE 9月15日の皆既月食、③1BCE 1月9日の皆既月食、④1BCE 12月29日の部分月食― が考察の対象に加えられました。

ヨセフスは『ユダヤ古代誌』の17巻で、ヘロデ王による幾人かのユダヤ人の処刑に先立って、全ユダヤ人が断食日を遵守したことを記録し、ヨセフスの表現は、この断食日がイスラエルの主の例祭の「ヨム・キプル(贖罪の日)」であったことを示しています。この日、ヘロデは大祭司マッティアの祭司職を剥奪し、その数日後、別のマッティアが仲間と扇動を起こした廉で処刑されたのでした。この処刑日に月食が起こったと、ヨセフスは記しているのです。

上記の①~④の月食のうち、ヨセフスの記述に一致するのは、②5BCE 9月15日の皆既月食だけです。5BCEの「ヨム・キプル」は、月食の四日前の9月11日に遵守されたのでした。

②5BCE 9月15日の皆既月食がヨセフスの記述に一致すると思われる証拠は他にもあります。この月食と翌年の「過越の祭り」、―4BCE 4月12日― との間には七箇月の隔たりがありますが、この間にヨセフスが記している二十以上の出来事が行われたのでした。行事の中には数箇月かかるものもあったので、すべての行事をこなすには十分な期間が必要で、実際、計算で得られた必要日数は、ほぼ三十一週(七箇月)でした。上記の②以外の月食では、①の場合は、月食と「過越の祭り」との間が一箇月しかなく、③の場合は、三箇月の隔たり、④の場合も、三箇月の隔たりで、どれも諸行事をこなすには短すぎ、ヨセフスの記述に符合しないのです。

ヨセフスによると、「ヨム・キプル」の前にすでに不治の病に侵され、月食の日に犯罪者たちに話すために立ち上がることもできない状態であったヘロデは、月食と翌年の「過越の祭り」の間に亡くなったのでした。したがって、ヘロデの死は5BCE の終わりか、4BCEの始めに起こったことになります。

キリストのご降誕とヘロデの死の間には、羊飼いたちが目撃したベツレヘムの宿の飼葉桶の中のみどりご、東方の博士たちのエルサレム訪問など、ご降誕にまつわる諸出来事と、ヨセフ、マリアと幼子イエスのエジプトへの逃亡の出来事、ベツレヘムとその周辺一帯での二歳以下のユダヤ人男児虐殺の出来事が起こったのでした。

古来、キリストのご降誕時期に関して見解の一致はなく、200~600CEの初代のキリスト者の間では、見解は5BCEから2BCEにまで及んでいました。しかし、上記のような諸々の出来事が起こるために必要な年月と、イエス・キリストがヘロデがまだ生きていたときにお生まれになった事実とから、キリストのご降誕は6BCEの終わりにかけてであった、と推し量ることができるのです。


キリストが福音宣教を始められたとき、祭司が職務につく年齢三十歳であったとみなし、三十三、四歳でお亡くなりになったとの見解を、私はこれまで支持してきましたが、ヨセフスの記録が正確であるなら、以上考察したように、キリストのご降誕時期が思っていたより早かったことになります。その場合は、これまでの見解を訂正せざるを得なくなります。民数記は祭司の就業年齢を三十歳から五十歳までとしていますから、また、ルカの福音書は

イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳

と記していますから、キリストは6BCEの秋にお生まれになり、三十三、四歳でミニストリーを始められたと思われます。

いずれにせよ、洗礼者ヨハネがミニストリーを始めたのは「皇帝ティベリウスの治世の十五年」(ルカ3:1)、29CEの夏で、キリストは29CEの秋にミニストリーを始められ、33CEの春に十字架刑で亡くなられたと思われます。

ちなみに、ダニエル書9章の『七十週の預言』の解釈を、正しいヘブル語訳に従い、キリストの初臨によってすでに成就したとする見解によれば、この預言の第六十九週(483年)の終わりはちょうど29CEで、キリストがエルサレムでミニストリーを始められた年に一致し、預言の第七十週の七年間でキリストによる新約が、エルサレムを中心に全ユダヤ人に伝えられたと解釈できるので、この見解は聖書の主張に一致していることになります。

この画期的な見解については、次号で取り扱いたいと思います。