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第307号  使徒の働き2:1-39

天の神の神殿を象徴する聖霊の火「炎のような舌」

二千年前、イエス・キリスト昇天後十日の「五旬節の日」、キリストを信じる個々人の上に「火の舌」が留まった。それは、神のご臨在される天の神殿を垣間見させる象徴的な出来事であった…

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。…

ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「…イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。…私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。…ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」     使徒の働き2:1-39

2021年の「五旬節」が近づいてきました。二千年前、イエス・キリストが甦られた後、五十日目のペンテコステの日曜日、「主の例祭」のため各国からエルサレムに巡礼に来ていたユダヤ人たちは、「炎のような舌」が一人ひとりの弟子たちの上に顕れ、弟子たちが各国の言語で御言葉を語る不思議な現象を目撃しました。

力ある神のご臨在が如実に顕された「火の舌」の現象は、ヘブル語(旧約)聖書では、神の焼き尽くす火として預言者イザヤが描写し、新約聖書以前のユダヤ文学では天界の神の領域のビジョンに登場しています。したがって、この現象は、聖なる神が地上にご臨在を顕されたものでした。


イザヤは、神に反逆し、神の道から完全に逸脱した者たち、「悪を善、善を悪…闇を光、光を闇…苦みを甘み、甘みを苦みとする」悪者の上に下る神の裁きの文脈の中で、

それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、枯れ草が炎の中に溶けゆくように、彼らの根は腐り、その花もちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のことばを侮ったからだ。それゆえ、主の怒りはその民に向かって燃え… それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている(イザヤ書5:24-25、下線付加)

と語っています。

イザヤは、「火の舌」が乾ききった地をなめつくし、大火を呼ぶように、神は反逆のイスラエルの民を焼き尽くすために来られる、それでも神の憤りは収まらないことを預言したのでした。このイザヤの預言が全諸国民に究極的に成就するのは、いつでしょうか。人類史上、最も神をないがしろにし、神の創造の秩序、掟を完全に覆し、人の手に成る新しい世界を作り上げようとしている今世紀、私たちの世代以降にときが延ばされることはもはやないことを、覚悟しなければならないようです。

300-200BCEに編纂された『エノク書第一』にも、天界のビジョンの中に「火の舌」が登場しています。アダムから七代目のエノクは神とともに歩み、ノアの大洪水前に生きた人の寿命としては非常に短命の365歳で、死ぬことなく天に引き上げられ、あたかも、神の御旨に生きる人は神の御許で永遠に生きることの証人として神が選ばれたかのような、特別な人生を生きた預言者でした。

キリストの実弟のユダは、エノクがキリストの再臨を眺望したことに『ユダの手紙』の中で言及しています。また、ユダもペテロも、『創世記』で用いられている用語「神の子ら」を「御使い」と解釈していることと、ソドム、ゴモラに下される神の裁きと御使いに下される神の裁きとを関連づけていることから、『エノク書第一』の影響を受けたに違いないことがうかがえます。

その書の中で、エノクは超自然的に天に引き上げられた旅を描写し、神の天の神殿が「火の舌」で造られていたことを告げています。英語訳のエノク書は版によって必ずしも一致しておらず、天の神殿の構成要素の一つ、水晶が「白大理石」と訳されているものもありますが、邦訳すると、以下のようになります。


2これから私が、肉の舌と息で話そうとする事柄は、私が眠っている間に見たものである。… 8そして次のようなビジョンが私に顕された:見よ、ビジョンの中で雲が私を招き、霧が私を招いた:星と稲妻の走路が私を運び、押さえつけた。ビジョンの中で風が私に翼を与え、私を運んだ。9それらは私を天まで引き上げ、水晶で造られた壁の近くまで私は行った。壁の周りを火の舌が取り巻いていた:それを見て、私は恐れを感じ始めた。10そして私は火の舌の中に入って行き、水晶で造られた家のそばまで近づいた。この家の壁は水晶で敷き詰められた床のようであり、その土台は水晶でできていた。… 15そして私はビジョンを見た。すると見よ。二番目の家があった。それは先のものより大きく、その正門は私の前に完全に開かれており、火の舌で造られていた。… 24私は長い間、顔を伏せ、震えていた。すると主がご自身の声で私の名を呼び、言われた:『ここに来なさい、エノク。私の言葉を聞きなさい』(エノク書第一14:2、:8-10、:15、:24、1917年版を邦訳、下線付加)

