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第253号  ヨエル書2:18-3:3  

神に反逆し、警告を無視した結果この世に下る災いと裁き

国連の反イスラエル、反セム主義的偏見と、イスラム教国とオブザーバー国家パレスチナへの迎合
時勢を読むことのできない米国追従の日本国政府
両者に要求されるのは、神を畏れることと神の知恵

主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。主は民に答えて仰せられた。「今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたは、それで満足する。わたしは、二度とあなたがたを、諸国の民の間で、そしりとしない。…シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。…
いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださった。あなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはいないことを知る。…
見よ。わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする。その日、その時、わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。彼らはわたしの民をくじ引きにし、子どもを遊女のために与え、酒のために少女を売って飲んだ。    ヨエル書2:18-3:3

旧新約両聖書が一貫して語っていることは、苦しみを通しての救いです。ヨエル書は、人災も天災もすべてを支配しておられる神が、エルサレムへの軍事侵略を制御されず、その結果もたらされる大惨事を、来るべき恐ろしい「主の日」の預言として告げています。
冒頭の聖書の箇所は、ヨエル書の後半部からの引用で、悔い改めた者の新生と復興の未来が眺望されています。すべての人々を救いたいと願っておられる神は熱意のあまり、ご自分の選びの民をひどく懲らしめられますが、同様に、熱意のゆえに怒りから転じて、救いにふさわしくない民をも救われるのです。この神の不義、不従順に対する憤りと、永久に変わらない憐れみ、恵みの本質との交錯が、聖書の至る所に描写されています。

すべての異邦人にとって、「主の日」が、神の裁きによって滅びが宣告される恐ろしい日になるか、悔い改め、主に属することによって解放が宣言される喜びの日になるかは、自分自身の選択です。この世にあって、たとえ困難に遭遇しようと、神が提供された救いの道、―聖書が証しするイエス・キリストを通しての救いの道― を信じ、選ぶなら、神の約束は永久に真実ですから、未来は間違いなく神の保障の御手のうちにあるのです。
数多くの人種、民族の中から「神の証人」として神ご自身が選ばれたユダヤ人、神の都エルサレム、イスラエルの地(136CEにローマ人が「パレスチナ」と命名)は、証人を通しての全人類の救いを計画された神にとっては最大の関心事です。人類史の最後、人類文明崩壊後の「ヨシャパテの谷」での裁きは、異邦人に対する裁きの基準を明示しています。
神を、また、神の選びの民ユダヤ人をどのように取り扱ったかで、終末末期の大艱難期を生き残ったすべての異邦人は裁かれます。メシヤが支配される神の国は、神に反逆する者が地から取り除かれることによって聖められた後、現今の地に到来するのです。

それにしても昨今、「主の日」の到来の前兆であるかのように、「神はなぜ災い、病を起こし、人や生き物が苦しむことを許されるのか」という古来問われてきた謎に直面することが多くなっています。内紛が続いている中東では戦禍が絶えず、防御力の全くない女子ども、一般市民が巻き込まれ、多くの人々が犠牲になっています。反イスラエル主義の再現や国際連合の腐敗ぶりについては、霊的にこの世の情勢を洞察し、執り成しているクリスチャン預言者たちによってはるか前から警鐘が鳴らされてきましたが、マスコミではほとんど取り扱われていません。
外務省のサイトは国連の設立目的を、1.国際平和および安全の維持、2.諸国間の友好関係の助長、3.各国の経済的、外交的、文化的または人道的問題の解決、4.人種および基本的自由の尊重の助長において国際協力の達成としていますが、机上の空論であることを昨今の動きが明らかにしています。

8月の初めに、「イスラム教のテロリズムを国連が財政支援してきた」というニュースをイスラエルが暴露しました。世界最大のキリスト教の慈善団体ワールド・ビジョンのガザ地区の管理職員ともう一人の支援職員が、人道支援のために募金された八億円に上る現金と支援物資を、イスラム原理主義組織ハマスとテロ活動に横流ししていたかどで、イスラエルが二人を起訴したのでした。
主要容疑者のほうはハマス生え抜きのスパイで、隠ぺい工作をしていた二人をだれも訴えようとしなかったので、イスラエルが起訴に踏み切らなければならなかったといういきさつがあったようです。国連開発計画(UNDP)の職員のほうは容疑を認め、ハマスに雇われ、大量の救援物資をハマスに横流ししていたことを自白しました。
しかし、国連側は、彼には外交特権があると主張して問題回避を図っているようです。イスラエル、ガザ間のトンネル掘削現場を隠ぺいするための「温室栽培プロジェクト」開始の嫌疑ほか、窃盗の証拠文書もあり、またガザ地区の住民の多くが海外からの支援金や物資が届いていないと訴えているにもかかわらず、寄贈者の多くが容疑者の嫌疑を信じないばかりか、ガザ地区での事業停止を余儀なくさせられたワールド・ビジョンの最高責任者も、職員の逮捕に異議を申し立てているようです。

起訴された二人の解放のため、マスコミと政治的な圧力が強くなっている中、多くの支援団体と寄贈者がこの起訴事件を、「イスラム教を破壊するためのまた別のイスラエルの邪悪な陰謀」とみなしていることは驚きです。しかも、多くの支援職員らは、これまでにも職員の汚職があったこと、過去二、三十年の間に、ガザとそのほかの地域のパレスチナの難民のために送られた何百億円もの救援資金が略奪されたこと、今回の事件は関係者の二人が発覚したに過ぎないことを認めようとしないのです。
このような類の収賄はめったに大々的なニュースにはならず、過去、多くの詐欺、欺瞞が見過ごされてきたのでした。故イラク大統領サダム・フセインが2003年に失脚後、五年経った2008年に大々的な詐欺の詳細が暴露され、多くの国連職員や企業が関わりを認めたとのことです。関係者はみな、特に国際救援活動団体からアフリカや中東に送られる物資のほとんどが、必要な人たちの手に渡る前に盗まれている現状を認めており、国連は悪化するこの問題の収拾に窮しているのです。(https://www.strategypage.com/htmw/htterr/articles/20160920.aspx)

