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第281号  ミカ書7:1-13

古代イスラエルの出エジプト(最初の贖い)とメシヤの来臨(最後の贖い)

2018年来、最後の贖いを予兆する出来事、―地に下る神の裁きと聖め― が相次いでいる。世の終わりに備えるには? 物理的現象によって損なわれることのない、永続するものを堅持すること!

ああ、何と悲しいことだ。私は夏の果物を集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れるときのようになった。食べられる房は一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。敬虔な者はこの地から消え失せ、人々の間に、心の直ぐな者は一人もいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕らえようとする。彼らの手は悪事を働くのに巧みで、役人もさばき人も賄賂を求める。有力者は自分の欲するままを語り、こうして事をねじ曲げている。彼らのうちの善良な人も茨のようだ。心の直ぐな者も茨の生け垣に劣る。
あなたを見張る者の日、あなたの刑罰の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。あなたがたは友も信頼するな。あなたの懐に寝る者からも、あなたの口の戸を守れ。子は父を侮り、娘はその母に、嫁はその姑に逆らい、それぞれ自分の家の者を敵とする。しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる。
私の敵よ。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても、主が私の光だ。私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主の前に罪ある者だからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出してくださる。私は、その義を見る。私の敵はこれを見て恥におおわれる。彼らは、私に向かって「あなたの神、主は、どこにいるのか」と言った者たちだ。私の目は、確かに見る。今に、敵は道の泥のように踏みつけられる。
あなたの石垣を建て直す日。その日、国境が広げられる。その日、アッシリアとエジプトの町々から、エジプトから大河まで、海から海まで、山から山まで、あなたのところに人々がやって来る。しかし、その地は、そこに住む者たちのゆえに、彼らの行いの実によって荒れ果てる。  ミカ書7:1-13(新改訳2017)

社会の退廃を嘆く預言者ミカの語りで始まる『ミカ書』7章は、冒頭に引用した箇所の8-10節に、都エルサレム(シオン)の声が差しはさまれた対話形式になっています。陰鬱な預言者の口調で修復の見通せない堕落した国家、社会が訴えられていますが、15節には神の応答で明るい未来が展望され、ミカ自身の名に託された意「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」の神賛美で7章は締めくくられています。

預言書では、神の人や信仰を見つけることの難しさが、時節ではないときに夏の果物やぶどうの取り残しの実を見つけることがめったにないことにたとえられています。また、穀物や木の実の収穫には、神の裁きが象徴されています。収穫、裁きが終わってしまった今、もはや実を期待できないように、もう救いのチャンスはないといったミカの悲壮感が「敬虔な者はこの地から消え失せ…心の直ぐな者は一人もいない」に表現されています。

福音書に、キリストが子ろばに乗ってエルサレムに入城された翌日、ベタニアから都に赴かれた途上で、主が実のないいちじくの木に裁きを命じ、枯らしてしまわれたという出来事が記されていますが、実のなる季節ではないいちじくの木をキリストがなぜ枯らされたのかは一見、不可解です。しかし、ミカの嘆きの理由が、不信仰のゆえにイスラエルに下ろうとしていた刑罰であったことに関連させるなら、キリストの行為はまさに、実をみのらせることができなかったどころか、神を拒絶したエルサレムに下ろうとしていた裁きの象徴的行為であったと、解釈できるのです。

わいろ、詐欺をはじめ不正、不法がまかり通る堕落した社会には至るところ、人々を陥れる罠が張られていますが、無法状態になると、不道徳、暴力がはびこり、一番恐ろしいのは、健全な良心が失われることです。神の摂理、神の絶対基準を拒絶するようになると、社会は「善良な人も茨のようだ。心の直ぐな者も茨の生け垣に劣る」混乱状態に陥り、ちまたにはイザヤが「わざわいだ、悪を善、善を悪という者たち。彼らは闇を光、光を闇…甘みを苦みとする」(イザヤ書5:20)と非難した者たちがあふれ、ついには裁きが下ります。
「見張る者」預言者が警告してきた裁きの日には人の本性が暴露され、人間関係、家族関係が崩壊しますが、揺り動かされない神との絆だけは永続します。絶望の中で最後まで神に信頼し、御旨に忠実であった者たちは神の救いにあずかることができるのです。これはまさに、ミカ自身の確信、証しでした。

ミカの時代、ユダ王国はまだ安泰でしたが、すでに霊的堕落に陥っていた王国の、敵バビロンによる陥落は時間の問題で、イザヤをはじめ、紀元前八世紀の預言者たちは一世紀以上も前からバビロン捕囚を預言していました。ミカも8-10節で捕囚の民に言及しています。しかし、都エルサレムが諸国に向けて語る形式をとったこのくだりは、エルサレム陥落後のどん底からの信仰告白になっています。
このように暗黒のときを経て、すなわち、北イスラエル王国の場合は、アッシリヤによる陥落と国家喪失、南ユダ王国の場合は、バビロンによる陥落と捕囚を経て民は復興されました。
さらには、西暦七十年のエルサレム第二神殿陥落と国外離散(ディアスポラ)を経て、また今日のイスラエルも、中東戦争、反イスラエル主義、エルサレム分割、サマリヤとユダヤの地の大部分のパレスチナ国家への譲渡等々、諸問題に直面し、敗北のどん底から神を求め、罪赦され、聖められるとき、再び神の民として完全に復興されることになるのです。
諸国民によって「あなたの神、主は、どこにいるのか」と侮られることほど、神の民イスラエルにとって屈辱的なことはないのですが、この屈辱が逆転させられるときが必ず来ることを、預言者たちは告げたのでした。

