今は世の終わり、―神ご自身の教えに戻り、御旨を実践し、キリストの再臨に備えるとき―
ギリシャ語「エクレシア」の原意はヘブル語の「クァハール」、―召し集められた神の民― の意!
ではなぜ、「エクレシア」がキリストの群れ、集会ではなく、建物、制度、組織を意識した「教会」と翻訳されたのか? その経緯は…
今、イスラエルよ。あなたがたが行うように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。…まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。…主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって、彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」…あなたが子を産み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行い、御怒りを買うようなことがあれば… あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる。…そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。…あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかに神はないことを、あなたが知るためであった。 申命記4:1、:7-10、:25-26、:29-31、下線付加
申命記4章1節から40節には、神ヤーウェとイスラエルとの契約が不変であること、民は不忠実であっても神は永久に真実であること、民が顕された掟に従順に従うなら、民の生活のすべてのニーズが神によって満たされることが記されています。用語「おきてと定め」には、すべての法令と教訓、訓示が総括されており、申命記では「神の律法、モーセの十戒」に結びつけて言及されています。すべての神の言葉は「生けるいのちのパン」(申命記8:3)で、永遠の生命への道を指し示すことは、新約時代、キリストが申命記からの引用で教えられたことでした。
全ての諸国民の中から、神はイスラエルを選び、掟を与え、霊的、道徳的に際立った民とすることによって、「神の証人」として諸国民をご自分に導くことを意図されました。神の定められた道徳律に従っているイスラエルは、公徳心や神との近しい関係において他の諸国民とは明確に区別されるはずでした。
ヘブル人の神と他の宗教の神々との大きな違いは、ヤーウェは民が呼ばわるとき応答され、「いつも、近くにおられる」、すなわち、民はみな、神のご臨在を経験するユニークな特権にあずかっているということです。言い換えれば、礼拝者が祈りで神に近づくとき、真の神は各々に直接触れてくださり、仲介者は不要ということなのです。にもかかわらず、バランスのとれた神概念、神に関する聖書の教理が二千年の年月を経るにしたがって、ゆがめられてしまったため、全聖書が明確に語っている唯一の仲介者キリスト以外の仲介者を個々人の信仰維持に必要とみなす概念が定着してしまったようです。
『申命記』からの引用、言及が新約聖書で八十箇所以上に及んでいることから、キリストにとっても、初代教会にとってもいかに申命記が大切であったかを知ることができ、今日のキリスト者もユダヤ人と同じく、申命記から重要なメッセージを受けることができるのです。
ホレブの山で民に与えられたのは二枚の十戒の板だけで、偶像を生み出すヒントになる姿や形は何も与えられませんでした。それゆえ、他の宗教とは対照的に、イスラエルの神信仰、神との正しい関係は神ご自身のメッセージを聞くこと、「神の言葉」に基づいて始まったのです。
しかし、偶像崇拝の誘惑にさらされるこの世では、子どもや孫に、偉大なる神のわざと教えを告げ知らせる信仰継承は神の民に課された重大責任で、霊の戦いなくして達成できることではありませんでした。特に、異邦人のならわしが蔓延していたカナン入りを直前にして、申命記では、偶像崇拝に対する警告が強調されています。
にもかかわらず、民が神に不忠実になり、掟と定めを守らず、偶像崇拝にふけり続けるなら、神の御怒りが下ることになります。それは、約束の地カナン(今日のパレスチナ)からの追放、諸国民への隷属、異教の神々を信じている人々に結びつくことによって、背信の民は人の手になる偶像の神々を拝むようになり、ますます生ける神を侮辱することになるのです。
神は偉大すぎて、人の限られた霊的、知的許容量では、その多岐にわたった本質、存在形態を完全に把握することができないため、教会史において、各時代のキリスト者は偏った神観、三位格の神の一位格だけを強調する姿勢をとって来ました。
聖書内に「三位一体]という用語こそ記されていませんが、全聖書の主張を要約するこの教理は間違いなく、人知を超えた神、―父、子、聖霊なる神― を理解する上での助けとなっています。
初代キリスト者の数世紀間は、第二位格の神、御子キリストに関心が集められましたが、初代キリスト者は多くの点で、ユダヤ人と同じように神ヤーウェ、―神聖で力と憐れみに満ちた父なる神― を理解していました。キリスト信仰を特徴づけたのは、創造、歴史、聖書を通してご自分を顕わされた神がご自身を御子イエス・キリストに顕わされたという主張であり、当然、キリストの神聖に焦点が当てられました。
