TRANSLATE

AD | all

第241号  アモス書3:1-8 

町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか…

神の預言はほとんどの場合、「もし~なら、わたしは~にしよう」と、条件つきである。神なる獅子が吠えれば、その結果は恐ろしい裁き。しかし…その代わりに、神は預言者を送られ、人々に悔い改めのチャンスを与えられた…と、預言者アモスは語る…
イスラエルの子らよ。主があなたがた、すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。
ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。獅子は、獲物がないのに、森の中でほえるだろうか。若い獅子は、何も捕らえないのに、そのほら穴から叫ぶだろうか。鳥は、罠が仕掛けられないのに、地の鳥網にかかるだろうか。鳥網は、何も捕らえないのに、地からはね上がるだろうか。町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。
まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。 アモス書3:1-8

神の選びの民イスラエルに要求される従順

「特権を与えられた者は問われる責任も大きい。火のないところに煙は立たぬ。この世の諸事の背後には神がおられ、恐ろしい災いが起こることも神の摂理の下で許されている」と、神は預言者アモスに語られました。神の民イスラエルは、エジプトの地での物理的、霊的隷属状態から救われるという劇的な神の贖いを体験しただけでなく、「地上のすべての部族の中から」選び出されるという特権に与った唯一の民です。
出エジプト直後、神は、シナイ山でイスラエルの民にモーセを通して掟を与えられたとき、
「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから、あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19:5-6、下線付加)
と、特権の民への祝福を約束されましたが、同時に、祝福が条件つきであることも告げられました。民が掟に従わず反逆の道を歩むなら、咎に対する裁きが民の上に必然的に下るのです。冒頭に引用した3節から8節でアモスは、「律法の因果関係」を、イスラエルと神との関係に応用して民に非を訴えていますが、「獅子がほえる」というテーマで始まったアモス書の最初の大段落の締めくくりがこの部分に当たります。

脅威から判決執行へ

4節から5節にかけて、アモスは、略奪者と犠牲者の両方の視点からの例を挙げ、獅子は獲物を見つけて吠え、若獅子は獲物を捕獲したので吠えること、鳥網が仕掛けられたから鳥が罠にかかり、鳥が罠にかかったから鳥網が作動すること、略奪者接近の警報を聞くと略奪される民がおののき、背後に「略奪者なる神」がおられるので、町を恐怖に陥れるすべての災いが起こること、すなわち、回避できない結果が起こることを訴えています。ここには、原因(先行する出来事)と結果(付随する出来事)を明確に示すことによって脅威から判決執行への流れに根拠があることが描かれているのです。
「獅子がほえる」というテーマでアモスが語り始めた「獅子」は、明らかに神ヤーウェで、アモスは因果関係の技法を用いて、次のことを明らかにしているようです。
1.脅威は根拠のないことではない。獅子が跳びかかれば犠牲者が出るように、神なる獅子が吠えるとき、人々は自分たちのおごり高ぶりに震え上がり、悔い改めを迫られる 
2.裁きは必ず下る。鳥がえさにおびき寄せられ罠に落ちるのは、自分の過ちである。同様に人々は、自分自身、生き方、神に対する姿勢を吟味することが迫られる。自分自身の内にあるものが、自らを堕落させるからである 
3.神は侮られる方ではない。この世、人間史を支配しておられる神には、ご自身の完全で正しい摂理がある。神は、ご自身が創造されたこの世に大きな関心を持って見守っておられるからこそ、間違いを正し、義をもたらすため、裁きを執行される

もたらされた「預言の声」

興味深いことに、3節「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか」には、回避できない結果が明記されていません。この世の人間関係の常では、一致するところがあるので交際が続いても、意見が合わなくなれば自ずと関係が遠ざかるものです。条件付き契約で結ばれた神ヤーウエとイスラエルの場合も同じで、もしイスラエルがヤーウエの示された道を歩まないなら、両者は引き続きともに歩むことができるだろうかと、アモスは疑問を投げかけたのでした。法の因果関係に従えば、両者は袂を分かつことになるのです。
この節では、4節から5節で用いられた因果関係の技法が反映されておらず、不完全に終わっていますが、その理由は7、8節で、神が解決策として預言者を遣わされる手段をとられたことで明らかにされます。3節に用いられているヘブル語、邦訳では「仲がよい」には「互いに同意に至る」の意があり、ここではそうではないこと、すなわち、主と民との関係が脅かされ、深刻な危機状態にあること、何らかの行動がとられなければ、背信の民は神の懲らしめを免れることができない状態にあることがほのめかされています。
獅子の声は今にも獲物を捕らえた勝利のうなり声(邦訳では「叫ぶ」)に変わろうとしているのです。しかし、憐れみの神は、獅子のほえ声で、回避できない結果をもたらされる代わりに、「預言の声」を引き起こしてくださったのでした。最終的な懲らしめが下る前に、まだ、獅子が吠えている間に、預言者のメッセージを通して、神との関係を正す機会が人々に与えられたのです。アモスには、このように重大な警告を民に告げる、大変な役割が命じられたのでした。

