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Yさんの証し その24

待ちに待った喜びの一報

11月5日(日)

Ministry Letter と執り成しの祈りをありがとうございました。
金曜日の11月3日にようやく初出勤の詳細・指示が出ました。感謝申し上げます。

明日月曜からの出勤に備え、昨日はLiberal Judaism (自由主義のユダヤ教)の集会で、今日は教区教会で祈りを捧げました。
Mary Janeのこと、健康・日常生活に問題を抱える主にある兄弟姉妹のこと、自分の精神状態のこと等々、世の中の課題は山積ですが、主の知恵を仰ぎながら、皆さんのお祈りを胸に恬淡と向き合ってまいります。

この三ヶ月、CPFTのHigh Intensity Psycho-CounsellingとChaplaincy Services(集中的、高頻度で心理学的カウンセリングと牧会カウンセリング)にお世話になり、自分の信仰上の問題にも向き合う時間をいただきました。
主の恩寵にすがりきれていなかった自分を何度も見つめ直しました。

最近、日本に四年ほど研究職として暮らしていた英国人の友人が、遠藤周作の「沈黙」(マーティン・スコセッシ監督2017映画)に関する記事を添付してくれました。

主はマタイの福音書の24章で終末の兆候について語られましたが、「しかし耐え忍ぶものは救われる」という言葉を、私は全く理解していなかったのだと痛感しました。そして、主イエスを裏切ってしまったペテロとユダ二人の運命を分けたのも、主の恩寵の赦しに完全に身を委ねることができたか否かの一点だけだったのかもしれないと、考えさせられました。
それには考えられる理由が当然ある。棄教者は基督教教会にとっては腐った林檎であり、語りたくない存在だからだ。臭いものには蓋をせねばならぬ。彼等の棄教の動機、その心理、その後の生き方はこうして教会にとって関心の外になり、それを受けた切支丹学者たちにとっても研究の対象とはならなくなったのである。(中略) こうして弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。沈黙の灰のなかに埋められた。だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼等がそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみにたいして小説家である私は無関心ではいられなかった。彼等が転んだあとも、ひたすら歪んだ指をあわせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。  ―遠藤周作『切支丹の里』1974年―

皆さまの上に主の祝福と御守りが豊かにありますように。

12月3日(日)

新しい職場での一ヶ月

月報をお送りくださり、ありがとうございました。
皆さまのお祈りと主のお守りで、無事11月を新しい職場で過ごすことができました。

仕事初日に、面接官の一人であり、直属の上司でもある方に、思いがけない出来事を知らされました。
上司は私の出願書類を見るなり、「この人がわがチームで働くことになるだろう」と直感したそうです。それを不思議に思っていたところ、面接の前日に、「私の夢」を見たのだといいます。普段からそういった偶然や論理的でないことには全く振り回されない上司にとって、それはそれは奇妙な体験だったそうです。
すべての面接が終わって結果が出た後の話では、面接に来る途中で私を見かけた他の同僚も全く同じことを直感したといいます。

人知を超えた主のご意向

今回の就職に、人知を超えた主のご意向が働いていることを知り、畏怖の心持ちでおります。主の御旨を伺いながら、主がこの仕事を通して私に何を望まれているのかを学び、一つずつ実行してまいりたいと思います。
今後とも聖書を通してのご指南、執り成しのお祈りを賜りますよう何卒よろしくお願い申し上げます。

ロンドンにお立ち寄りの際には是非ご連絡ください。職場は駅から5分で、私は月曜から金曜の朝7時30分から16時頃まで働いています。

皆様の上に主イエスキリストの祝福とお守りが豊かに注がれますように。


Y