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第273号   マタイの福音書21:1-11, 23:37-39

『ヨブ記』のなぞ「野ろば」、新約聖書に答え!

聖書を唯一真の神の言葉と信じ、研究し続けた人たちは人類史上、御言葉に基づいて多くの領域での発見、革新に貢献してきました。イスラエルの地と民に関して、神は聖書の中で多くを語っておられるので、イスラエルでは今日も多くの驚くべき発見が続いています…


さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たそのとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。「向こうの山へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れてきなさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」
そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。群衆は、イエスの前を行く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。             マタイの福音書21:1-11
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」              マタイの福音書23:37-39(新改訳2017)


神の一貫したデザインが、新旧両約聖書六十六書の至る所に投影されているということは、他の書物には見られない聖書の大きな特徴です。天地万物の創造の始めから人類史を最後まですべて掌握しておられる神にしかできない離れ業が聖書の至るところに散りばめられており、それを発見することは、この世が与えることのできない喜びですが、神の創造、意匠のごく一面しかまだ発見、解明されていないのが現状です。

太古の昔、イスラエルの族長時代、天地が神の力を証ししていること、自然も超自然もともに神がすべて支配しておられることを知っていたヨブは「見よ。これらはただ神の道の外側にすぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない」(ヨブ記26:14)と表現しました。ヨブは、神が人に顕されたことが神のほんのささやきに過ぎないため、無限の神の力に対して人の理解がひどく限られていることを認識していたのでした。もちろん、神との関係の度合いが人それぞれの神理解に反映されることも確かです。

神を知る手段の一つとして、神は神意、測り知れない奥義の鍵を『聖書』に埋め込まれたので、あるいは、預言的に顕されたので、聖書を唯一真の神の言葉と信じ、研究し続けた人たちは人類史上、御言葉に基づいて多くの領域での発見、革新に貢献してきました。イスラエルの地と民に関して、神は聖書の中で多くを語っておられるので、イスラエルでは今日も多くの驚くべき発見が続いています。
同時に、冒頭で触れたように、聖書には時代の枠を超え、「書」から「書」にまたがって、共通した象徴を通して神の一貫したメッセージが語られています。

今月は、(1)聖書の預言に基づく昨今の驚くべき発見と、
(2)共通した象徴を用いて全聖書を貫き、ダイナミックに語られている重要なメッセージを考察することにします。


(1)中東で唯一の石油埋蔵のない国として不思議がられ、あるいは、侮られてきたイスラエルに、二十一世紀に入って次から次へと天然ガスと石油の膨大な埋蔵層があることが発見されましたが、この6月には、イスラエル原産のダイヤモンドが、探索の最終年を迎え、来年から生産開始との驚くべきニュースが公開されました。

2009年にハイファから約130㎞沖合の海底約1,500m地点でタマル天然ガス田が発見され、開発工事を経て2013年から生産が開始されました。2010年には、ハイファから47㎞、海底1,645m地点で、タマルをしのぐレビヤタン天然ガス田が発見されました。さらに、2013年には、アシュドデ海岸近くの海底5.0㎞地点で、高品質の巨大油田が発見されたのです。今やイスラエルは名実ともに世界最大の天然資源の宝庫であることが周知になったのですが、新たにダイヤモンドほかの宝石の埋蔵国であるとのニュースです。

これらは新奇なことではなく、神の預言者たちを通してすべて聖書に記されてきたことで、神は終末末期、メシヤの来臨直前に契約の民イスラエルの地を顧み、「ひそかな所の隠された宝」がついには公になることを約束されたのでした。今日の相次ぐ発見はその成就なのです。

神と御言葉を信じているユダヤ教ハシダイ派の信者アヴィ・タウブは十七年前、聖書預言に基づいて、信者仲間とともに数百万ドルをかけて、宝石の採鉱、探索会社シェファ・ヤミムを創設しました。
1989年にタウブが、ハシダイ派の信者から「レべ」と呼ばれ崇敬されていた霊的指導者を訪ねたとき、レベがほとんど説明なく、イスラエルのために採掘を始めるようにと語ったことがきっかけになり、タウブはまず、あらゆる領域からの情報を集め、糸口探しに奔走しました。
レベは1994年に亡くなりましたが、残されたビデオや公開講義で、申命記33:18-19やエゼキエル書36章ほかの聖句を「神はハイファの海、谷、川の深みに貴重な石や宝石を隠された」、「先例のない知識と物質資源が、メシヤの贖いが近づくにつれ発見される」、「メシヤの来臨を早めるために、地の宝物が愛と施しのために与えられる」と解釈したことが、タウブに採掘の確信を与えることになったのでした。

