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第314号  エレミヤ書37:16-38:23

主よ、お言葉をください、選ぶべき道を示してください!

預言者エレミヤの生きた時代は、今日私たちが直面している時代と同じ、神の民の霊的堕落、神と真理への反逆、神の御旨に従う者への迫害、恐れを駆り立てる戦争、飢饉、貧困、疫病…の時代でした…

エレミヤは丸天井の地下牢に入れられ、長い間そこにいた。ゼデキヤ王は人を遣わして、彼を召し寄せた。王は自分の家で彼にひそかに尋ねて言った。「主から、おことばはあったか。」エレミヤは、「ありました」と言った。そして、「あなたはバビロンの王の手に渡されます。」と言った。エレミヤはゼデキヤ王に言った。「あなたや、あなたの家来たちや、この民に対して、私にどんな罪があったというので、私を獄屋に入れたのですか。あなたがたに対して『バビロンの王は、あなたがたの地を攻めに来ない』と言って預言していた、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか。今、わが主君、王よ、どうか聞いてください。どうか、私の願いを御前に受け入れ、私を書記ヨナタンの家へ帰らせないでください。私がそこで死ぬことがないようにしてください。」ゼデキヤ王は命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、都からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から毎日パン一つを彼に与えさせた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまっていた。

さて、…エレミヤが民全体に次のように語ることばを聞いた。「主はこう言われる。『この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病で死ぬが、カルデヤ人のところに出ていく者は生きる。そのいのちは戦勝品として彼のものになり、彼は生きる。』主はこう言われる。『この都は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」そこで、首長たちは王に言った。「どうか、あの男を死刑にしてください。彼はこのように、こんなことばを皆に語り、この都に残っている戦士や民全体の士気をくじいているからです。実にあの男は、この民のために、平和ではなくわざわいを求めているのです。」するとゼデキヤ王は言った。「見よ、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。」

…王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクは…王に告げた。「わが主君、王よ。あの人たちが預言者エレミヤにしたことは、みな悪いことばかりです。彼らはあの人を穴に投げ込みました。もう都にはパンはありませんので、あの人はそこで飢え死にするでしょう。」すると王は、クシュ人エベデ・メレクに命じた。「あなたはここから三十人を連れて行き、預言者エレミヤを、まだ死なないうちに、その穴から引き上げなさい。」…エレミヤはゼデキヤに言った。「イスラエルの神、万軍の神、主はこう言われる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのたましいは生きながらえ、この都も火で焼かれず、あなたもあなたの家も生きながらえる…』」しかし、ゼデキヤ王はエレミヤに言った。「私は、カルデヤ人に投降したユダヤ人たちのことを恐れている。カルデヤ人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするのではないか、と。」エレミヤは言った。「カルデヤ人はあなたを渡しません。どうか、主の御声に、私があなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば…」             エレミヤ書37:16-38:23


預言者エレミヤは南ユダ王国がバビロンによって滅ぶ直前直後のエルサレムの様子、ユダ王国最後の王ゼデキヤと取り巻きの指導者たちとの関係、また、自分に対する王の姿勢を詳細に描いています。エレミヤ書37章から38章にかけてはゼデキヤ王の治世の最後の二年間、588-586BCEが扱われており、包囲されたエルサレムで監禁中のエレミヤを通して主が語られました。それは、エレミヤが四十年に亘って警告してきたエルサレム陥落、バビロン捕囚の預言でした。

冒頭に引用した聖句の背後に、国家指導者間の分裂を読み取ることができます。ネブカデネザルによる第二次バビロン捕囚以降、バビロン帝国の権威下に置かれ、家臣王の分際であったゼデキヤと、当時、同盟を結んでいたエジプトがバビロン勢を撃退してくれることを期待していたエジプト寄りの首長たちとの間に、明らかな見解の相違があったのでした。にもかかわらず、家臣に逆らうことのできない王の弱さ、性格的に優柔不断であったゼデキヤ王の苦渋が方針に一貫性のない命令に現れています。

バビロン勢によるエルサレム包囲中一度だけ、エジプト王の動向にバビロン勢が対応し、引き揚げたことがありました。それを民やエジプト寄りの指導者たちは包囲の終わりと楽観視し、エレミヤを通して何度も告げられた神の言葉、―エルサレム崩壊とバビロン捕囚―を理解できず、バビロンへの服従の警告を受け入れなかったのでした。預言者としてのエレミヤの生涯は神を受け入れない人たちによる迫害、いつも死との対峙でした。

神の御旨を求めて、ゼデキヤ王は祭司や側近の者をエレミヤの許に送りましたが、彼らの祈りの動機は、自分たちの願いを神に伝えてほしいとの自己中心な要求で、神の語られる言葉に耳を傾け、悔い改めて主を求める気持ちは毛頭ありませんでした。首長たちの神の民であるとの自負、エルサレムは神の名が置かれた都であるから難攻不落との妄信、単眼的思考と慣習への固執は、預言者を通して明確に語られた、しかし想定外の神の言葉を拒絶し、その結果、民は指導者が選んだ道によって滅びることになったのです。

