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第297号  マタイ25章

御霊に逆らう冒瀆、赦されない罪とは?

キリストは、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません」と言われました。この世だけでなく、次に来る世でも決して赦されることのない「御霊に逆らう罪」とはどのような罪なのでしょうか…

そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。
ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。
愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』
そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼といっしょに婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。
その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。
天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。…
この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』…
人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。…
こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」  マタイ 25:1-13、:14-30、:31-46

先月号で主の例祭「七週(ペンテコステ)の祭り」に簡単に触れましたが、神はユダヤ暦のこの日に、まずご自分の民イスラエルに律法(神の言葉)を授け、後世、キリストの群れ、教会に聖霊を授けてくださいました。
言葉と聖霊はともにイエス・キリストを指し示しており、パウロが
『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった』…それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです…神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。(コリント第二2:11-12)
と語ったように、キリストがもたらしてくださった新約によって信じる者すべてに聖霊が下り、旧約では開示されなかった奥義が顕され、信じる者には神と神の言葉が深く理解できるようになったのです。
旧約の信徒と異なり、新約の信徒は旧新約両聖書(言葉)と御霊をともに与えられる大きな特権に与ることになったのですが、「聖霊を拒絶する罪」の恐ろしさにも直面させられることになりました。

『ヘブル人への手紙』の著者が
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。(6:4-6)
と警告している罪です。もはや赦しの手段がないと告げられているこの罪の恐ろしさは、神の霊であり、キリストの霊でもある「聖霊」の御働きを理解することによって切実になります。

キリストの昇天後、父の約束の聖霊がなぜ地上のすべての信徒に送られたのかを思い起こすことは、理解の助けになります。

(1)聖霊は、キリストが教えられたことを思い起こさせ、信徒を教え導く「助け主」(ヨハネ14:26)として信徒の内に住まわれます。
(2)聖霊は、信徒が「御国を受け継ぐことの保証」(エペソ人1:14)で、真理の言葉、救いの福音を聞き信じる者にはこの聖霊の証印が押されます。
(3)聖霊は、全世界に福音が宣べ伝えられるために、集まって祈っていた使徒たちをはじめ、信じる者すべての上に下られました。『使徒の働き』2章には、ペンテコステの日にエルサレムで起こった聖霊降臨の様子が記されていますが、この日、主の例祭のために巡礼に来ていた外地からのユダヤ人や改宗者たちはこの驚くべき出来事を目撃し、各地に福音を持ち帰ったのでした。

キリストは、弟子たちに
全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい(マルコ16:15)
と世界宣教を命じられた後昇天されましたが、個々の信徒が周りの人たちに福音を宣べ伝えるための助けとして、一人ひとりに「御霊の賜物」(コリント人第一12章)が分け与えられ、今日に至っているのです。

また、
(4)聖霊は、人々に内なる罪を自覚させ、「救い」―人目から隠された自分の内に宿っている罪からの解放― が自分に絶対必要であることを教えます。
キリストは、パリサイ人がご自分のいやしのわざを
この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、この悪霊どもを追い出しているだけだ(マタイ12:24)
と中傷したとき、
人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません(31節)
とお答えになりました。
この警告は非常に深刻で、当時、聖別された者、律法に従順な義なる者と自負していたパリサイ人こそ、まさに「聖霊を拒絶する罪」に陥っているとの指摘でした。

キリストはまた続く32節で、この罪が「次に来る世」、すなわち、「メシヤの御国」においても赦されない罪であることを明らかにされましたが、このお言葉から奇しくも、サタンが地下牢に閉じ込められた後、地上に具現するメシヤの時代に関する意義深い洞察を得ることができます。

この世で、人は確かに、暗闇の支配者サタンに誘惑されて罪を犯してきましたし、犯し続けていますが、自分自身の内部にある罪の問題、―神を否定する罪― は、人自身が神の霊「聖霊」の働きを拒絶するかぎり解決されないので、理想的なメシヤの時代でも、人の罪の問題が存続することを明確にしているからです。
このことは、メシヤの千年支配の最後にもう一度、サタンに人々を誘惑する機会が与えられることを説明しています。
天地が完全に聖められ神の支配下に置かれるには、地下牢から解放されたサタンが全世界の反逆の民を召集した後、天からの火で「御霊に逆らう」すべての民とともに滅ぼされる出来事が起こらなければならないのです(黙示録20:9)。