イスラエルに対する国連の反セム主義的偏見は、国連の下部組織ユネスコで10月13日に通過した決議案の趣旨、 ―エルサレムの「神殿の丘」と「嘆きの壁(西壁)」をヘブル名からアラビア語の「アル・ブラク」と「アル‐ハラム・アル‐シャリフ」に改名する― から明らかになりましたが、26日に正式に「エルサレムと、神殿の丘を含む聖なる敷地に対するユダヤ人の関係を拒否する」ことが可決されました。
決議案は、「エルサレムの聖なる敷地での「意図的な破壊行為」を止めるよう、イスラエルに要求する」と宣言、それらの名をアラビア語だけで表記していますが、「破壊」行為とは、神殿の丘の隣接地で行われている考古学的発掘のことで、これまで、この発掘によって、聖書が主張するように、エルサレムが紛れもなくユダヤ人の遺産であることが確証されてきたのでした。
今回の決議案は、それを全面的に否定し、イスラエルの歴史を抹消するものなのです。イスラエルの国連大使は、イスラエルの遺産を否定することは、歴史をゆがめ、ユダヤ人を首都エルサレムと祖国から断ち切るも同然で、そのような試みは失敗に終わることが定まっていると、ユネスコの決議に厳しく抗議しましたが、それはまさに聖書が語っていることです。

キリストご自身、神殿の丘が神の御旨に反して用いられ、汚されていたことを嘆かれ、十字架にお掛かりになる直前、
『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。
と憤られ、神殿の外庭で商売をしていた者たちを追い出し、宮聖めをされたことが福音書に書かれています。キリストがこのように愛されたエルサレム、神殿の丘はユダヤ人にとってだけでなく、キリスト者にとっても、重大な遺産なのです。
神殿の丘と、ユダヤ人やキリスト者との関係を断ち切るこのような法外なユネスコの決議案は、一国家の歴史的、考古学的証拠を隠滅する工作であるばかりでなく、中東平和を一層遠ざけることになるのは間違いないといえます。
13日の決議で反対票を投じたのは、英国、ドイツ、米国を含めた六箇国だけで、日本は棄権しました。ユネスコが国連加盟国の多数を占めるイスラム教国とパレルチナとに迎合している事実と、昨今の日本のアラブ諸国、イスラム教国への手放しの受け入れ態勢の背景には、経済的、政治的要因が関わっていることが考えられます。
聖書は、国家の安全保証は、国家間の軍事同盟や経済同盟にではなく、すべてを支配しておられる神に依存することにのみあることを繰り返し訴えています。神は遠大なご計画の中で、悪や災いや疫病が勝ち、はびこることをも許されます。そのために、多くの善良な人々が苦しむことになりますが、そのことを通して多くの人々が神と出会い、一時的な身体の救いを越えた永久の救い、―魂の救い― に与ることを神は願っておられるのです。

神の憐れみが感じられないようなニュースが多い中、1966年10月21日朝、英国のウエールズ地方の炭鉱の町アバ―ヴァンを襲った大災害の五十周年を追悼する記事が目に留まりました。
小学校の隣接地に山のように高く積み上げられた炭鉱のボタ山が豪雨によって一瞬のうちに崩れ、学校の半数に及ぶ小学生116人と教師を合わせて144人の生命が失われたこの事故の悲劇は、大事故の可能性が三十年近くも前から警告され、住民からの請願にもかかわらず、石炭庁が資金不足などの言い訳で何の対処もしなかったことが原因の人災であったということでした。神は、ボタ山が何度も頂上から崩れ落ちる事故を通して、私利私欲に走る経営者に警告を発してこられたのでした。
また記事には、大災害の前日に、預言的警告が少女に示されたことも記されていました。当時十月初頭のある日、十歳のエリルが、重要な話があるのと言って母親に告げたのは、「私、死は怖くないわ」でした。少女の真剣さを推し量ることのできなかった母親は、まだ若いのだからそんなこと考えなくてもいいのよ、と言い、ぺろぺろキャンディー、欲しい?と話題を変えたのでした。10月20日の朝、エリルは、目覚めたとき昨夜見た夢をはっきり覚えていたので、母親に「私が学校へ行ったら、そこに学校はなく、何か黒いものがその上に落ちて来たの」と告げたのでした。母親は夢のことにはそれ以上関心を示さず、エリルもいつものように学校に行き、特に何事もなくその日は帰宅したのでした。しかし、翌日の朝9時15分、ボタ山が崩れ、石炭の汚泥流がなだれのように下方の石の家々、木々をなぎ倒し、小学校の裏校舎を破壊したのです。

この記事は、「どこに神がおられるのか!」と叫ぶ前に、神がいろいろな形で警告を送っておられること、しかし、神の言葉に耳を傾けようともせず、自分中心な生き方を追い求める人の罪が、災いを招いていることに着眼させるものでした。
この世の国際事情、社会事情、家庭事情は、最初の人類の堕落によってもたらされた罪の世界に住む罪の人によって生み出されているのです。預言者イザヤが
ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。(イザヤ書6:5)
と嘆いて、自らと民の罪深さ、無力を認め、神に救いを求めたように、悔い改め、神に立ち返らない限り、人に救い、平安がないことを神は災いを通して学ぶよう導いておられるのです。