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第235号 詩篇38篇

神の子らに対する神の厳しい懲らしめは古来の謎

主に献身した、あるいは、献身している牧者、霊的指導者、キリスト者の多くが、なぜ身体の病、心の病、健康や環境への攻撃、敵の攻撃にさらされているのでしょう…
主よ。あなたの大きな怒りで、私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。その傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かさのためです。私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。
主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています。しかし私には聞こえません。私は耳の聞こえない者のよう。口を開かず、話せない者のよう。まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。
それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。私は申しました。「私の足がよろけるとき、彼らが私のことで喜ばず、私に対して高ぶらないようにしてください。」  私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。私は自分の咎を言い表し、私の罪で私は不安になっています。しかし私の敵は、活気に満ちて、強く、私を憎む偽り者が多くいます。また、善にかえて悪を報いる者どもは、私が善を追い求めるからといって、私をなじっています。私を見捨てないでください。主よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。                 
詩篇38篇
この詩篇は、神の寵愛のしもべ、イスラエル統一王国の王ダビデが、身体と心の病、苦痛からの解放を訴えた「悔い改めの詩篇」です。ここには、寵愛のしもべが受けなければならなかった厳しい試練と、罪に対する神の懲らしめの厳しさが描かれています。第一段落では、ダビデの焦点は自分自身で、罪の痛みを訴えています。第二段落では、周りの者たちに焦点が当てられ、罪のもたらす孤独感が訴えられています。罪の結果のこのような苦しみを経て、ダビデが最後に主を仰ぎ、罪の赦しがもたらす結果に期待を寄せているのが、第三段落です。
第一段落では、用いている言葉から、ダビデは、主が自分に対して憤り、攻撃しておられると感じているようです。恐ろしい病の原因は自分の罪で、罪悪感にさいなまれていることが赤裸々に訴えられています。そのように心身ともに苦しむダビデを、友や身内の者、愛する者たちは、慰めと励ましを与えるどころか、ダビデに近づくことで我が身にも災いが降りかかることを恐れるかのように疎遠になってしまったのでした。

このときのダビデには明確な罪の自覚があり、その罪悪感のゆえに、主に無実を懇願することができず、敵のあざけり、欺きに対して反駁できない無念さ、聞こえないかのようにふるまわなければならない弱さがにじみ出ています。しかし、確かに主の前に罪を犯したことは認めても、しつように攻撃してくる者たちに対しては、責められるような悪事は何もしていない、にもかかわらず、敵の理不尽な攻撃が続いているというのが、ダビデの訴えのようです。心も身体もひどく病み限界に達したとき、苦悶の底から、ダビデは自分の代わりに主が敵に対処してくださることを願い始めます。
おそらくここでダビデは、熟年期に主から与えられていた教示を思い起こし、主の御前に罪を告白し、自らは沈黙を保ち、直面している問題を主の御手に委ねることにしたのでした。主からの教示
「悪を行う者に対して腹を立てるな…あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる…主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ」(詩篇37:1-8)
を実践することにより、ダビデの乱れた心は静められ、最後は「主よ。私の救いよ」と、主が必ずご介入してくださるとの信仰表明で終わっています。

このダビデの例のように、神の子らに対する神の懲らしめは厳しく、
「もし、あたたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいとみられることを行い、またその命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら…わたしは主、あなたをいやす者である」(出エジプト記15:26)
との神ご自身の声明にもかかわらず、なかなか聞かれない祈り、身体の病、心の病、健康や環境への攻撃、敵の攻撃などありとあらゆる試練を経験している牧者や霊的指導者、キリスト者は多いのです。
キリストの招きの言葉
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)
が、必ずしも私たちが望むような意味、―この世での健康、環境、人間関係、生計の保障― ではもたらされない場合が多いのです。そのような戦いを経験した、あるいは、戦いの最中にある、主にある兄弟姉妹たちの奮闘記から多くの洞察を得ることができますので、以下、紹介したいと思いますが、すべてに共通していることがあるようです。明らかな罪の結果とは無縁に、神が信仰に生きる人たちに苦難をもたらされる理由の一つには、どのような苦難におとしめられようと、この人たちが決して神を呪ったり、離れたりすることなく、むしろ、自らの置かれている状態を説明する御言葉を探り、主の正しさを立証することによって、この世に証しをしているという事実が挙げられます。
祈りが聞かれ、病が癒され、健康が支えられ、環境、人間関係が改善され、生計が保障されたことで神を賛美し、たたえる以上に、死に至るまで主への信頼を全うした、あるいは、試練の最中にある兄弟姉妹の信仰の証しは力強いのです。それは、バビロン捕囚先で偶像神崇拝を強要されたとき、ダニエルの友人たちが王ネブカデネザルに明言した言葉
「…私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます…しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。』」(ダニエル書3:17-18)
に見られる揺るがない信仰です。

