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第299号  申命記32:1-43

伝統的な賛美歌は福音宣教の一手段 

現代的なワーシップソングとは大きく異なり、クラシック・カントリーゴスペルは旋律に乗せた福音宣教、イエス・キリストの全生涯の告知である…

天よ、耳を傾けよ。私は語ろう。地よ、聞け。私の口のことばを。私のおしえは雨のように下り、私のことばは露のように滴る。若草の上の小雨のように、青草の上の夕立のように。まことに私は主の御名を告げ知らせる。栄光を私たちの神に帰せよ。主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。
自分の汚れで主との交わりを損なう、主の子らではない、よこしまで曲がった時代。あなたがたはこのようにして主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く立てた方ではないか。昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。…いと高き方が、国々に相続地を持たせ、人の子らを割り振られたとき、イスラエルの子らの数に従って、もろもろの民の境を決められた。主は、測り縄で割り当て地を定められた。…
主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。…ただ主だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。…
エシュルンは肥え太ったとき、足で蹴った。あなたは肥え太り、頑丈でつややかになり、自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。…産みの苦しみをした神を忘れてしまった。…
主は見て、彼らを突き放された。…わたしはわざわいを彼らの上に積み重ね、…飢えによる荒廃、災害による潰滅、激しい悪疫、野獣の牙、これらを、地を這う蛇の毒とともに彼らに送る。…
「…復讐と報復はわたしのもの。…彼らのわざわいの日は近く、来たるべき時が速やかに来る。」
主は御民をかばい、主のしもべらをあわれまれる。彼らの力が去り、奴隷も自由の者もいなくなるのをご覧になって。主は言われる。「彼らの神々はどこにいるのか。…あなたがたの隠れ場とならせよ。
今、見よ。わたし、わたしこそがそれである。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、また癒やす。わたしの手からは、だれも救い出せない。まことに、わたしは誓って言う。「わたしは永遠に生きる。…わたしは敵に復讐をし、わたしを憎む者たちに報いる。…
国々よ、御民のために喜び歌え。主がご自分のしもべの血に報復し、ご自分の敵に復讐を遂げて、ご自分の民とその地のために宥めを行われる。 申命記32:1-43

来なさい。イエスは招いておられる。罪人よ、帰って来なさい…」、米国の古き良き時代を彷彿とさせるクラシックカントリーゴスペルを聞いていて、当世風のワーシップとの大きな違いに気づかされました。
日本の伝統的賛美歌や聖歌で慣れ親しんできた旋律の多くもカントリーゴスペルに含まれていますが、二十世紀初頭、福音を世界中に伝えるべく、欧米から送られてきた宣教師たちの愛の奉仕によって日本にキリスト信仰、讃美歌、聖歌が定着するようになったからでした。日本は欧米のキリスト者たちの福音宣教によって、日本全土で真の神の教えを享受できることになったのです。

昨今の感情的、主観的で、旋律や独創性に凝った賛美とは対照的に、カントリーゴスペル、伝統的賛美歌は福音の要素で構成されており、静かに口ずさみ、あるいは、耳を傾けるとき、そこにはイエス・キリストによって信じる者すべてにもたらされた「永遠のいのち」によって生きる新しい時代、―キリストの初臨でこの世に告知され、再臨でこの地に具現する神の国― のことが語られていることに改めて気づかされました。
だれでも自然に口ずさむことのできる旋律を通して御言葉を聞く、福音を復唱する、まさにこれが賛美の意義であることに気づかされたのでした。

モーセは、エジプトで隷属下にあったイスラエルの民を神の贖いへと導く大役を終えた後、四十年荒野で民を率い、百二十歳になり、この世を去るときが近づいたことを知り、残される民の先行きを憂え、歌を書き記しました。
私はこれらのことばを彼らに聞こえるように語ろう。私は天と地を彼らに対する証人に立てる。私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私があなたがたに命じた道から外れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私はよく知っているからだ(申命記31:28-29)
と預言的に語り、教えた歌が冒頭に引用した賛美でした。民が約束の地カナンに入った後、偶像の神々に慕うようになり神との契約を破り、
多くのわざわいと苦難が降りかかるとき、この歌が彼らに対して証しをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである(31:21)
と、罪がもたらす人生の結末を洞察していたモーセは、この賛美が神のわざを告げ知らせるべく、世代から世代へと語り継がれるべきこと、この歌のすべての言葉を心に留め、子孫に守り行わせることを命じたのでした。

このように、神に向かって歌う賛美
主に向かって私は歌おう。…主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主(出エジプト記15:1-3)
とは、人々に神の道、神の大いなるわざを知らせる手段なのです。この賛美の歌の歌詞を覚えることは、イスラエルの民に贖いの歴史を思い起こさせ、神への信仰に生きることへの促し、覚えになったのでした。