他方で預言者エレミヤは、バビロン勢が包囲を解いた束の間のときを神が備えてくださった自由に行動できる最後のときと認識し、家族間で所有地の確認をしておくため、郷里アナトテへ出向こうと、しばらくぶりに開門されたエルサレムから出ようとしたのでした。しかし、このことでエレミヤは、バビロン人の許に落ちのびようとしたとの、道理の通らない、根拠もない言いがかりをつけられ、捕らえられ、書記ヨナタンの家の牢屋「丸天井の地下牢」に監禁されたのでした。神が、国内に蔓延した偶像崇拝のゆえに、ユダ王国を裁く器としてカルデヤ人の国バビロンを送られる、と長く預言してきたエレミヤは、民の間では不人気で、「売国奴」逮捕は首長たちの狙っていたことでした。

「丸天井の地下牢」は、戦火が激しくなるにつれ、増える反逆者のための追加の牢として新しく設けられたもので、エレミヤは包囲中のエルサレムにほぼ食糧が尽きるまで、そこに閉じ込められていたのでした。日頃からエレミヤの預言に関心を持っていたゼデキヤ王は、監禁中のエレミヤの許に密かに人を送り、神の御旨を聞きながら、結局は側近の言うなりに行動してしまったのですが、神の預言者エレミヤに対する敬意を最後まで失うことなく、

私たちの、このいのちを造られた主は生きておられる。私は決してあなたを殺さない。また、あなたのいのちを狙うあの者たちの手に、あなたを渡すことも絶対にしない(38:16)

との誓いを守ったのでした。

王にこびへつらい、王の気に入る預言、―百年以上前のヒゼキヤ王とイザヤの時代、神が奇蹟的なご介入で、アッシリアのセナケリブの手からユダ王国を流血沙汰なく救ってくださったように、私たちはバビロンから守られる― を「主は仰せられる」として語ってきた偽預言者たちは、戦火が激しく、敗北が明らかになるにつれ、いつの間にか姿を消していました。モーセの律法は、「主は…仰せられる」と告げて、何も起こらなければ、そのような預言者は死刑に処されるべきことを定めているからです。

ゼデキヤ王は偽預言者たちを牢獄に入れることはしませんでしたが、エレミヤの嘆願を聞き入れ、地下牢から監視の庭に移し、しばしの解放とパンの配給を約束したのです。物資が底を突いた状況下での神の大きな憐れみでした。しかし、偽預言者や王をそそのかした者たちは人の目から逃れても、究極的には神ご自身によって裁かれることになるのです。


この世に悪が蔓延し、神の裁きの日が確実に近づいている私たちの時代は、まさにエレミヤが生きた、ユダ王国陥落直前の時代に類似しています。エレミヤが、神の民が異邦人に占領され、国家を失うことなどあり得ないと、思い上がっていたユダの指導者を尻目に、四面楚歌の中で毅然として神に目を向け、神の代弁者として、神の民に裁きが下ることを四十年もの間預言してきたのは、国家指導者と民に警鐘を鳴らし、悔い改め、神に立ち返らせるためでした。

イザヤをはじめ、すべての神の預言者たちはみな、世の中が物質的には繁栄を謳歌し、平安なときに、すでに霊的堕落を感知し、悔い改めへの警告を告げ始めたのでした。しかし、繁栄のさ中では、ほとんどのこの世の人たちは預言者の感じる危機感を理解することができず、神の警告のメッセージを無視してきたことが聖書のイスラエル史に記録されています。

旧新約両聖書をだれでも自由に読むことができる今日、エレミヤ書をはじめ多くの預言書の警告から、今後起こることに前もって備えることができるのは、私たちの特権です。旧約の時代は、神が遣わされた預言者が神の御旨を告げましたが、新約の時代に生きる私たちには、聖書に多くの未来預言が明示されているので、それらを通して御旨を知ることができるのです。

他の宗教書とは全く異なって、全聖書が神の霊感によって記された真理の書であることは、聖書に記されている出来事がすべて否定できない歴史的事実であるというだけでなく、聖書の主張する教義が証拠に基づいて評価することのできるものであること、聖書は何千年も前に筆写されたにもかかわらず明確な言語で記されており、推測でしか解釈できない類の神話的な書ではないという点から明らかです。神の言葉としての信憑性を疑う余地はないのです。

聖書は主に次の四点から、吟味され、検証されてきました。(1)聖書の預言は出来事や教義を前もって予告し、(2)これらの預言の多くはすでに細微に至り成就し、(3)世俗史が聖書の預言や出来事の成就を証しし、(4)聖書が提供するデータは考古学や科学によって事実に基づくことが実証されているのです。


ゼデキヤ王は自ら告白したように、第一次、第二次捕囚時にすでにバビロンに移住していた同胞ユダヤ人から辱められることを最も恐れ、また、側近の首長たちに逆らうことを恐れ、バビロン王に降伏するようにとの神の御旨に従うことができなかったのでした。その後、王は逃亡中捕らえられ、息子たちを眼前で虐殺され、両眼をつぶされ、青銅の足かせにつながれ、非常にみじめな捕虜としてバビロンに連れていかれたのでした。

しかし、ゼデキヤ王の魂の救いに関しては、キリストが語られたマタイ25章の「羊と山羊のたとえ」と10章の約束が思い起こされます。逆境下にあった預言者エレミヤへの配慮は神に覚えられており、未来の神の国では、預言者を受け入れたことにより、「預言者の受ける報い」を授かるに違いありません。

2020年初頭に唐突に始まったコロナ禍以降、全世界的に政治・経済・医療危機、秩序崩壊、死傷者数急増、隔離政策で愛が冷え、急速な終末末期世相の昨今、身体の死にいつ直面しても備えができているように生きることがいつになく迫られています。