今日、国家誕生七十周年を迎えたイスラエルの領土は、紅海からガリラヤ湖までのヨルダン川西岸域とゴラン高原の北部までですが、神がアブラハムに無条件に約束された地は「エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで」(創世記15:18)でした。ヨルダン川ではなく、ユーフラテス川の西岸までの地が本来、神が約束されたイスラエルの地で、ミカは、ユダヤ人の王メシヤが支配される時代、すなわち、メシヤの来臨によって神の国が地上に具現するとき、「国境が広げられる」ことを明確に預言しています。
その日には、全地に四散していたユダヤ人が本国帰還し、同時に、多くの異邦人も再建されたエルサレム、イスラエルの地に住むことになれば、地理的にも、国家的にもダビデ王国は拡張されることになります。

エジプトやアッシリアに代表されるかつての敵がメシヤの支配と神の民イスラエルを受け入れるとき、神がこれらの国々をイスラエル同様に祝福されることはイザヤも預言したことでした。
その日、エジプトからアッシリアへの大路ができ、アッシリア人はエジプトに、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人はアッシリア人とともに主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリアと並ぶ第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。万軍の主は祝福して言われる。『わたしの民エジプト、わたしの手で造ったアッシリア、わたしのゆずりの民イスラエルに祝福があるように。』(イザヤ書19:23-25)

究極的に、神は諸国民を「打って癒される」方法で、反逆の民を平和裏に治められますが、全地に満ちる大いなる祝福の前には、反逆するすべての敵の撲滅と、服従しない者たちの聖めのための懲らしめは必須です。メシヤが支配される王国では、服従しない者たちには裁きが直ちに下り、その地は荒れ果て、祝福にあずかることができないので、この世とは全く違った時代、各自の「行いの実によって」祝福を受ける、公平な生活が保障されます。
ミカは15節で、かつてエジプトで隷属下に置かれていたイスラエルの民を贖い出すために、神がエジプトに下した災いや驚くべきわざを再び起こし、イスラエルの民を究極的なメシヤの時代へと導くといわれたことに言及し、7章の後半を民の究極的贖い、救いで締めくくっています。

今日、イスラエルの究極的贖い、すなわち、メシヤの来臨、―キリスト者にとってはイエス・キリストの再臨― が非常に近いことが、2018年以降とみに世界中で起こり始めた諸現象から明らかになってきています。聖書の世の終わりに関する預言の多くが成就し始めているのです。
多くの世界的な現象の中でも、ラビたちはメシヤの来臨(最後の贖い)直前に、出エジプト時に起こった十の疫病がすべて再来すると解釈していますが、出エジプト時の十の災いのうちの五つはすでに2018年に起こり、引き続き頻度、強度を増して起こるとみなされています。
2019年2月には米国で、「生ける屍鹿病」の感染が伝えられ、ラビたちはこの疫病を出エジプト時の第五番目の災い「家畜の疫病」に匹敵するものとみなしています。かつて流行した狂牛病と同じような伝染力の強い家畜の疫病で、冒された家畜は体力を消耗し、衰弱死します。この十年来広がっているようで、米国の二十四州、カナダの二州で発見され、種を越えて感染、鹿肉を食べる人にも感染する可能性が指摘されています。この疫病を含め、すでに出エジプト時の六つの災いが再来したことになるのです。

2018年12月にスーダンとエリトリアに発生したいなごの群れが、2019年2月の異常な大豪雨で第二世代の大群を孵化させ、一集団はすでにイランにまで達し、現在、紅海の両岸エジプトとサウジアラビアでは、いなごの侵入を制御すべく対処に追われています。
砂漠に常時棲息するいなごは、普通個別行動をとるようですが、良好な繁殖条件下で十数億羽にも及ぶ大群を形成し、数十平方キロメートルにも広がると、行動が変わるようです。いなごの大群がもたらす被害は想像以上に大きく、一平方キロメートルの大群は三万五千人の一日分相当の食物を消費するとのことで、マリの首都バマコ、あるいは、ニジェールの首都ニアメの大きさのいなごの集団は、いずれかの国の人口の半分の一日分の食物を消費し得るとの脅威が警告されているのです。しかも、この集団は一日に150㎞も移動するので、被害域を留めることは難しく、今後さらに雨が続けば、2003年から2005年にかけての被害を上回る最悪の事態が起こり得ると危惧されています。

これらの疫病は出エジプト記9:3と10:13-15に記されていることの再来で、聖書の記述が歴史的事実に基づくいかに正確な記録であるかを知ると同時に、今日世界中で毎日のように起こっている災いが、神からの警告であることを知ることは大切です。たとえば、「主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない」(出エジプト記9:4)と記されているように、出エジプト時、災いが局所的、選別的に下されたことを知るなら、今日起こっている災いを警告として受け止め、備えることによって、究極的な滅び、―霊と魂の滅び― を免れることになるからです。
➪詳細は、ヨシェル47