米国のG兄弟は、健康に自信のあった五十歳のカトリック教徒。前立腺癌、―手術による摘出か、X線療法による癌撲滅以外にない―と診断され、動転、失意の底へ。二、三週間過ぎて平静を取り戻し、御言葉を探りはじめ、中でも
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ人8:28)
に、自分に対する神の備えの確かさを確信。自分がこのような不測の事態に導かれたのは、神の益のためであるとの聖書理解は、心に平安と神への賛美をもたらし、何が起ころうと「患難が忍耐を生み出し、忍耐が品性、品性が希望、希望は失望に終わることがない」との御言葉が確固と据えられたのでした。
前立腺癌に関わる治療法の情報集めに奔走する一方で、G兄弟は、身体の病「癌」と「罪の病」(すべての人が生まれつき受け継いでいる「神への不従順」)とを比べ、どちらも知らないうちに進行し、どちらも死に至る病で、どちらも人の手による癒しがないという事実に開眼。この世では、膨大な研究費が癌撲滅のために費やされてきているが、果たして「罪の病」のためにどれほどの努力、闘いがなされてきただろうか、また、不治の癌を癒された者がその治療法を大々的に広めたいと思うように、「罪の病」からの唯一の治療法を知っているクリスチャンがどれほどその普及に努めているだろうか、との思いがわき上がってきたのです。
癌と診断されてから数ヶ月が過ぎ、G兄弟は、自分の肉の身体が癌によって朽ち果てようと、自分のすべきことは、求める者にはだれにでも、「罪の病」に無料の神の療法があることを伝えることと、愛と恵みの神に栄光を帰すことであり、すべての経験が神の祝福であるとの確信に導かれたのでした。

米国の著名なクリスチャン指導者の夫人で彼女自身ミニストリーに専念しているN姉妹は2013年2月、鼻の奥の空洞に悪性黒色腫(ほくろの癌)が発見され、すぐに処置しなければ、二、三ヶ月の生命と宣告されました。3月、癌に侵された部分と鼻自体の摘出手術をし、手術は成功。二週間後から、X線療法、化学療法が行われ、鼻のプラスチック整形術などを経て、8月ごろには仕事に復帰。
しかし、全部摘出されたはずの癌が10月の検査で、鼻の同じ部分に再発と診断され、X線療法、化学療法の継続。2014年4月には、脳に二ヶ所がんの転移発見、幸い、二ヶ月後には消滅。その後も、X線療法、化学療法を継続する一方で、CTスキャン、PET スキャン、MRIで、がんの動向を調査。しかし、鼻の奥の癌は療法によって萎縮したものの、依然として存在。2014年9月に医者たち、もはや癌撲滅のための医学療法がないことを宣告。唯一の望みは、悪性黒色腫を対象に新しく開発された化学療法。医療への適用の許可が米国のFDA(米国食品医薬品局)から下りた11月、三ヶ月間の療法を開始。
しかし、2015年1月、困難な全治療に耐え、終了したものの、癌には何の変化も見られず、この療法の継続は中止。2015年新年早々には、がんとは無縁に胆石の激痛で救急車で病院に運ばれ、その後病院で、さまざまなウイルスに感染、肺炎になり、まさに「弱り目に祟り目」の災難。今現在、彼女に残されたのは主ご自身のご介入による癒しのみ。N姉妹には、主から、詩篇118篇17-18節の御言葉が示されており、大変な試練の中にあって、姉妹は「生命を与える」主を信頼し、三月現在の近況報告では、希望に満ち明るく、苦痛に耐えているとのことです。
彼女の闘病記は、免疫力が弱まると、人の身体がいかにすべての病に侵されやすいかを物語っていますが、彼女の二年間の闘病は、果たして世界中のクリスチャンの熱烈な祈りに支えられた結果の主の癒しとみなすことができるのか、あるいは、現代医学の成果を主が有効にしてくださったことによる癒し(処置なしでは「死」しかなかった)なのか、いろいろ考えさせられる課題です。

クリスチャンミニストリーに従事している米国のM兄弟は、数年前、大腸の大きな腫瘍が癌ではなく無事摘出できたことに歓喜したのも束の間、腎臓の神経組織損傷という思わぬ疾患併発にその後も三回に亘り手術を繰り返し、数ヶ月も自己カテーテル法に服さなければならない災いに見舞われました。最初は、なぜ自分にこのような災いが起こったのか、病床で主のために何ができるのか等々、まさにヨブが苦闘した
「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかった」(ヨブ記3:25)
状態に苦しんだのでした。しかし、多くの御言葉に励まされ、M兄弟の関心は次第に自分のために奉仕する病院スタッフへと向けられ、助けられることを通して神に感謝し、主が試練を通して、これまで盲目的であった領域に目を開いてくださったことを悟ったのです。災いの中にも引き続く手術の成功、無事退院へと導かれ、主の確かな守りと導きを体験したのでした。