二千年前、広く知れ渡っていた『エノク書』の知識から、ペンテコステの日にエルサレムで起こった「炎のような舌(火の舌)、γλῶσσαι ὡσεὶ πυρός(グロッサイ ホセイ プロス)の現象は、天にある神の神殿と同じ構成要素が、地上の神殿にも顕れたものと捉えられたに違いありません。これらの火の舌は紛れもなく神のご臨在、神がそこに住まわれることを象徴するものでした。神は天でも地でも神殿の中に住まわれ、炎のような聖霊の火が各々の信徒の上に留まったということは、信じる一人ひとりの内にキリストの御霊が住まわれる時代が到来したということでした。

キリスト昇天後のペンテコステの日に起こったことが、信徒一人ひとりが文字通り、神の神殿であることを公に告知する出来事であったとするなら、これは留意すべきことです。キリストご自身、使徒パウロ、愛弟子ヨハネがそれぞれ、世の終わりに反キリストが現れるところとして警告した「神殿」、「神の宮」の解釈に、明確な方向性が与えられることになるからです。

キリストは「神殿を三日で甦らせる」と預言的に公言して、すでにご自分の身体を「神殿」として語っておられましたが、キリストに従う者たちすべてもペンテコステの日以降、キリストの御霊が宿られることによって、神の神殿とみなされることになったのです。

黙示録11章の冒頭には「神の神殿と祭壇、そこで礼拝している人々を測りなさい」との命令がヨハネに下された後、エルサレムにモーセとエリヤを思い起こさせる二人の預言者「証人」が登場し、世界的大宣教が始まることが記されています。「霊的な理解ではソドムやエジプト」になり果てたエルサレムの状態から、反キリストによる支配の直前の信仰の危機に直面する艱難期であることが分かります。

ヨハネが『黙示録』を記したのは西暦70年以降で、ヘロデ王が修復したエルサレム第二神殿はすでにローマ軍によって陥落し、存在していませんでしたから、ここで言及された「神殿」が未来に建てられることになる建造物ではなく、象徴的にキリストを信じる者の群れへの言及であったことは十分に考えられます。実際、そのことを裏づける幾つかの例を挙げることができます。

まず、キリストは最後までご自分に忠誠を尽くし勝利を得る者への約束として、「わたしの神の神殿の柱とする」(黙示録3:12)と表現されましたが、神の共同体の永久の一員となる約束でした。ここで、「わたしの神の神殿、ναῷ τοῦ θεοῦ μου(ナオ トウ セオウ モウ)は教会、キリストの群れに対する隠喩であることから、黙示録11章で言及されている「神殿」も同じように解釈できるのです。

11章では、神殿の計測に続いて登場する二人の証人は「二つの燭台である」とも表現されています。燭台は神殿祭具の一つですが、『黙示録』は象徴的に「七つの燭台は七つの教会である」(1:20)と明記していますから、神殿と神殿祭具はともに、キリストに従う者たちを象徴していることが明らかです。

次に、ここでヨハネに命じられたことは、「杖のような測り竿」で、神殿、祭壇、礼拝している人々を測ることでした。聖書では、この羊飼いの杖には二通りの用途があり、群れを守るためのこん棒であり、群れを数え、調べるための杖でした。ヨハネの役割は、聖域を測定するというのではなく、神の群れと群れに属する個々人を検討し、評価しなさいということでした。

ここで用いられている「測る、μετρέω(メトゥレオー)」という言葉は、新約聖書では至る所で見られ、「私たちはみな… 一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです」(エペソ人4:13、下線付加)はその一例です。邦訳では定かではありませんが、名詞「尺度、μέτρον(メトゥロン)」が用いられており、個々のキリスト者がキリストの身体を建て上げる構成要因、ふさわしい尺度として測られることが記されています。

果たして、ヨハネは、未信者によって踏みにじられる艱難期のエルサレムに、「神殿、神殿祭具の祭壇、礼拝している個々の人々」に象徴されるキリスト者が、神の尺度を満たすキリストの証人としてまだ存在していることを予見したのでしょうか。

エルサレムに、神の奇蹟を行い、預言を語る超自然的な能力と権威を授けられた二人の証人が現れるときが今日、非常に近づいています。このことは、個々の信徒が神の尺度で測られるときが近づいているということで、キリストに従う者は今、備えをしなければならないのです。