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Yさんの証し その26

形式でしか祈れないとき、働かれる聖霊

6月12日(火)

頌主。
月報をありがとうございました。
先週の木曜に、夫が自然歩道の側にあるウサギの掘った穴に足を踏み入れ捻挫してしまい、外出・買い物はもちろん・エリヤを公園に連れだせない状態です。たまたま金曜日に私が有給休日をいただいていたので、一時しのぎに杖を買いに行き、トイレと室内の行き来はできるようになりました。こんな中ではありましたがこの週末、ヨシェルの会の33回使徒パウロの宣教を再度拝聴いたしました。

信仰による救い、主の恩寵がこんなにも我々を自由にしてくださっているのに、
God made human beings for righteousness, but they seek many alternatives. (Ecclesiastes 7:29、ISV)、「神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの代案を探し求める」
とはまさしくこのこと、あらゆることに対して、いつの間にか儀式・形式にとらわれ、他人の目を気にして、うっかり本質を見失ってしまう自分をとても恥ずかしく思います。

祈れなかったとき、型で祈ることに助けられました!

それでもたった一度だけ、「型(かた)・形式」に救われたことがあります。
2012年にしばらくの間、全く祈ることができない時期がありました。
皆さまの執り成しの祈りがいつも肌身に感じられ、それには感謝の気持ちでいっぱいでしたが、でも、自らの祈りの言葉が全く出てこないのです。
諦念と怒りのようなものがこみ上げてきて、自発的な祈りが口から出るのをかき消してしまう、そんな状態が続きました。

紋切型の祈り?

私が初めて覚えた祈りは、「主の祈り」と英国国教会の祈祷書にある祈りでした。
ご存知のように、祈祷書の祈りはときに揶揄(やゆ)されて、「automatic(機械的)で心がこもっていない」、「Set Meal(定食)のようなもの」とまで言われることがあります。
皮肉にも、このAutomatic/口をついて出る祈祷書の祈り(と「主の祈り」)が、祈る言葉さえ失った自分を再び祈りに向かわせることになりました。
心が祈りについていかない状態を打破するために、祈祷書の祈りの助けを借りたのです。無意識でも口をついて出るこの一語一語を知らないうちに何度も何度も反芻していたのでした。

人生、思いがけないことが多々ありますが、主の恩寵のもと、自由であることを感謝して、何事も祈りで乗り切ってまいりたいと思います。
今後ともご指南よろしくお願い申し上げます。
主イエス・キリストの平和と恩寵が豊かにありますように。

Y

聖霊の御働き

Yさんが、機械的に繰り返した「形式での祈り」の背後で、内住のキリストの御霊が執り成してくださったに違いありません。御霊の力によって、Yさんは祈り続けることができ、Yさんは困難から救い出されたのです!

異言の力


【1】異言の旧約版はイザヤ書28章に見られます
彼は言っている。『ツァウにツァウ、ツァウにツァウ、カウにカウ、カウにカウ、あっちにゼエル、こっちにゼエル』と。」まことに主は、もつれた舌で、異国のことばでこの民に語られる。主は彼らに、『ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休息がある』と言われたのに、彼らは聞こうとしなかった。主は彼らに告げられる。『ツァウにツァウ、ツァウにツァウ、カウにカウ、カウにカウ、あっちにゼエル、こっちにゼエル。』これは、彼らが歩くときうしろに倒れて砕かれ、罠にかかって捕らえられるためである。(10-13節、新改訳2017、下線付加)

*この文脈は、預言者イザヤが告げただれにでも分かるメッセージに耳を閉ざし、「『ツァウにツァウ、ツァウにツァウ、カウにカウ、カウにカウ、あっちにゼエル、こっちにゼエル』って、何だ? 何を言っているか分からない!」と茶化し、あざけったユダの民に、神が「異言」を譴責(けんせき)として用いられた箇所です。
聞く耳のない「嘲る者」には、もはや分かる預言のメッセージは語られない、神は彼らに分からない『異言』、「異国のことば」で語る、彼らは滅びに向かっていると、宣言されたのでした。


*パウロは、異言におぼれたコリント教会の信徒に、旧約時代に起こった出来事に基づいて、「神は、不信仰なユダの民、すなわち、信じていない者たちを咎めて異言を語られた」と、警鐘を鳴らしました。
たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。(コリント人第一13:1)
それで異言は、信じている者たちのためではなく、信じていない者たちのためのしるしであり… 。(コリント人第一14:22)



【2】新約聖書では、至るところで「異言」に言及されています

広義の定義は、キリスト者に内住しておられる「神の御霊、聖霊」が語らせてくださる言葉で、祈りの言葉、語る言葉を自分の力、理性では生み出すことができないとき、そのような状況下にあるとき与えられる聖霊の賜物です。

(1)新約時代、最初に公に知られるようになったのは、西暦一世紀、キリスト昇天後の「ペンテコステの祭り」のときでした
五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。(使徒の働き2:1-4、下線付加)

*甦り後弟子たちに会い、昇天される直前、キリストは、信じる者たちが聖霊によって「御言葉を世界中に伝播するに必要な力を受ける」と、言われ、そのことが「ペンテコステ」の日にエルサレムで起こったのです。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8、下線付加)

(2)迫害下では、異言の力は絶大
…人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。(ルカ12:11-12)
…どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。(ルカ21:14-15)


(3)執り成しをしてくださる聖霊
…御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ人8:26-27、下線付加)

(4)祈り続けることができる異言の力

理性での祈りには、内容にも、継続時間にも限界がありますが、御霊による祈りには限界がありません。内住の御霊が祈ってくださるのですから、祈り続けることができます。
あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。(エペソ人6:18、下線付加)

Mさんの証し

この6月に、リューマチ性関節炎を四十一年間患い、ついに足腰が全く立たなくなる重症に陥ったMさんから、4~5月、二ヶ月間のすさまじい闘病に勝利し、戸外にも出られる自由を取り戻したとの、生きた証しを伺いました
勝利は、身体の痛み、苦しみで眠れない夜、「異言」によって朝まで祈り続けることによって、勝ち取られたのでした!


上記の聖書引用は、「新改訳2017」から