タウブは、聖書の諸預言と十八世紀の聖書論評の書から、ゼブルン族に割り当てられた地域で地の宝物や、ユダヤ教の祈りの衣の房に用いる青色染料源となる貴重な貝が採集されることを知り、レベがハイファの市長に指示したことに従い、ゼブルン渓谷のキション河川敷、ハイファに隣接するカルメル山脈、およびラモテ・メナシェの一帯に沿って、彼の会社の総力を集中させたのでした。
その結果は、キンバーライト(ダイヤモンドの母岩)、様々なサイズのダイヤモンド七十七個、人類史上発見されたうちで最大のモアッサン石の採掘でした。五ヶ月前に、ロンドン証券取引所での取引も始まったとのことで、会社は拡大へと活気づいています。

キリストは二千年前、ナザレ人イエスを神が送られたメシヤ(救い主)として認めなかったユダヤ人が心底からメシヤを求めるようになるとき、再臨されると約束されましたが、イスラエルでは今日その声が非常に高まっており、再臨の予兆となる諸出来事も相次いで起こっています。天地創造の最初にすでにこれら地の宝物を埋蔵された神は、ご自分の摂理のもと、発見のタイミングをも司っておられるようです。

興味深いことに、イスラエルの大祭司はイスラエルの十二部族を象徴する宝石が十二個、三列四段にはめ込まれた「裁きの胸当て」を身に着けましたが、六番目の宝石はダイヤモンドでした。これは、レアがヤコブに産んだ六人目の子ゼブルンを象徴する宝石なのです。
聖書の預言が人のでっち上げではなく神意であることは、メシヤの来臨が近づくにつれ、秘められていた真理が明らかにされることにより、だれも否定できなくなることは明らかです。


(2)全聖書で共通の意味合いで象徴的に用いられている用語の中で、今回採り上げるのは「野ろば」です。『ヨブ記』を読んでいて、野生のろばが何度も登場し、答えのない疑問が投げかけられていることに気づかされました。この書には、神を畏れ、敬い、御前に正しく生きていたヨブが突然恐ろしい災いに遭い、自分に覚えのない罪の懲らしめに苦悶する過程が描かれています。
苦悶の中でヨブは自分の無実を立証してくれる、だれか神と対等に議論できる「代言者」、「贖い主」を求めるようになりますが、この書の最後に神が登場、応答されます。その中での神の唐突な問いだれが野ろばを解き放ったのか…野生のろばの綱をほどいたのか(39:5、下線付加)や、ヨブの友が語った「無知な人間も賢くなるだろう。野ろばの子が人として生まれるのなら(11:12、下線付加)等、謎めいた言葉には、『ヨブ記』の中では答えが与えられていません。

しかし、「贖い主」の奥義は冒頭に引用したように、新約聖書で与えられているのです。

全聖書の中で、ろばは「生まれながらの人」、「滅ぶべき罪人」として象徴的に用いられています。創世記では、神の約束の子として生まれたイサクと比較して、肉によって生まれた人イシュマエルが野生のろばのような人」と表現されており、ヨブ記での例証に並び、この世で、生きる糧を求めて余裕なく送る人生が象徴されています。視点がこの世にしか向けられていない人生です。
他方で、ヤコブの預言の中でイッサカルは「たくましいろば…苦役を強いられる奴隷」と表現されていますが、イッサカル族は進んで重荷を負う働き人、危機にあって時代を悟り、人の手に成る武器ではなく、神の知恵に依存した傑出した部族としても描かれています。野生のろばが訓練を受けて変えられ、家畜の「荷ろば」、役立つものに変えられるように、滅ぶべき罪人にも「キリストに属する奴隷」、キリスト者として生かされる人生があることが象徴されているようです。
使徒パウロは、コリント人第一2、3章で、訓練を受けていない野ろば、あるいは、子ろばに象徴される「生まれながらの人間」はみな、神の御霊の内住によって変えられる必要、言い換えれば、イエス・キリストを信じる信仰によって、神に反逆する罪から救われる必要があると説いています。

二千年前の受難週初日のキリストのエルサレム入城は、ソロモンがダビデの雌らばに乗って行進し、ダビデの王位を継承する王であることをエルサレム中に告げ知らせたことを彷彿とさせる出来事でしたが、キリストがまだ家畜としての訓練を受けていない自然のままの子ろばにあえて乗られたことには、ご自分がダビデの血筋の王であることを明確にする以上の深い神意があったに違いありません。

出エジプト記には、ろばの初子は羊で贖われなければ死、滅びしかないことが、動物の中でもろばに限って特記されています。雌ろばの許につながれていた子ろばは、羊の犠牲でしか生きられない動物だったのです。
それはまさに、贖われなければ滅びに至る私たち、罪人の姿です。ですからキリストは、「神が必要とされるから」、すなわち、生まれながらの人は神の小羊なるご自身の贖いによってしか、生きることのできない「野ろば」なので、ご自身が代価を払って救うために、象徴的に贖いの場となるエルサレムに子ろばを伴って入城されたのでした。