エルサレム第一神殿が完成したとき、ソロモンは、イスラエルの長老、かしらたちを召集し、主の契約の箱を運ばせ、祭司たちが箱を神殿の至聖所に安置しました。神のご臨在を象徴する箱が安置された後、歌い手のレビ人たちが祭司たちの吹き鳴らしたラッパの音とともに
まるで一人のように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえ…『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と主に向かって賛美した(歴代誌第二5:13、下線付加)
とき、主の栄光が神の宮に満ちたことが記されています。
ここに記されているように、賛美で大事なのは全員の心の一致で、神が群集の心からの賛美を受け入れられたとき、「祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった」という神の応答を象徴する物理的現象が起こったのでした。
これは神のご臨在の栄光の顕れとして起こる現象で、聖書の至るところで目撃されています。

新約の時代の賛美もその意義は旧約の時代と何ら変わりません。
カントリーゴスペルや賛美歌では、福音、―イエス・キリストによる全人類の贖い、罪人の救い― の全容が客観的に語られていますが、初代教会の信徒たちもそのような賛美を歌っていたであろうことが推し量れる箇所があります。
パウロは、第二次宣教時、ピリピであらぬ嫌疑をかけられ、牢獄に入れられる出来事が起こりました。真夜中、パウロは同労者シラスとともに神を賛美する歌を歌っていましたが、使徒の働き16:25は、すべての囚人たちがそれに聞き入っていたと記しています。
きっと福音が歌われ、それを聞いた囚人たちが悔い改め、全員がキリストを受け入れたのでしょう。直後に、神のご介入による大地震が起こり、全囚人の鎖が外れましたが、だれ一人逃げる者はいなかったのです。この後、看守たちもキリストを受け入れ、パウロとシラスの苦難は、多くの人たちの魂の救いという喜びに変えられたのでした。

キリストはご自分の再臨直前の時代、すべての信徒に起こる迫害を
人々はあなたがたに手をかけて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出します。それは、あなたがたにとって証しをする機会となります(ルカ21:12-13)
と警告されましたが、牢獄でのパウロの経験はまさにキリストの預言的教えの体現でした。

初代教会時代に起こったと同じキリスト者迫害は、二千年の教会時代いつも世界中で起こって来ましたが、世の終わりには最悪になります。聖書的賛美が福音宣教の大きな手段として用いられることは、これからの時代、多くのキリスト者が体験していくことになるのではないかと思います。
もし迫害下の困難な状態でこの手段を用いるとしたら、モーセが民に
次の歌を…イスラエルの子らに教え、彼らの口にそれを置け(申命記31:19)
と命じたように、暗唱できる状態にしておくことが必然です。信徒が今しておくべきことといえるかもしれません。

イスラエルの熱心なユダヤ教徒の家庭では、幼少時からモーセ五書の暗唱を訓練しますが、暗記が得意な幼少時に賛美歌で福音を心に刻み込むことは、創造者なる生ける神を信じて生きる人生の重要な土台を据えることになります。
コロナウイルスによる自粛で、家族と接触する時間が増している今は、憐れみの神がしばし与えてくださっている備えと訓練のときです。毎日、神の言葉『聖書』を中心に家族が心を一つにして神をほめたたえ、日々の必要を祈り求め、神の御旨を仰ぐ格好のときです。

エルサレム第一神殿崩壊を目撃した預言者エレミヤは、神の言葉、警告の預言にだれも耳を傾けなかったユダ王国最後の不信仰な時代、最後まで神の言葉を忠実に取り次ぎ、大変な迫害にあった預言者でしたが、切迫していた兄弟や親戚の者によってすら裏切られる最悪に備えて、神は
あなたは…平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか(エレミヤ書12:5)
と、エレミヤが耐えられるように、日ごろから訓練されたのでした。

今年5月26に起こったミネアポリスの警察官によるジョージ・フロイド殺人事件をきっかけに、人々の抗議行動は瞬く間に暴力的になり、銃使用による略奪、破壊行為が米国から世界中に飛び火し、無秩序、無法、戦争好きなアマレクのイデオロギーが世界中に満ち、国家組織を脅かし始めています。
対照的に、8月6日、立憲君主制、議会制民主主義国のオーストラリアのビクトリア州で、個人情報の提示、指示に従わない人々に対し、市民の安全を保つという名目で軍事警察が全体主義的介入をすることが公表されました。ケンタッキー、ニューヨーク、カリフォルニア、フロリダ州、オーストラリアのクイーンズ州、英国、ウエールズなどで、このような行使が正当化されているようです。
命令、秩序に従っていると信じている公務員による「不遵守」の人々への暴力的介入も、暴徒たちの無法化の背後の霊もともに悪魔的で、サタンは、人々を神から引き離し、キリストが「多くの人の愛が冷える」と言われた時代到来に加担しています。
神は罪の升目でご自分の「とき」をもたらされますから、裁きが世界中に下るときは非常に近づいているのです。