この世のすべての現象の背後におられる創造者なる神
神がすべてを支配しておられ、善も悪も、神が起こることを許されるので現象として起こる…神の不思議な摂理…しかし、警告として真摯に受け止めるなら…
「イスラエルの子らよ。聞け。主があなたがたについて告げた、この言葉を。わたしがエジプトの地から連れ上った、あなたがたすべての部族についてのことばを。わたしは、地のすべての種族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、あなたがたのすべての咎のゆえに、わたしはあなたがたを罰する。」約束もしていないのに、二人の者が一緒に歩くだろうか。獲物もないのに、獅子が森の中で吼えるだろうか。何も捕らえていないのに、若獅子がその洞穴で声を上げるだろうか。罠もしかけられていないのに、鳥が地の鳥網にかかるだろうか。何も捕らえていないのに、鳥網が地面から跳ね上がるだろうか。角笛が町で鳴らされたら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起こったら、主がそれをなされたのではないか。まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。獅子が吼える。だれが恐れないでいられよう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。… それゆえ、神である主はこう言われる。「敵が、この地を取り囲み、あなたの権威を地に落とす。あなたの宮殿はかすめ奪われる。」主はこう言われる。「羊飼いが獅子の口から二本の足、あるいは耳たぶだけでも取り戻すように、サマリアに住むイスラエルの子らは、神殿の隅やダマスコの長椅子とともに救い出される。聞け。ヤコブの家に証言せよ。―神である主、万軍の神のことば― まことに、イスラエルの背きのゆえに わたしが彼の上に報いる日に、わたしはベテルの祭壇を罰する。その祭壇の角は折られ、地に落ちる。わたしは冬の家と夏の家を打つ。象牙の家は滅び、大邸宅も消え失せる。―主のことば。」 アモス書3:1-15(新改訳2017)
冒頭に引用したくだりは、この世を襲う天災も人災もすべて、神の支配下で許されていることを明確に語っている箇所です。その目的は、神を畏れないで我が物顔でおのれの道を歩む人たちに対する警告です。
聖書は、神の計り知れない忍耐をあらゆる箇所で扱っています。特にここに引用した箇所では、神は契約を交わされた選びの民ユダも含めた全イスラエルに、ご自分の証人としてこの世に証しさせるため、言い訳を許さない厳しい態度で臨んでおられます。9節に記されているように、神に反逆し続け警告を学ばなかった北イスラエルには、アモスの時代神の裁きが迫っており、暴虐がはびこった無秩序な国家は異邦人国家エジプトやペリシテよりひどく、皮肉なことに、これら敵国がイスラエルに対する神の裁きの証人として召喚されることが告げられたのでした。
虐げ、暴虐、暴行、強盗によってイスラエルが築いた繁栄は神が送られる敵に奪われ、イスラエルは人の人に対する罪が神に対する罪であることを思い知らされることになります。
実際、イスラエル史は神の民ユダヤ人(ヤーウェの妻)に問われる責任の重さ、神の厳しさを物語っていますが、それは、苦難を通して聖め、究極的には神を畏れ、敬う民として、たとえほんの一握りであっても「残りの民」を間違いなく救おうとされる神のご計画があるからです。
北イスラエル王国では、建国当初ヤロブアム一世が、神の指定された信仰形態とは全く無縁に、人の考案した宗教の殿堂をベテル、ダンに築き、偶像の金の牛を設置し、偶像が百五十年間も崇拝されてきました。しかし、ベテルの祭壇に象徴された神の忌み嫌われた似非宗教と、「冬の家…夏の家…象牙の家…豪華な家々」と、物質的で人目を引くだけの外観と形式的、儀式的宗教行為はみな究極的には神ご自身の御手によって滅ぶのです。
ノートルダム大聖堂大火災に見られた奇蹟
キリストの受難週が始まった今年4月15日の夕刻、パリのノートルダム大聖堂が火災によって十五時間後にやっと鎮火するまでに、尖塔と屋根の三分の二を完全に焼失するという大惨事が起こりました。
閉館直後の火災であったので、死傷者を伴う最悪の人身事故には至らなかったこと、屋上に設けられていた三つの蜂の巣箱が火炎にあおられながらも無傷で、十八万匹以上の蜂が守られたことは奇蹟でした。ノートルダムの屋上は2013年以降、ミツバチを減少から保護する市政によってミツバチの家にされていたのでした。
また、キリストの受難、甦りを想起させるかのように聖堂中央の、教会の生命である「裸十字架が設置された祭壇」(裸十字架はイエス・キリストが甦られたことを象徴)と「御言葉を語る説教壇」が、天井の崩落による被害から完全に守られたことも神のご介入による奇蹟でした。
多くの教会の火災で、聖書と裸十字架が焼失を免れた事例は多々聞かれますが、これは神が永久に残るものだけ、すなわち、神の言葉とキリストによる救いだけを最後まで保たれることを象徴的に警告しておられるかのようです。
フランス当局は聖堂の修復作業が始まった矢先に起こったこの大災害を過失による出火であったと強調し、世界中のメディアもそれ以上の追及はしませんでしたが、政治的に正しい言葉の使用に神経をとがらせている今日の政治家やメディアは、一部のグループや少数派の人たちを刺激しないように、真実を報道せず、追求もしない傾向があります。