しかし、キリスト信仰が始まった西暦一世紀から最初の五世紀の間にキリスト者の間に、キリストの位格について、特に、キリストが人間性と神性を兼ね備えておられるという点に関して深刻な議論が持ち上がり、分裂がもたらされました。
これらの議論のほとんどが解決した中世は、卓越した神の教理と勝利者キリストの教理がキリスト者の考えを支配するようになった時代で、信徒は神聖なる神概念と、王、かつ、裁き主としてのキリストの役割に焦点を置くようになりました。
神とキリストを畏れ多き、超越的な方として捉え、神を人には近づくことのできない、遠く隔たったところにおられる方として仰いだのです。そのため、当時の信徒たちの間に自分たちには仲介者が必要であるという考えが芽生え、執り成す人物への依存と献身が促されていったのでした。
しかし、仲介者、―処女マリヤ、聖職者、御使い― を通して神に献身するという考えは聖書的ではなく、多分に当時の偏った、間違った神理解、組織の教会の教理に由来するものでした。信徒たちは、神が聖なる方であると同時に直接関わってくださる愛なる方であるということ、また、キリストのみが神と人との間の仲介者で、キリストだけが罪人の「救い主」、かつ、来るべき世の「裁き主」であると語る聖書の主張を忘れたのでした。
人の罪の問題に大きく目が開かれた十六世紀の宗教改革後は、信徒の関心はキリストの十字架上における贖いの働き、―神と人との和解のために、神の怒りを鎮めるなだめのいけにえとして全人類の罪を負い、身代わりに死んでくださったこと― に当てられるようになりました。宗教改革の指導者たちは特に、キリストによる救いと完全な赦し、また、信じる者は裁きを免れることに力点を置いたのでした。
この間、聖霊の働きに関心が払われない時期もありましたが、宗教改革以降の説教師や著者や清教徒の教えとチャールズ・ウエスレーの讃美歌から、聖霊に強調が置かれるようになったことがうかがわれます。しかし、霊的刷新やカリスマ的な動きに世界的に多大な関心が払われるようになったのは、長い教会史において過去数十年のことで、この間に聖霊の働きにより多くの実が結ばれました。
しかし、教会史において、一つの教理を強く打ち出すと他の教理が最小化され、真理まで無視されてしまう危険と紙一重であることが実証されてきました。
さまざまな試みがなされ、各時代で異なった教理に強調が置かれてきた教会史を振り返ると、今日は尊大なる神の教理を復帰させるべき時代といえるようです。
礼拝が感情的、主観的なものに流れ、神の神聖、栄光が最小化され、わきに押しやられている昨今の傾向を軌道に戻すには、御言葉の学びを通しての正しい神認識と関係、神ご自身の教えに立ち返る必要があるようです。
神の名が二百回も登場する神中心の書『申命記』はバランスのとれた神認識と神の救いが人には必須であることを思い起こすにふさわしい書といえます。
フルダミニストリーでは、2017年4月以降、ヘブル語(旧約)聖書に則してキリストの群れを「クァハール」と名づけ、神を賛美、礼拝し、聖書の学びを続けています。
英国の預言者クリフォード・ヒルは今年6月のメッセージで、教会がまだ語ったことのない重要な真理に言及して、ギリシャ語「エクレシア」の原意がヘブル語聖書の「クァハール」であることを指摘しました。ヘブル語聖書で、神がモーセに、民をホレブの山のふもとに「集めよ」(4:10)と命じられた言葉が「クァハール」で、集会、召しだされた神の民の意です。
新約聖書で「家の教会」、キリストの群れの意のギリシャ語は「エクレシア」ですが、教会史を調べていたクリフォード師の妻モニカ師はこのギリシャ語がなぜ「教会(Church)」と訳されたかの経緯を発見しました。
英国のジェームズ王が聖書の英語翻訳を試みたとき、最後まで学者間で合意に至らなかった語が「エクレシア」でした。
ラテン語聖書しか出回っていなかった当時、聖職者をも含め多くのキリスト者が英語で聖書を読むことができるように、ジェームズ王はプロテスタントの神学者を召集し、それぞれに聖書の部分翻訳を依頼し、最終的に英語版旧新約聖書、いわゆる『欽定訳聖書』を作成したのですが、エクレシアの訳語だけが最終的に一致しなかったため、王自身の裁断に任されることになったのでした。
新約聖書のこのギリシャ語の原意は「集まり」、あるいは「会衆」、「特定の目的のために招かれた人々の群れ」の意で、人々に重点を置いた非組織の超教派の学者たちがこの原意を訳語とすることを求めたのに対して、組織を形成していた英国国教会の学者たちは、すでにローマ・カトリック教会のラテン語聖書で用いられていた建物、組織、教派を意識した「教会」と訳すことを求めました。
カトリック教会に好意を持っていたジェームズ王は英国国教会の学者たちの意見を取り入れ、エクレシアを「教会」と訳す決断を下し、『欽定訳聖書』以降のすべての英語聖書、日本語聖書をはじめ、英語訳から翻訳されたすべての聖書で、「教会」が定着することになったのでした。
旧新約両聖書には、世の終わりに「焼き尽くす火」である神による裁きが至る所に記されていますが、人の手に成る組織、教会もその対象です。
『黙示録』に詳細が預言されているように、この世の政治、経済、金融、宗教をはじめ、神の御旨ではない教会組織もすべて裁かれ滅びますが、最後まで御言葉に忠実に信仰に生きる個々人、クァハールで御言葉を学び、互いに霊的成長を育む個々人はヘブル思想に基づいた初代教会のキリスト者が歩んだように、キリストが来臨されるまで迫害にめげず、忍耐強く信仰に生き続けることになるのです。