イランで広がっている聖霊降臨現象
初代教会の時代に、キリスト者すべてに降り注がれた聖霊はほぼ二千年経った今日まで降り注がれてきましたが、ヨエルの預言が完全に成就する終末の末期に向けて、時計の分針が秒読み段階に入ったと思われる今日、新たな驚くべき聖霊の注ぎが各地、特に中東で起こり始めている…
その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。 ヨエル書2:28-32
見よ。わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする。その日、その時、わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。彼らはわたしの民をくじ引きにし、子どもを遊女のために与え、酒のために少女を売って飲んだ。 ヨエル書3:1-3
ヨエル書の上記のくだりは、この世の人間史の終焉から、神ご自身がこの地上にご自分の民のために新しい御国を樹立されるキリストの千年支配の御国に至るまでのときを、ことの起こる順に明確に預言している数少ない箇所です。最初の段落、ヨエル書2:28-32の五節は、ユダヤ教のヘブル語聖書では、その重要性を強調して単独の章を構成、3章になっています。
ヨエルの時代、おそらく九世紀BCEにヨエルが語ったこの預言は、新しい時代を予兆する霊的、物理的現象を描写したものでした。ヨエル書が新約時代のキリスト者に与えた影響は大きく、イザヤ書53章が、キリストの十字架上での死による人類の贖いを理解するうえで鍵となる聖書箇所であるなら、ヨエル書2章の最後の五節は、キリストが弟子たちに約束された来るべき神の霊、聖霊を理解するうえで不可欠な箇所です。
旧約時代は、神の霊は特定の人たちに、特定なとき、特定の役割のために注がれ、ダビデの時代まで聖霊の注ぎは、神の選びの人を画すしるしでした。したがって、イスラエルの王制時代、民の側の責任は、神の選びの人から自分個人のための特別な導きを受けることではなく、聖霊に満たされ、神の言葉を取り次いだこれらの指導者たち、特に預言者のメッセージに従うことでした。ちょうど新約時代、キリストを信じた者たちがキリストの声、教えを神の声、教えとして従ったのと同じでした。しかし、このヨエルの預言通り、また、キリストが約束されたように、聖霊がキリストを信じるすべての人々に注がれるようになった西暦一世紀以降、父の霊、また、キリストの霊の個々人への内住は、キリスト者すべての普遍的なしるしとなったのでした。新約時代、洗礼者ヨハネ、キリスト、弟子たちによって、あふれる福音の「雨」、―ヘブル語の「教え」― は、渇いたユダヤの地に降り注がれ、神の知識「御言葉」と神の祝福がパレスチナ全土に広がったのです。
使徒ペテロは、キリスト昇天直後のイスラエルの例祭「ペンテコステの日」、エルサレムに起こった驚くべき聖霊降臨の出来事、―集まっていた弟子たち各々が、他国の言葉で神のメッセージを語り出した超常現象― を、しるしと不思議と騒音に驚いて集まって来たユダヤ人たちに、このヨエルの預言の成就として説明しました。神の人モーセは、
「主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに」(民数記11:39)
と、ヨエルの時代よりはるか前、十五世紀BCEにすでに預言的に願望を言い表していましたが、ヨエルはこのモーセの遠大な願望が実現することを預言し、ペテロは西暦一世紀にそれが成就したと、告げたのでした。エルサレムから始まって全地に福音が宣べ伝えられ、信じる者だれでも等しく聖霊の賜物を受けるとき、各々が今度は御言葉を告げ広める役割を担うようになるのです。
「あなたがたの息子や娘は預言し…しもべにも、はしためにも…」(下線付加)
とヨエルは、この現象が一世代にとどまらず後の世代にまで続くこと、また、対象にはユダヤ人だけでなく異邦人も含まれることを示唆し、普遍的な救いとして預言しています。
古代イスラエルでは、夢は生活の中で重要な役割を果たし、人々は見た夢を分かち合い、解釈するのがならわしでした。夢や夢見る者に対する疑問は、古代はなかったようですが、時代を経て、恍惚状態で、あるいは、人工的な工作をして預言をする偽預言者や偽教師が横行するようになると、夢が偽預言者のしるしとみなされるようにもなりました。
言うまでもなく、イスラエルはどの時代も、他国の占い師や占星術師、口寄せをはじめ、バアルの預言者たち等々、民を惑わす者たちに欠くことはなく、神はご自分のメッセージを、ご自身が召名された真の預言者だけに授けられたのでした。同様に聖書は、イスラエルの族長ヨセフや預言者ダニエルには、夢を見、解き明かす特別な力、賜物を神ご自身が授けられたことを明記しています。
邦訳の「幻」、すなわちビジョンも古代イスラエルでは重んじられ、夢とは違って、疑惑や反発が向けられるようなことはありませんでした。ビジョンのほうは、目覚めているときに与えられ、聖書では「予見者」と呼ばれた人たちに深く関連づけられました。言い換えれば、ビジョンは「神の啓示」のことですが、ヨエルが夢とビジョンを明確に使い分けたかどうかは定かではありません。しかしながら、ヨエルの時代、最も尊ばれた預言の方法は、夢でもビジョンでもなく、「神の言葉」でした。この基準は今日も同じで、神からと主張されるすべてのメッセージの判断基準は、書かれた「神の言葉」、聖書です。
使徒ペテロは、使徒の働き2章で、最初に引用したヨエル書の冒頭の「その後」を、終末論的見地から「終わりの日」に置き換えて、まさにエルサレムで起こった聖霊降臨の出来事は預言の成就であること、神が弟子たちに注がれた聖霊の賜物は「メシヤの時代」を特徴づけるものであることを群衆に告げました。にもかかわらず、ペテロは自身の書簡の中で、
