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第292号  マタイ18:21-35

「測り知れない神の赦しの大きさ」と「測り知れない人の罪深さ」

忍耐と憐れみの神の執り成し、最後のチャンスがついに終わるとき、この世が「悪の升目で量られ」裁かれるとき...木の根元に置かれた斧が振り降ろされる「主の再臨」のときが非常に近づいている...

そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」                  マタイの福音書18:21-35


冒頭のたとえでキリストは、人にとって、自分に益をもたらさず、むしろ、中傷したり、卑下したり、傷つける人たちを赦すことがいかに難しいかを、父なる神の測り知れない愛と憐れみによる赦しを対照させることで、銘記させられました。
ペテロをはじめ、その他の弟子たちのように、主を信じ、主のくびきを負う人生を歩む決意をした信徒は自分が神に無条件で赦され、救われたように、主にある兄弟姉妹にも赦しを実践すべきであることを、キリストは、聖書の完全数「七」をはるかに超えた表現「七回を七十倍するまで」を用いてお答えになりました。
罪を心底から悔い改め、神に赦され、御国に生きる者となったキリスト者は、現在の罪の身体が完全に甦りの身体に変えられる日、―キリストの再臨― に向かって信仰生活を歩んでいます。心が神によって完全に変えられ、キリストの花嫁にふさわしくなるための聖めの歩みです。
キリストがここで語られた「無慈悲な家来のたとえ」は、イスラエル史において、神がご自分の民をどのように取り扱われたかを思い起こさせるものでした。
シナイ山でモーセが受けた諸々の掟や口伝律法の多くは、イスラエルの民が約束の地カナンに定住し、農耕生活を始めるとき実践に移すべき掟でした。その中に「地の安息年」の掟がありました。
出エジプトの出来事を通して、エジプトでの隷属下から解放された民に、週の七日目の「安息日」に勤労から離れ、神を覚え休息することが義務づけられたように、大地も六年間の耕作後七年目は「安息年」として休ませ、次周期以降の収穫に備えるようにとの配慮が命じられました。しかし、民は王制が始まってからほとんど掟を守らず、地を酷使したのでした。

ユダ王国はバビロンによって滅び、国を失った民は七十年間バビロンでの捕囚生活を強いられましたが、この七十年間は本来、地を休ませるべき年数だったのです。
まさに七(年)×七十(回の安息年)=四百九十年もの間、神の御旨を行わず、掟を無視してきた民に、ついに裁きが下り、民は痛い罪の刈り取り、―酷使した地を七十年間休ませる償い― を、地から離れ、バビロンで隷属下に置かれることによって償わなければならなかったのでした。罪を犯し続けた民にとっては、ついに当然下るべき裁きがくだり、懲らしめを受けたのでしたが、掟を定め最善へと導くべく指示された神にとっては、四百九十年もの長期間裁きを下さないで、違法を見逃してこられたわけですから、その忍耐と憐れみは測り知れないものでした。

しかし、「不義を義とみなす」妥協を決してなさらない神は、罪は罪として必ず裁かれます。
神の裁きのタイミングが私たちが予期する「とき」より遅れると、あるいは、はるかに長いと、神がすべてを帳消しにしてくださった、もしくは、忘れてしまわれたと思いがちですが、そうではないことを、ペテロは
私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい…無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。(ペテロ第二3:15-16)

と警告しています。

イスラエル史のバビロン捕囚の例では、ユダ王国が滅びる直前の退廃のエルサレムには、神殿内にも偶像が満ち、王も祭司も預言者も、指導者がみな堕落したため、ついに国家に裁きが下り、義なる者にも不義なる者にも災いが下りました。エルサレムは神殿もろとも崩壊し、民は強制的にバビロンに連れられて行ったのです。
その中には、異教の地で偶像崇拝から解き放たれ、ヘブル語聖書の神の約束を信じ、真のヤーウェ信仰を維持した「イスラエルの残りの者」がごく一部いました。この人たちは、捕囚七十年後に祭司エズラや指導者ネヘミヤに引率され、また、預言者ハガイや預言者ゼカリヤに励まされ、エルサレム第二神殿建設や都エルサレムの城壁構築に献身した人たちでした。捕囚の身となり、すべてを失う苦難を経て、罪を悔い改め、心が変えられた、このようなごく一部の人たちが神の約束の民として、今日に至るまで残されてきました。

