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第306号  使徒の働き12:1-11

キリストの血による永遠のいのちと甦りのからだ

2000年前の過越の祭りのとき、使徒ペテロは牢から奇蹟的に救出された。まさに3500年前の出エジプト時の「最初の過越」を再現させるかのように、神がご介入されたのであった。イエス・キリストが「最後の過越」の子羊として十字架上で亡くなり、甦られた今、キリストの救いを信じる者はペテロと同じように、、神の力を体験している…

そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人たちを苦しめようとしてその手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人に喜ばれたのを見て、さらにペテロも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祭りの時期であった。ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越の祭りの後に、彼を民衆の前に引き出すつもりでいたのである。こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。

ヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれて、二人の兵士の間で眠っていた。すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした。御使いはペテロの脇腹を突いて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。御使いは彼に言った。「帯を締めて、履き物をはきなさい。」ペテロがそのとおりにすると、御使いはまた言った。「上着を着て、私について来なさい。」そこでペテロは外に出て、御使いについて行った。彼には御使いがしていることが現実とは思えず、幻を見ているのだと思っていた。彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。彼らは外に出て、一つの通りを進んで行った。すると、すぐに御使いは彼から離れた。そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」 使徒の働き12:1-11


2021年も早や、イスラエルの例祭「過越の祭り」と、教会暦の「復活祭」(イスラエルの例祭では「初穂の束を献げる日」)の時節になりました。一年前、COVID-19が世界的大流行となり、先行きが不透明だったとき、自称預言者たちが出エジプトの出来事に因み、疫病は2020年の過越の祭り以降ぱったり止むと、異口同音に語り、期待を集めましたが、止むどころかもっとひどくなり、今日までまだ続いています。

今年は3月27日夕刻から過越の祭りが始まり、28日から一週間、4月4日の夕刻まで「種なしパンの祭り」が祝われます。ユダヤ教では、これら春の三つの例祭をひっくるめて「過越祭」と呼んでいます。イエス・キリストの甦りを祝う教会暦の復活祭は今年は4月4日、日曜日です。

初代教会の時代、この過越の祭りの間にペテロがヘロデ王に捕らえられ、投獄されたことが、冒頭に引用した使徒の働きの書12:3-4に記されています。エドム人ヘロデ・アグリッパ一世は使徒ヤコブを剣で殺したばかりで、ユダヤ人の歓心をさらに買おうと、エルサレム教会の指導者であったペテロに目を留めたのでした。しかし、福音宣教の黎明期にあって、主要な人物ペテロの投獄は神の御旨ではなく、即、神がご介入されました。イスラエルの民が最初に経験した「過越」がイスラエルをエジプトでの隷属下から解放したように、神は御使いを送ってペテロを牢から救い出すことによって、最初の過越のとき、エジプト中の人々を震撼させたあの神の力を思い起こさせられたのです。

『使徒の働き』の著者ルカは、イスラエルの神のご臨在がキリストの最初の弟子たち,―すべてユダヤ人― にも引き継がれていたことを、御使いの言葉を通して明記しています。同時に、ルカは、キリストを信じる者の群れ、教会が心を一つにして、ペテロ救出のために「熱心な祈りを神にささげていた」とも、記しています。

投獄された後、夜間、二人の監視の兵士の間でペテロが眠っていたとき、御使いが現れ、ペテロの脇腹を突いて目覚めさせ、手の鎖を外すと、御使いはペテロに「帯を締めて、履き物をはきなさい」と促しました。この言葉は、出エジプト時、へブル人たちに神がどのようにして過越の食事にあずかるかの指示を与えられたとき命じられたお言葉

腰の帯を固く締め、足に履き物をはき…急いで食べる。これは主への過越のいけにえである(出エジプト記12:11、下線付加)

を思い起こさせるものでした。この指示に従った後、へブル人は出エジプトの奇蹟を見ることになったのでしたが、ペテロの場合も同じように、牢からの脱出の奇蹟を経験したのです。ペテロは御使いに従って第一、第二の衛所をだれにも妨害されることなく通り、「町に通じる鉄の門」もひとりでに開き、その後、「御使いがしていることが現実とは思えず、幻を見ている」ような状態のまま、一目散に一本道を町へと急ぎ、途中で導いていた御使いがいなくなったとき初めて、ペテロは主が奇蹟的に救出してくださったことに気づいたのでした。また、解放をはばんだ「鉄の門」は、へブル人の自由を奪ったエジプトが「鉄の炉」と表現されているのを思い起こさせるものでした。