英国をも含めたいわゆるキリスト教国といわれる国々ではこの傾向は非常に深刻で、公の場や職場での言論の自由は社会問題にならないだけで、すでに拘束は始まっています。
今日、西ヨーロッパ全土で悪質な教会攻撃、放火が相次いでおり、フランスでは2月にニームのノートルダム「聖母の子」教会が略奪され、十字架に人糞が塗りつけられ、聖別されたパンは戸外のゴミ捨て場に投げ捨てられていました。その一週間後、ラヴォールのサン・アラン大聖堂で彫像が破壊され、あざけりの方法で十字架上のキリストの両腕は叩きつぶされ、祭壇布は燃やされました。
フランス全域で受難週前の一週間に、十二のカトリック教会が攻撃され、今日、毎日二つの教会が攻撃されているといいます。また、ドイツのバイエルン州とアルプス地方だけでも約二百の教会が攻撃されており、多くの十字架が壊されたとのことです。
4月21日、比較的穏やかな国とみなされていたスリランカでも首都コロンボとその郊外の六箇所で、イースター聖日礼拝時を狙って連続テロが起こり、死者二百九十人、負傷者約五百人にも及ぶ大惨事となりました。オープン・ドアーズは、全世界で毎週百五もの教会が攻撃されていると報告しています。
実態的人口統計学からテロの身元に手掛かりが提供されると主張する学者は、世界中でイスラム教徒の移民人口の多い西ヨーロッパの国々で「イスラム教の数の原則/支配」に忠実に、最多の攻撃が目撃される傾向があると指摘しています。しかし、預言者アモスが「町にわざわいが起こったら、主がそれをなされたのではないか」と明確に語っているように、だれの手に拠ろうと、神がこの惨劇が起こることを許されたのであり、そこには、神の警告としての霊的意味が背後にあるのです。
フランスの政治的、知的、霊的象徴であるノートルダム大聖堂、―ユダヤ人とも関係が深い― の焼失は、ヨーロッパに今後、もっと大きな事件が起こり得ることの前触れとみなしている預言者は少なくありません。
4月22日に、ロンドン市で聖書の街頭説教者が逮捕されたニュースに関する「ロンドン市長、街頭説教者の逮捕後、自由な演説への『制限』を例証」と題したユーチューブビデオに投稿した男性のコメントが載せられていました。今日の混乱の時世を反映している意見なのでご紹介します。
聖書を説く街頭説教者は違法にされるべきだ。それは、彼らがよく同性愛の人たちの感情を損なうからである。聖書を説く者はみな、結婚が男性と女性の間だけだと思っている。同性愛者の結婚に反対する者はだれでも名を挙げられ、恥じ入らされ、法廷で裁判官の前に立たされなければならない。公で聖書を説くことは刑事犯罪であるべきだ。そのような説教者は犯罪者である。これは1819年ではなく、2019年の話である。同性愛者であることに何ら問題はない。警察はまた一人、邪悪な頑固者を逮捕してくれた、お見事!ゲイコミュニティ(同性愛者社会)は、私に同意するだろう。聖書を説く街頭説教者は、都心から強制退去させられなければならない。同性愛についての教えと同性愛は、同性愛の人々に敬意を表するように成長すべく、幼児に四歳の年齢から推進されなければならない。少なくともイスラム教徒は平和で法律を遵守する市民なので、この街頭説教者のようなことをしない。9/11のテロやマンチェスターの自爆テロやISISはイスラム教徒の仕業ではないので、そのことを挙げないでほしい。イスラム教徒は人殺しをしない。人を殺すのは邪悪な者たちである。私は同性愛者でないし、イスラム教徒でもない。私は自由主義者で、愛を信じる者である。
今の時代を反映しているこのコメントを皆さんはどのように捉えられるでしょうか。
自由主義的な「愛」の道徳的混乱
このコメントを受けたビデオの語り手マイケル・ブラウン氏は、この男性の主張には確かに「愛を信じる」と主張する「自由主義者」の誠実な感情があると認めていますが、同時にこれは現代の「寛容」運動の盲目状態、急進的な左翼の偽善的主張、すなわち、「言論の自由の名の下で、反対者の声を沈黙させよう。正義の名の下で、いかなる挑戦も強制的に抑止しよう。愛の名の下で、偏見や憎しみを実践しよう」であると指摘し、投稿者に、自問自答の形式で答えが明白な諸質問を投げかけています。
なぜ街頭説教が同性愛の人々を怒らせるのか? 街頭説教者は聖書を説くからである、という具合に。
また、投稿者は街頭説教を社会に危害を加える犯罪呼ばわりしていますが、事実は、イエス・キリストを説くことは人類史においていつも攻撃的で、だれかを怒らせてきたということです。それゆえ、福音を担った使徒たちは殺され、今日に至るまで、キリスト信徒は信仰のために迫害され、殉教してきたのです。
この投稿者は彼の目下の問題である一つの主要な課題、―神が意図された結婚― に攻撃の焦点を当て彼は「これを説く者はだれもが逮捕されるべきである!」と訴えています。
しかし、聖書の教えは
あなたがたは読んだことがないのですか。創造者は初めの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と呼ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。(マタイ19:4-6、新改訳2017)
と、明確です。
またブラウン氏は、自由主義の愛の名において聖書を信じる人たちの立場を全く無視して、自分の意見に同調しない者は監禁され、街頭から追っ払われるべきだ、邪悪な害虫から我々の都市は浄化されるべきだと主張する投稿者自身の矛盾を、聖書を説く街頭説教者をイスラム過激派組織のISISと同等に邪悪とみなす自由主義的な「愛」の道徳的混乱と見ています。