冒頭に引用したマタイ25章には、三つのたとえが語られています。
各々のたとえの最初に記されている場面設定「花婿を迎えに出る十人の娘」、「旅に出るにあたり…財産を預ける人」、「人の子は…その栄光の座に着きます」と終幕「その日、その時をあなたがたは知らない」、「外の暗闇…泣いて歯ぎしりする」、「永遠の刑罰…永遠のいのちに入る」から、これらのたとえはすべて、キリストの再臨時にキリスト者のこの世を超えた行く先がこの世でのキリストとの関係により決定されることを描写した警告の預言と捉えることができます。
ここにマタイ13章の御国のたとえの中の「毒麦」(30節)の結末が反映されています。

最初の「十人の娘のたとえ」では、ここに登場する娘は花嫁ではなく、花嫁に付き添う娘たちとの見解もありますが、中東の慣習 ―ほかのどの儀式よりも優先された婚礼に備えていないことは花婿に対する大きな侮辱であった― と、このたとえでの強調点、―花婿の到来を待っている十人の娘の外的、内的備え、心の状態― に着目するなら、全員、それぞれに花婿を待ちわびている花嫁とみなしても問題はないようです。
中東の婚礼は婚約後、花婿が花嫁のための家を建て、婚礼の準備ができたことを知らせるまで一年ほどを要し、その間、花嫁は付き添いの娘たちに助けられながら、結婚の準備を進めました。
花婿の準備完了の告知は待ちわびている者には大変な遅延と感じられ、しかも夜間、花婿の友によって予告なく知らされたため、花嫁も付き添いの娘たちも眠りから突然覚醒させられる形で起こるのが常でした。告知に応答し、花婿に会い、花嫁行列に加わるため素早く身支度し、父の家を発つには花嫁の日頃からの姿勢が問われました。

キリストは多くのたとえの中で
目を覚ましていなさい。…人の子は思いがけない時に来るのです
と語られ、主の昇天から再臨までの間に多くのキリストの群れ、教会が告知に応答できず、眠りに陥ってしまう可能性を警告されました。
花婿キリストは新約の契りを交わした花嫁を必ず迎えに来てくださり、婚礼の期日も父なる神はすでに定めておられますが、花嫁には分からないので、失望と焦りから不信仰に陥る危険に加えて、この世の誘惑が花嫁を聖めの過程から不誠実へと挫折させてしまう危険もあるのです。

賢い娘たちに象徴されるのは、主の再臨にいつも備えて主の御旨に従った信仰生活を送っているキリスト者で、愚かな娘たちは忍耐不足、怠惰、主の御旨に不忠実な自称キリスト者です。
たとえでは、前者と後者の違いを「ともしび…入れ物…油」を対照させることで、明確に描いています。両者とも、夜道を照らすための道具「ともしび」を持っていましたが、後者が備えていなかったのは「入れ物」「油」でした。聖書では「油」は「聖霊」の象徴です。油を入れる器は、キリストを受け入れることにより新たにされた「心」です。
すべての娘たちは「ともしび」を携えていましたから、外目にはイエス・キリストの信者であるとみなされ、愚かな娘たち自身、そう信じていたのですが、御霊を心に宿していない信仰生活は、、新生の心と内住の御霊とを拒絶した、人が定めた宗教行為を踏襲するだけの生活にすぎなかったのでした。

キリストを受け入れた後、内住のキリストに依存し、日々、主の御旨を仰ぎ、御霊の満たしを祈り求めるキリスト信仰に生きることなく、自分のわざや努力で救いがもたらされると信じていた、ある意味では、ご利益宗教の罠に陥っていた愚かな娘たちは最後まで、神だけが授けてくださる「御霊」もお金や奉仕で買える、補えると思っていたのでした。
しかし、自称キリスト者の実態はまさに偽善の宗教家と同類の「御霊に逆らう」独善的な信仰生活で、究極的にキリストご自身に
私はあなたがたを知りません
と拒まれ、御国に入ることができないばかりか、滅びに至ることがこのたとえで警告されているのです。