御霊の賜物「異言」
初代教会時代に福音を広めるために用いられた御霊の賜物… 今日も、特にへき地で大きく用いられている
終末末期、福音宣教に迫害が及び、この世の手段が用いられなくなるときこそ、信じる者たちが御霊の賜物を発揮するときになろう…
終末末期、福音宣教に迫害が及び、この世の手段が用いられなくなるときこそ、信じる者たちが御霊の賜物を発揮するときになろう…
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。ですから、兄弟たち。私はあなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう… それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭な言葉を語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません… こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席についている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたの感謝は結構ですが、他の人の徳を高めることはできません。私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。 コリント人第一14:1-19
使徒パウロは、『コリント人への手紙』の12章で、御霊の働きについて詳述し、この14章では聖霊の賜物の中でも異言と預言に焦点を絞り、全章を費やして、コリント教会で起こっていた混乱と分裂からの解決策を提示しています。
初代教会時代から、聖霊の働きや霊感は人の側の熱望にすげ替えられ、ゆがめられる危険があったことがパウロの手紙から窺えますが、今日信奉されている明らかに聖書的ではない見解を二点、指摘することができます。聖霊の賜物は初代教会時代に限っての現象で、もうすたれたとする見解と、正反対に、賜物と体験を過度に強調し、賜物の行使を信仰による生まれ変わりを証明するしるしとみなす見解です。
パウロが14章で取り上げている「異言」は、新約聖書では、『使徒の働き』に多くの例証が挙げられているように、キリストが昇天された直後のペンテコステの出来事にて、カイザリヤの百人隊長コルネリオの家で使徒ペテロが福音を語ったとき異邦人家族に聖霊が降臨した出来事にて、また、パウロがエペソで、まだキリスト者として認められていなかった信者に出会い、「主イエス・キリストの御名によるバプテスマ」を授けたときに、自然に起こった現象です。キリストご自身も、弟子たちへの最後の言葉の中で、「信じる人々は新しい言葉を語る」として「異言」に言及されました。
異言と預言の違い
パウロは14章で、異言と預言の違いを「異言は神に語る言葉で、人が理解することを求めて話す言葉ではない。人ではなく、自分自身を霊的に啓発、教化する」、他方で「預言は人に向かって、人に理解してもらうために話す言葉で、聞いた者たちが力を受け、勇気と慰めを得る。したがって、神の民、―教会― を啓発、教化することに大きく貢献する」と、この二つの賜物の対象と目的が違うことを明らかにしていますが、パウロの教えを理解するには、当時の時代背景を知る必要があります。
教会に忍び込んだ異端
パウロの時代、コリント地方に影響を及ぼしていたと思われるカルトは幾つかありましたが、コリント教会に忍び込んでいた二つの大きなカルトは「酒/ワインの神、デュオニソス」と「音楽、預言の神、アポロ」でした。当時教会にも広まっていたこのような異端の影響は、エペソ人への手紙5:18の「酒におぼれないように」というパウロの忠告にも反映されています。異端の神秘宗教の影響は極めて強く、コリント教会の礼拝形式の中にも持ち込まれ、異端の影響を受けた信徒たちが陶酔して、熱狂的に礼拝する雰囲気に、「異言」は欠かせないものでした。異端信仰では、特に女性が神がかり的に異言を発し、礼拝をリードするのが常で、神々の神秘の域に達した者だけがそのような能力を授けられるとみなされ、神秘的なものに対する優越性が認められていたのでした。教会内には、特別な者だけに顕される神の奥義とされた「霊知」をはじめ、多くの異端が混入、個人的な霊的体験や神々との一体感を追い求める体験重視の気風が浸透していました。
教会内に真理と虚偽が共存
パウロがコリントの教会に警告のメッセージを送らなければならなかった背景には、このような真理と虚偽の共存が教会に広く浸透していたことが挙げられるのです。キリストはご自分の初臨から再臨までの間にこの地上に広がる教会を「麦と毒麦のたとえ」(マタイ13:24-30)で語られ、最後まで、―主の再臨のときまで― その状態は続くと教えられましたが、パウロはキリストのこの教えに則して、対策を講じています。それは、毒麦を排除する手立てではなく、麦が毒麦に妨害されないような防御策を確立することでした。それは、善悪を見分ける基準を提示し、「御国の子どもたち」に正しい方向づけをすることでした。
異端の異言の流布