これら二つの出来事は神のご介入による類似した奇蹟でしたが、対照的な面も見られます。出エジプトの出来事では、死の御使いが現れたとき、いけにえの子羊の血が戸口に塗られたへブル人の家々は過ぎ越され、守りのないエジプト人の家々の、人から家畜に至る初子がすべて殺されました。しかし、ペテロに起こった奇蹟では、御使いはペテロを捕らえた者たちを討つのではなく、眠っていた「ペテロの脇腹を突いて」、ペテロ自身の救いへの脱出を促したのでした。

このように、神を信じ、従う者たちへの神の真実は昔も今も変わらず、初代教会のとき、ペテロや他の使徒たち、聖書に登場する信徒たちが御使いによって守られ、導かれたように、今日も、神は見えない助け手を私たちの周りに送ってくださっています。まさに、いけにえをほふった「過越」の後、へブル人がエジプトでの束縛の隷属下から救われたように、神の御子イエス・キリストが十字架上でいけにえの子羊として、私たち、すべての「罪人」の代わりに死んでくださったことにより、信じる者すべてに、罪の隷属下からの救いがもたらされたのでした。

イエス・キリストは、ご自分がいけにえの子羊として十字架上で亡くなられる前日の夜、―この日は、夕刻から一日が始まるユダヤ暦ではすでに「ニサンの月の十四日」でしたが―、弟子たちとともに一日早い「過越」の食事をされました。後世、「最後の晩餐」として覚えられるようになった、キリストにとってはこの世での最後の食事で、このとき主は記念すべき覚えとして、「聖餐」を発足されました。キリストの時代をほぼ1500年さかのぼる出エジプト時に、へブル人が四百年のエジプトでの隷属下から救われたのは、いけにえの子羊の血によってでした。その最初の過越以降、イスラエルでは祭司制度の下で、毎年いけにえを献げ続けてきましたが、キリストは、ご自分をいけにえとして献げることによって、最後の完璧ないけにえとなってくださり、旧約のいけにえ制度に終止符を打ってくださったのでした。いけにえに罪を覆いかぶせる儀式を守り続けることによる旧約の不完全な救いではなく、キリストの贖いの死を信じる者たちに、信仰による完全な救い、新約がもたらされたのでした。

出エジプトの出来事が起こるまでのほぼ一年間、エジプトのパロは頑なに神の民を自由にすることを拒んだので、神は最後のエジプト中の長子の死に及ぶ十の疫病を送られましたが、神が贖い、守ると約束されたへブル人は全員、すべての疫病から完全に守られました。天地、天候、大自然を司る神には、へブル人が住んでいたエジプトのゴシェンの地域には疫病が及ばないようにすることができたのです。十番目の疫病、長子の死に関しては、神が発足された「過越」の儀式、―完璧ないけにえの子羊の血を入り口の柱と鴨居に塗った家の中にいる者たちは全員救われる― を守ったへブル人家庭の一族郎党は完全に守られたのでした。

かつて神の約束の民へブル人だけに適用された贖いが、キリストによって信じる者すべてに適用されることになった新約の時代、キリストが十字架上で流された血潮の重大な意義を思い起こす必要があるようです。「聖餐」にあずかる都度、個々のキリスト者の心の戸口がキリストの血潮でしるしづけられていることを思い起こすことは、聖餐、―主にある兄弟姉妹とともに一体となってキリストの死を覚え感謝し、未来の約束を待ち望む食事にあずかる― を発足されたキリストが命じられたことでした。信徒には、定期的に食事をともにし、主の死を覚え、「過越」に象徴された主の血にあずかる力を体験していくことが、「主が来られるまで」続くことが約束されているのです。

パウロは、

もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです…(コリント人第一11:27―30)

と、聖餐にあずかる者の姿勢、心の状態を病との関係で明確に警告しています。信徒が自分をわきまえて信仰生活を送るなら、神の裁きが下ることを免れることができ、「過越」に顕された主の血にあずかる力を体験していくことができるのですが、わきまえなければ、神の裁きが懲らしめとして下り、究極的に信徒の魂が救われるために、時期尚早の死に至ることもある、と教えたのでした。

今日、COVID-19と変異株の世界的蔓延で、諸国家がワクチン接種を法制化し、証明書交付を義務づける傾向にあるので、多くの人たちがワクチンを受けなければ疫病から守られ、社会的に自由な行動ができる道はないと考えるようになっていますが、特に世の終わりに蔓延することが預言されている疫病に関して、キリスト者は目が開かれなければならないようです。生命を与え、救う神が疫病の蔓延をも許しておられるなら、同じ神は信じる者すべてに文字通り、キリストの血による贖いと甦りの生命にあずかる力を与え、疫病から守り、克服させてくださることをも覚えなければならないのです。