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第271号  ヨハネ16:7-33

真理の御霊、聖霊の御働き、―明確にされた罪、義、裁きの定義―

今日、超自然的な出来事、奇蹟、癒し、しるし、超常現象などを体験することへの勧め、聖書預言の私的、拡大解釈、また、新しい啓示が神ご自身、聖書の預言者たち、使徒たちを通して顕されていると主張する預言者、牧者、教師たちが驚くほど増えている...

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、私は助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。』…
まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。…あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。…それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。』…
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』
ヨハネ16:7-33


キリストは、十一人の弟子たちと最後の晩餐を終えられた後、師亡き後の弟子たちの信仰の歩みを指示されました。そのとき、この二階の部屋での講話の直後に起こることが定まっていたご自分の逮捕、十字架刑による死、埋葬、甦りを経て初めて神と人との関係に新しい局面が開かれることを、キリストは預言的に語られたのでした。
冒頭に引用したくだりを含め、ヨハネの福音書14章から17章のキリストの別れの挨拶、最後のメッセージには、ご自分の真の弟子たちへの励まし、父が遣わされる助け手「聖霊」による導き、迫害下でどんなに苦しめられようと信仰の結果の永久の勝利と平安の確約が語られています。

一連の最後の晩餐のメッセージの中で語られた
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(14:6)
には福音が要約されています。すなわち、キリストは、ただ「道…真理…いのち」を教えるために来られたのではなく、ご自身が「道」であり、「真理」であり、「いのち」であられることを明確に宣言されました。まず、諸々の宗教はおろか、教会も聖礼典も儀式も人を真の神に導くことはできませんが、イエス・キリストにはできます。それは、キリストだけが「その道」(ギリシャ語では定冠詞付き)だからです。
次に、ご自身が真理であるとの宣言は、キリストこそ真理の基準、試金石であるということです。
三番目に、ご自身が生命であるとは、すべての生命、―もっとも下等な動植物の生命から、高等な霊的水準の生命に至るまで― の源がキリストにあるということです。キリストだけがすべての生命の源泉であるというこの明確な宣言は、この世の諸宗教、カルト、~主義のすべてを終らせることになります。「わたしが神への唯一の道である」と宣言されたキリストのみが、考古学、歴史、医科学、工学、情報学すべての領域で立証される(究極的にすべて立証されることになる)「救い主」だからです。
「永遠の滅び、死」から「永久の生命」への救いは人の手によって達成されるものではなく、ひとえに神の御手によって達成されることなので、この世に生まれた日から死に向かっているすべての人、―罪人― は、「救い主」を必要とするのです。

キリスト昇天後の信徒の信仰生活は、父なる神がキリストに代わる「助け主」として、ペンテコステの日に送られた神の御霊、聖霊の働きによって導かれ、今日に至っています。ユダヤ暦、教会暦では毎年「初穂の祭り」、―初穂としての「キリストの甦り」―、から五十日目の五旬節を「ペンテコステ」の祭りとして祝います。
2018年は5月20日(日)がこの祭り日で、ユダヤ教徒はこの日をモーセがシナイ山で十戒を授けられた日として、キリスト者は聖霊降臨、教会誕生の日として祝います。キリストはこの聖霊の導きによる新しい時代を教会の時代として、
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
と、人々が福音を受け入れるか否かで、各自の肉の身体の死後の行く末が決まることを明確にされました。キリストが天上の父の御許に戻られた代わりに、父の霊であり、キリストの霊でもある御霊が下られたことにより、この世の咎が証明され、この世は、罪、義、裁きの正しい定義を知らされたのです。
もはや言い逃れはあり得ず、この世の人々は、救いの手段として神ご自身が送られた御子、イエス・キリストを受け入れ、信じるなら永遠の生命にあずかる、―人類創造時の状態、神の本来の御旨に戻される― という「福音」への応答、二者択一の選択が迫られることになったのです。

まず、聖霊の御働きの一つは人々に罪、―キリストを信じることができない、自分に救い主が必要とは思わない、すなわち、不信仰― を自覚させることです。この不信仰こそ、聖書が語る神への不従順、「罪」(単数表記)なのです。
初代教会の時代の多くのユダヤ人指導者の「罪」は、ヤーウェが送られたナザレ人イエス・キリストをイスラエルのメシヤとして受け入れることができなかったことでした。聖霊による覚醒なくして、この世の人々が自分の罪に気づくことは決してないのです。ですから、キリストは
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
と、聖霊降臨後の明確な罪の定義を語られたのでした。

次に、
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
と、キリストは聖霊が来られることの大きな意義に言及されました。十字架上でキリストが達成される行為を神が容認される結果、「罪人がキリストを信じる信仰によって義と認められる」という画期的な救いがもたらされることになり、聖霊降臨はその証しとなるということでした。実際、「神の義」が、キリストの犠牲の死によって、キリストの救い、―贖い― を信じるすべての者にもたらされたのです。
この神の恵み/恩寵による「罪人の信仰義認」をパウロは
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人第二5:21、下線付加)
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自分の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ人3:24-26、下線付加)
と、説明しています。神の御前に受け入れられる義とは、人のよい働きや努力、献身に依存するものではなく、キリストの十字架上での犠牲の死によってのみ達成されることのできるものでした。また、キリストの昇天は、キリストの贖いの行為が父なる神に認められたことの確証で、その結果、聖霊が下られたのでした。

三番目に、キリストは
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
と言われ、キリストの十字架上でのサタンに対する勝利、―逆説的に、死による勝利― の意義を、単なる戦いの勝利というのではなく、裁きが執行されたことに力点を置いて語られました。十字架の意義は、サタンがこの世にもたらした罪の身体、肉が十字架上に打ちつけられることによって、神の公義が執行されたということでした。キリストは、肉とは無縁の朽ちない永久の身体に甦られ、サタンに完全に勝利されたのです。
このように、十字架上でサタンが裁かれたので、キリストの甦り以降、肉の身体でこの世に生まれ、キリストを受け入れない者はみな、サタンとともに滅びることが宣告されたのです。

キリストは、さらに
真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れ…やがて起ろうとしていることをあなたがたに示す。…
と言われました。人々に真理を理解する力を与えてくださるのも、聖霊の御働きで、聖霊の力なくして人は何ごとも達成できない、理解できないことが教えられたのでした。ここでキリストは未来のキリスト者の道や啓示のすべてに言及されましたが、それらすべては、使徒たちの手による文書に収められ、主の再臨までに必要な全啓示がすでに聖書に封印されたものとみなされます(テモテ第二3:14-17、ペテロ第二1:19-21、黙示録22:18-19)。
このことを銘記することは非常に大切です。
聖書が至る所で警告している異端が、パウロがアジヤで宣教し、設立した教会に瞬く間に広がったように、今日、超自然的な出来事、奇蹟、癒し、しるし、超常現象などを体験することへの勧め、聖書預言の私的、拡大解釈、また、新しい啓示が神ご自身、聖書の預言者たち、使徒たちを通して顕されていると主張する預言者、牧者、教師たちが驚くほど増えているからです。
しかも、
みな、そうすることで自分は神に奉仕している。(ヨハネ16:2)
と純粋に信じているようで、今日はまさに「選民も惑わされる」時代だからです。