同じように、キリストのたとえでは、一万タラントもの負債をかかえ、清算を迫られた家来は、自らに負債返済能力の全くない破産宣告をした人の状態です。
隷属下に置かれて一生暮らす以外に道がない、自由はく奪が宣告されたこの人にできた唯一のことは、ただ主人の憐みにすがることだけでした。情け深い主人は八方ふさがりのこの人を見て可哀そうに思い、負債免除、隷属下に置かれるべきこの人や家族を完全に解放してあげたのでした。このたとえがここで終わっていれば、この人は主人の憐みによって裁きを免れ、九死に一生を得た「残りの者」ということになります。
しかし、このたとえの王が人ではなく、「悪は悪、善は善として公平に裁く」義なる神であるなら、不義なる者を「残りの者」として御国に残されることはあり得ないことになります。神の赦しの前提条件は、赦されるべき人の側の心底からの「悔い改め」です。

たとえの家来は、神から測り知れない恩赦を受けながら、自分自身が免除された負債とは比較にならない少額の負債者に対して心を頑なにし、憐れみを全く示さず、赦そうとしなかったのでした。神の寛大な赦しに喜び感謝し、周りの兄弟姉妹に自分が受けた恵みを共有するどころか、むしろ、全く変えられていない無慈悲な心で兄弟姉妹を取り扱ったのです。
この家来をご覧になった神は、悲しみと憤りを覚えられ、この家来を「負債をすべて返すまで…獄吏たちに引き渡した」、すなわち、究極的な裁きに放たれたのでした。
この世で、神からの一方的な恩赦によって罪を赦された「罪人」は、神の恵みと忍耐に感動、感謝して、過去歩んできた自らの罪の道を悔い改めて、神が示してくださった道を歩み始めることになるはずです。もし、そのように導かれず、自分の元の罪の道に戻るなら、この家来のように、二度目の恩赦のチャンスはもうないでしょう。
神が「清算」と呼ばれる時期は長い人類史の最後、神に自分の言動の申し開きをするとき、心から悔い改めなかった者が裁かれるときです。

キリストは、このたとえの負債者、―罪人― の懇願「もう少し待ってください。そうすれば…」と同じように、父へのご自分の懇願を「ぶどう園の番人」に託し、ご自身を執り成し手として語られた他のたとえを話されました。
ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」」(ルカ13:6-9、下線付加)

もし、「いちじくの木」に象徴されるイスラエルが、神に信頼、依存することによって変えられた心から生み出される「実」を結ぶのではなく、神の御旨ではない、自分自身のわざや宗教行為を象徴する「葉」だけを茂らせるのであれば、もはや無駄なので切り倒しなさいとの神のご命令に、最後のチャンスを与えてくださいとキリストが執り成してくださったことが描写されたたとえです。

キリストを神が約束されたメシヤ(救い主)とは認めず、当時ユダヤ地方の司法権を握っていたローマにキリスト処刑を委ねた背信のイスラエルは、キリスト処刑後三十七、八年間、キリストの執り成しで最後のチャンスが与えられたのでしたが、結局、実を結ぶことなく西暦70年、ローマ兵によって滅ぼされ、ユダヤ人は全国に四散させられたのでした。

また、キリストはご自分の受難が近づいたとき、見かけたいちじくの木に葉が茂っているのに実がないのを憤られ、その木に向かって
今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。(マルコ11:14)

と、主がお入り用なとき、備えができていなかった役立たずの木に、呪いを命じられました。
預言者イザヤは、神が発された言葉は必ず成就する、
それは、わたしの望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。(イザヤ書55:11)

と預言しましたが、弟子たちは翌朝早く、このいちじくの木がキリストが命じられた通り、根元から完全に枯れているのを見たのでした。

このたとえは、キリストの死後イスラエルに起こることを主が象徴的行為によって預言された一例で、象徴的行為による預言は、旧約時代の預言者が聞く耳のない民に神のメッセージを告げるとき良く用いた手段でした。実際、キリストが象徴的に訴えられたように、西暦70年、主の死後ほぼ一世代で背信のイスラエルは陥落したのでした。
あれから二千年、忍耐と憐れみの神の執り成し、最後のチャンスがついに終わるとき、この世が「悪の升目で量られ」裁かれるとき、洗礼者ヨハネが警告したように、木の根元に置かれた斧が振り降ろされる「主の再臨」のときが非常に近づいているのです。