全聖書が証しするイエス・キリストの神性と地上に具現するキリストの支配
パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。ダビデが主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問する者はなかった。マタイ22:41-46
主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。「あなたの敵の真ん中で治めよ。」あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」あなたの右にいます主は、御怒りの日に、王たちを打ち砕かれる。主は国々の間をさばき、それらをしかばねで満たし、広い国を治めるかしらを打ち砕かれる。主は道のほとりの流れから水を飲まれよう。それゆえ、その頭を高く上げられる。
詩篇110篇
イエス・キリストの神性についての議論はキリストの時代から今日に至るまで、絶えることなく続いており、この根本的な聖書解釈の違いによって、この世には、自称キリスト教であってもイエス・キリストが教えた真のキリスト信仰ではない宗教が広まっており、一般の人たちを混乱におとしめているようです。鍵は、キリストの愛弟子ヨハネが一世紀末95CE前後に書いた書簡『ヨハネの手紙』の中で繰り返し警告されている
「小さい者たちよ。今は終りの時です…今や多くの反キリストが現れています…彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです…偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです…初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい…それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです」(ヨハネ第一2:18-25)というメッセージにあります。「初めから聞いたこと」とは、キリストご自身がヘブル語(旧約)聖書に基づいて語られた神の奥義「福音」です。キリストをどのような方として信じ、受け入れるかが、私たち、一人ひとりの永遠の行き先を決定するので、聖書を正しく理解することは必須です。
キリストは、当時の熱心なユダヤ教徒パリサイ人たちに対して、この重大な問題に関して質問をされました。彼らはみな、キリストを「ダビデの子」と認めていました。ヘブル語聖書に通じていたパリサイ人たちは、神のダビデへの約束
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(サムエル記第二7:12-13)を信じ、ユダヤ人のメシヤ「油注がれた王」の到来を待ち望んでいました。ヘブル語聖書はまさにこのメシヤを証しする書であり、預言書だけでなく、箴言30:4
「だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている」にも謎解きの口調で、メシヤへの言及がされているのです。
冒頭に引用したように、キリストはパリサイ人たちに対し、ヘブル語聖書『詩篇』からの引用で、ダビデが「ダビデの子」をなぜ、「主」と呼んだのか、という質問をされました。この質問は、二つの重大な真理を理解しなければ、答えることのできないものでした。まず、キリストが引用された詩篇は、「ダビデの子」が同時に「ダビデのとこしえの主」であるという、この世の視点からは理解できない真理を告げており、キリストが達成しようとしておられた死からの甦り以外に、この真理を人に確証させる手立てはありませんでした。使徒ペテロは、キリストの昇天後のペンテコステの日に、エルサレムに集まった巡礼者たちに向けて、この同じ詩篇を用いて、キリストの神性を証ししたのでした。
二つ目に、ダビデ自身、自分の血筋に生まれる「ダビデの子」メシヤを「主」と呼んだのは、聖霊による洞察で、「メシヤが神である」ことを悟ったからでした。キリストはイザヤが預言した処女降誕によってご自分が、「人」としてこの世に下られたことを、パリサイ人たちに教えられたのでした。しかし、この世の既成概念を振り払うことのできなかったパリサイ人たちは心を頑なにし、キリストの語られた背理、―神の視点からしか洞察できない真理― を信じることができませんでした、返答に窮したパリサイ人たちは非を認めるどころか、その日以降、真正面切っての対決を避け、暗殺計画を推し進めていったのでした。
キリストが引用された詩篇110篇は、昇天後、天上の神の「右の座」に着かれた栄光のキリスト、特に、キリストの神性を描写している注目に値するメシヤの詩篇です。ここに描写されているメシヤ「主」が神であることをだれも否定できない格調高い詩篇であることから、新約聖書でも多く引用されています。この詩篇は二つの大段落1-3節と4-7節で構成されており、両段落とも神の言葉「わたしがあなたの…」、「あなたは…」で始まっており、よく似たメッセージが二つの段落で平行して語られる構成になっています。