「主の日は、盗人のようにやってきます」(ペテロ第二3:10)
とも言い、「メシヤの時代」がまだ来ていないことを明らかにしています。実際、西暦一世紀のペテロが生きた時代には、ヨエルが続けて預言した太陽や月に超常的な異変が起こる天体現象や地の劇的な異変は起こりませんでした。当然、ヨエル書の預言はすでに成就したのだろうかとの疑問が起こってきますが、ペテロがヨエル書の預言を群衆にどのように導入したかを考察すると、背後で聖霊が働かれた結果、ペテロが解釈を試みたことが見えてきます。
ペテロは、主の例祭のためにエルサレムに集まっていた敬虔なユダヤ人たちを対象にして話し始めながら、ヨエルの預言の中の、対象を「エルサレム」に特定するくだりはあえて引用せず、その代わり、
「この約束は…すべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられている」(使徒の働き2:39)
と、対象を全人類に広げ、神の救いが遠未来に及ぶ普遍的なものであることを強調したのでした。興味深いことに、ペテロは、このペンテコステの日の出来事より三十年かそこら後に、中東に散在していたキリストの弟子たちをはじめ、ユダヤ人、異邦人信者のすべてに向けて、
「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です…あなたがたは、以前は神の民でなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です」(ペテロ第一2:9-10)
と、ヨエルの預言の要旨、―初代教会の世代から未来の世代にかけての、また、民族、種族に関わらず、他文化、他宗教に生きるすべての人たちの救い― をうまく反映させて全人類の救いを語り、キリスト者を励ましたのでした。
かつてはイスラエルにだけ限定して用いられた用語「選ばれた」を、ペテロはここではユダヤ人と異邦人キリスト者の両方に用いています。このように、聖霊から洞察を得たペテロは、終末の時代が、イエス・キリストのご降誕、生涯、死、埋葬、甦り、昇天で始まったこと、すなわち、キリストの初臨が終末の時代の始まりを画し、
「あとの者が先になり、先の者があとになる」
とキリストが語られたように、異邦人の救いがユダヤ人に先行すること、しかし、終末の末期、神の約束の成就を信じ続けたユダヤ人が最後に、キリストをメシヤとして受け入れることによって全員、救われることになると、説いたのでした。ペテロが終末の始まりに焦点を置いて解釈したのに対し、ヨエルは終末の末期のユダヤ人の救いに焦点を置き、
「エルサレム…の生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる」(下線付加)
と預言しましたが、「主の大いなる恐るべき日」、すなわち、キリストの再臨のとき、キリストを受け入れたこれらのユダヤ人たちは、メシヤの御国で世界的な福音宣教に携わる大きな召名にあずかることになります。初代教会の時代に、キリスト者すべてに降り注がれた聖霊はほぼ二千年経った今日まで降り注がれてきましたが、ヨエルの預言が完全に成就する終末の末期に向けて、時計の分針が秒読み段階に入ったと思われる今日、新たな驚くべき聖霊の注ぎが各地、特に中東で起こり始めているようです。
ユダヤ人キリスト者でジャーナリストのヨエル・ローゼンベルク氏が「イランのビリー・グラハム」と銘打って紹介した、イラン人キリスト者のホルモズ・シャリアト氏がひきおこした聖霊の火は、イランの人々に驚くべき霊の覚醒をもたらし、ヨエルの預言を地で行く超自然現象が広がっています。シーア派の狂信的終末論者の指導者たちが支配するイランで、アメリカとイスラエル撲滅のスローガンを公に掲げてはばからないイランで、アメリカからシャリアト氏が発信する衛星放送を通しての福音宣教を、十五年目の今日、何と80%以上のイラン人が視聴しているとのびっくりするような話が現実に起こっているのです。真理を求めているイランの人々は、紛れもない聖霊の働きで夢やビジョンによってキリストご自身に出会い、キリストを受け入れています。日増しに増えるクリスチャン人口は三~五百万人と見積もられるとのことです。➩この記事をぜひご覧ください。
ヨエルは3章の冒頭で、イスラエルの繁栄が戻されることを預言しています。ユダヤ人のバビロンからの本国帰還という狭義の意味ではなく、世界的規模の広義の復興が遠未来預言として語られているようです。エルサレム近郊のどこかの谷、あるいは、エルサレムからカルメル山に至るまでの谷で、神の裁きが行われ、判決が執行されることから名づけられた「ヨシャパテの谷」では、諸国民に対する裁きが一瞬のうちに下されます。このとき神が裁きをもたらされる理由、判決基準を知ることは重大です。キリストを救い主として受け入れなかったすべての人々に関わることだからです。
「わたしの民(ユダヤ人)を諸国の民の間に散らし」、「わたしの地(イスラエルに与えると約束された聖地)を自分たちの間で分け取(り)」、「わたしの民をくじ引きにし…子どもを…少女を(隷属下に置いた)」、
すなわち、ユダヤ人をどのように取り扱ったかで、裁きが決定されるのです。
今、イランで起こっていることがイスラエルに飛び火するとき、キリストは来られます。そのとき、御国に入れられる者と、裁かれる者との永久の隔離、キリストを拒んだ者の最終目的地、滅びが決定されるのです。
今、イランで起こっていることがイスラエルに飛び火するとき、キリストは来られます。そのとき、御国に入れられる者と、裁かれる者との永久の隔離、キリストを拒んだ者の最終目的地、滅びが決定されるのです。