パウロは、冒頭に引用した段落で、神から来る真の「異言」が、ちまたで広まっている神がかり的な異端の異言とは形式的にも性質上も全く違うものであることを明確にし、神に向けて語られる異言が自らの霊的能力を誇示したり、霊性を格づけるしるしでは決してないこと、神は人々に向けて語るために「預言」という別の賜物を下さったので、「みなの益となるため」、「教会の徳を高めるため」、預言で人々を方向づけていくべきであることを、教えたのでした。異言を霊の賜物として明確に認めていたパウロは、異言を否定したのでは決してなく、異端の異言を教会に持ち込むことに警告を発したのでした。パウロの指示は、愛を追い求めること、霊の賜物を熱心に求めること、特に預言することを求めることの三点で、異言の賜物に過度に心が奪われ、他人への配慮より自分の満たしばかりを追い求めていたコリントの教会の人々には、賜物の目標が教会の啓蒙であり、人を助けるために授けられるものであることを、銘記させる必要があったのでした。
異言に対する間違った教理
聖書のどこにも、信じるすべての人が同じ聖霊の賜物を受けるとは書かれておらず、「異言の賜物」を聖霊のバプテスマ、満たしの証拠とする見解に聖書的根拠はないのです。パウロは
世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません
と語り、キリストの昇天直後のペンテコステの出来事で実証されたように、公で語られる異言が、すべての人々に福音を伝える手段として用いられる既成の言語である可能性を示唆しています。ペンテコステのとき人々を驚かせた現象
どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょうは今日、世界の僻地で実際に起こっている、異言による福音宣教の例でもあるのです。また、パウロは「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています」と経験者の立場から教示していることを明らかにしていますが、このことは警告する者の立場上重要です。
神からの異言の実例
実際に聖霊の賜物、神からの「異言」が人の魂の救いにいかに大きく働いたかの証しを、以下ご紹介することにしましょう。
英国在住のユダヤ人牧者、ラルフ・ゴールデンベルク(敬称省略)が七十二歳になり、自らの二十年間の牧会を振り返った自叙伝‘Find the Truth and Lock it in Your Heart’には、真理を求める人には神の見えざる御手が本人が気づくよりはるか前から置かれ、神が導いてくださっていること、神は「真理を求め、真の神に出会い、受け入れた人」を、年月を経て福音を伝える器へと導いてくださることが証しされています。
ラルフ・ゴールデンベルクは、スーダンのユダヤ人共同体に主任ラビとして遣わされた祖父の四十人の孫の一人で、スーダンで幼少時代を送りました。祖父は孫たちやラルフに常々、「真理を見つけ、心に蓄えよ」と教えていました。ラルフはスーダンにいたとき、カトリック系の学校に通い、後、ロンドンで同じく検眼士になる学びをしていた妻に出会い、眼鏡屋を経営していたキリスト者の友人と組んで仕事を始めることになりました。
多くのキリスト者との出会い
「自分はユダヤ人だが、イエス・キリストについて知りたい」と、真理を追究していたラルフは、教会にも通うようになりました。ラルフにとって最初の教会体験は英国のボーンマスでのことでした。手術のために英国に戻った、中国に遣わされていたある宣教師が教会員の祈りと油注ぎによって奇蹟的に癒され、手術をキャンセルしたのを目撃しただけでなく、ペンテコステ礼拝のときには、教会の全員に聖霊が下り、子どもたちが大人のために祈り、預言し始めたのも目撃したのでした。ラルフは心の中で、「もし、キリストが生ける神なら、だれか少なくとも一人でいいから、『イエス・キリストは生きておられる!』と言う人に出会いたい」と思っていましたが、あるとき、新しい讃美歌が導入されたとき、その中で「イエスは今も生きておられる」が数回、くり返されたのを聞いたのです。妻は彼より先にキリストを救い主として受け入れていましたので、このときラルフもキリストを信じる者になりました。しかし、ラルフが福音宣教の確実な召名を感じたのは、その十年後でした。
ある集会で異言が語られたとき、ラルフには、スーダンで聞いて知っていたアラビア語で「神はあなたを愛しておられる。あなたはアブラハムの血筋の者、福音はあなたの口にある」の意であることがすぐに分かりました。その集会では、パウロの指示
もし異言を話すのならば、二人か、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい(コリント人第一14:27)
に従い、異言を語った人はその内容を「あなたは福音を宣言し、わたしの民を神の国に導く、と主が語っておられる」と、解き明かしたのでした。ラルフは神が異言、すなわち、アラビア語で自分に語られたのを悟り、すでに十年前に与えられていた確信を、牧会者として歩み出すことによって、実践へと移したのです。このようにして、ラルフ・ゴールデンベルクは肉の目の健康に従事する者から、ユダヤ人同胞の霊の目を開き、真理を伝える牧者、ユダヤ人共同体に福音を伝える者に変えられたのでした。ガリラヤの漁師だった弟子たちに
わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう
と声をかけられ、招きに従った者たちをご自分の器に変えられたキリストの召名/召命に、年齢制限はないことを思い起こさせるラルフの証しでした。