第一段落は、「あなた」と呼ばれるメシヤが「王」として「神の民」を支配し、「神」から力を与えられた「王」には、早朝から従順、献身的に仕えることを喜び、聖なる装束を着けた「祭司なる民」がはべっているさまを描写しています。第二段落では、「あなた」なるメシヤは、「メルキゼデクの位の普遍的、とこしえの祭司王」として、「王たち」と表現されている敵を打ち砕き、全世界の国々を平定、支配し、「流れからの水」で強さが新たにされます。それは、平定された敵をも含め、全人類が「高められた祭司王」に仕えるようになるメシヤの御国の描写です。
第一段落の冒頭の言葉は、ダビデの血筋の王をご自分の右の座に着かせられるという「父なる神ヤーウェ」の「祭司なる王」に対する厳粛な神命です。ここでダビデは「主は、私の主に仰せられる」、ヘブル語では「ヤーウェは、アドナイに言われる」と言い、この「祭司なる王」を「神」として語っています。1節は、新約聖書に二十五回引用されており、『ヘブル人への手紙』は
「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。』 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」(1:13-14)と問題提起し、メシヤが御使いではないことを明確にしています。御使いは人に仕えるための生き物、神の被造物にすぎず、崇拝の対象には決してならないのに対し、「祭司なる王」、御子は神と本質を同じくし、神の「右の座」に着かれ、崇拝の対象となる方であることを、1節は明らかにしているのです。この世に御子を否定する霊、―キリストの神性を否定し、御使いとみなす偽りの教え― がはびこることをご存じだった神は、ダビデにこの神命を告げ、重大な真理をとこしえの書『聖書』に刻み込まれたのでした。
2節は、メシヤの支配がシオンから拡大することを語っています。その支配は、すべての敵にも及びます。3節はNIVでは
「あなたの群れは、あなたの戦いの日に喜んで仕え…聖なる威厳で陣立てされて、夜明け前の胎から、あなたは、あなたの若さの朝露を受けるであろう」で、ここには、聖なる奉仕のために聖められ、聖なる装束を身にまとった「祭司たち」に伴われた王が描かれているようです。「夜明け前の胎」は、露の源が天であることを暗示しており、王が超自然的に天に由来することが示唆されているのです。「あなたの若さ」は邦訳のように、王の家来の若さが王にとって「朝露」のようだと解釈することもできますが、露に象徴された神の新しい生命が王に「生命の力」をみなぎらせるとみなすと、「夜明け前の胎」への言及とともに、天からの「生命を与える露」が王の力の源の意になるのです。『ヘブル人への手紙』は、
「メルキゼデクに等しい、別の祭司」、すなわち、キリストに言及して「その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです」(7:16)と、キリストがこの世の祭司とは全く異なった、源が天にある方であることを明確にしています。エルサレムが、再臨の主によって地の政府の中心となるとき、
「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえたち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ」と、イザヤとミカが異口同音に預言したように、未来都市エルサレムは全世界からの人々であふれるのです。
第二段落では先に触れたように、第一段落と同じ構成のパタンが繰り返されますが、興味深いことに、神、ヤーウェと「祭司なる王」の座の位置が逆転しています。ここではヤーウェがご自分の「とこしえの祭司」の右手に立たれ、力を貸されます。律法の下に置かれたレビ人の祭司制度に依存する祭司ではなく、「王であり、いと高き神の祭司」としてメルキゼデクの位に着かれたメシヤは、権威が確立された今、普遍的な統治を樹立されます。その支配にだれも挑戦できないことは「主は国々の間をさばき、それらをしかばねで満たし、広い国を治めるかしらを打ち砕かれる」という軍事的な隠喩に表されています。これはまさに、
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり…その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(イザヤ書9:6-7)と、イザヤが描いた、「人」としてこの世にお生まれになるメシヤによる王国の描写でした。
このようにヘブル語聖書では、メシヤの支配がおひざもとシオンから、波紋のように広がることが預言されてきました。しかし、新約では対照的に、初臨時のメシヤによる支配はキリストご自身の同胞ユダヤ人たちに拒絶されたため、「イエスという別の王」(使徒の働き17:7)を広める、すさまじいこの世的、霊的戦いになること、キリストの弟子たちは全世界に出ていき、福音を普遍的に宣教しなければならないことが警告されたのでした。真理を嫌うこの世に福音を伝えることは人の努力ではなく聖霊の働きによるので、現時点では不可能にしか思えなくても、ヘブル語聖書が約束しているメシヤの時代は、主の再臨によって間違いなく到来するのです。