神の御旨『預言』

旧約の預言者たちは、「未来」の見通しの中で「現代」を捉え、事象を洞察してきました。未来は単に、未来占い的な「来るべき出来事」ではなく、すでに神の摂理の中で定まっている「神の未来」でした。ですから、神から授けられた預言の賜物は「予知」ではなく、「神を知ること」の特権だったのです。
預言は、預言者の神との親密な関係の一部として神によって顕わされたもので、すべてのことを究極的な視点、神の視点から見るとき、「今、どうあるべきか」こそ重大な意味を帯びたのでした。そのように預言の役割を理解するなら、それは、民に神の裁きの座に立つ備えをせよという警告の告知でした。
また同時に、神が「はかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さ(れた)」ということは、神のしもべには御旨が知らされたということで、そのような特権に与った預言者には明らかな動機で、民に預言を伝える責任が課されたのでした。すなわち、神の真の預言者アモスは神の御旨を明確に知らされたので、預言を告げざるを得なかったのでした。まさに、獅子が動機があるから吠え、人々を恐れさせたと同じで、アモスも、告げる言葉が人々にとって脅威であっても、神が語れと命じられたので、語らざるをえなかったのです。

顕された神の全啓示の書『聖書』

新約時代の今日、旧約時代と異なり、全人間史に関わる神の預言はすでに全聖書に啓示されました。今日、すべてのキリスト者は聖書を通して、神のご計画を知り、今をどのように生きるかを知ることができます。ですから、まだ成就していない預言を推し量り、現在起こっている事象と関連づければ、どのような筋書きをも描くことができるのですが、聖書の預言は、物事が起こった後初めてそのことがすでにそこに記されていたことが明らかになる不思議な方法で、いわば、未来占いの手段として決して用いられることがないようにとの安全弁が敷かれた方法で啓示されているため、前もって正確に解釈することはできないのです。
これまで多くの人たちが聖書から憶測して、預言が成就する年月を唱え、あるいは、筋書きを描くことに挑戦してきましたが外れ、偽預言とみなされたことは、神は未来占いのために預言を告げられたのではないからなのです。神を愛し、神の言葉に沈思し、神の御旨を知りたいと思っているキリスト者に許されていることは、預言された出来事の詳細を前もって知ろうとすることではなく、そのときの近づきを知り、備え、あとは主に信頼して任せることなのです。

ミシュコルツ・ラビのエゼキエル書38、39章の解釈

主の例祭の最後、今年の「仮庵の祭り」は、ユダヤ教徒の間で九月二十七日から十月五日まで祝われました。ユダヤ教ハシディズムの指導者ミシュコルツ・ラビとしても知られているラビ、シャローム・ベルガーが、この祭りの最後の食事のとき、メシヤがいまにも来臨されることを強調し、「ゴグ・マゴグの戦い」の新しい解釈を披露、会衆を驚かせたことが報道されました。
彼は、この戦いがエゼキエル書38、39章に記されているようにイスラエルで起こることになるのではなく、現在すでにシリヤで起こっていると思う、と語りました。「イスラエルの地と民に対する神の憐みのゆえに、神はイスラエルへの裁きを軽減してくださり、この戦争はシリヤの地に起こっている。この冬には、世界中で引き続き動乱が相次ぐが、すべてのことはイスラエルにとって益となるであろう」というのが彼の主張で、その根拠はイザヤ書17:1-14で、神がエルサレムをダマスカスを含む地域にまで拡大してくださり、やがてエルサレムの門がダマスカスにまで達するので、今日起こっているようにそこでは大戦闘が展開しても、エルサレムには及ばない、というものでした。
ミシュコルツ・ラビの奇想天外な聖書解釈の趣旨は、世界中のユダヤ人に、メシヤはすでにおられ、すべてを聞いておられるので、神のご命令「トーラ」に立ち返り、罪を犯さないようにすべきである、そうすれば、「私たちは、今年メシヤが姿を顕されるとき、奇蹟や驚くべきしるしを見るにふさわしい者になるであろう」と、奨励することだったようですが、なるほど、全人類が罪を悔い改め、真の神に立ち返るときが確実に近づいています。

難民のヨーロッパ大移動の問題

九月から始まって収拾がつかなくなっているシリア、イランからのヨーロッパへの難民移動は、ヨーロッパ大陸の過酷な冬場を直前に、凍傷から人々を守るため、主要な移動通過点に温かい食べ物、暖かい衣類、防水具や毛布類を十分に配給する対策、洗身洗濯設備設置の対策が必然となり、欧州連合自体の統合が危ぶまれる大きな山場を迎えています。
難民の多くは実際には経済難民、出稼ぎ難民で、平安とよりよい生活を求めて、ヨーロッパの大国ドイツを目ざして、トルコから、ギリシャ、セルビア、クロアチア、スロベニア、オーストリアを経ての移動で、ハンガリーが国境封鎖をしたため、クロアチア、スロベニアなどの小国が収容できないほどの難民を抱え込み、国難に直面しているのが現状です。アラブの春と呼ばれた2010年から2012年にかけてのアラブ人の開眼は氷山の一角で、今日、六千万の人々がドイツに向けて移動しているといいます。 

終末末期のしるし

このような大移動は、聖書には終末末期のしるしとしては記されていませんが、ききんや戦争、革命が起こると、人々の大移動は必然的に起こっており、おそらくキリストが「産みの苦しみの初め」として言及された民族、国々の敵対、ききんの預言に包含されるものと考えられます。
欧米諸国が原始キリスト信仰から堕落し、世俗化したこの時代に、神がイスラム教徒の大集団をヨーロッパのキリスト教国に送られたとするなら、そこには、クリスチャンへの懲らしめを通して、中東難民を真の神に開眼させる神のご計画があるからに違いありません。
クリスチャンが悔い改め、主に立ち返り、自ら苦境に直面しながらも難民の人たちに助けの手を差しのべていくとき、神ご自身がご介入され、大いなる愛のわざを見せてくださるのではないでしょうか。