2014年12月11日
頌主。
8日、月曜日にシフトが終了し、早速お返事を出そうと思っておりましたが、大変遅くなり、申し訳ございませんでした。今月のフルダレターを有難うございました。いつも楽しみに致しております。
先週、自社ビルの完成に伴い、新社ビルに移動、通勤のbusが少し変わっただけですが、想像以上に体力を消耗してしまい、月曜はほとんど眠ったまま目も覚まさず、火曜日を迎えてしまいました。来週一週間のシフト後、産休を22日から頂くこととなりました。2015年7月の職場への完全復帰まで、しばらくは育児に専念させていただくことになります。主のご配剤と天佑、お導きを信じて委ねてまいります。
聖書という揺るがない道標
今、世界中で起きている社会の不穏な動きや天災、若い世代の方々が想像以上に「精神的病い」(うつ、ひきこもりの急激な増加、注目を浴びるためや憂さ晴らし目的で面白半分弱者をいたぶったり襲ったり、放火をしたりを繰り返すなど)に侵(おか)されていることを見るにつけ、おぞましいものを感じます。もはや、常識的な個人の「良心」という言葉も通用しない、そんな時代が到来したのかもしれません。
聖書という揺るがない道標無しでは、自分をたとえしっかり持っているつもりでも、いつの間にか世間の潮流に飲み込まれてしまいかねない、そんな危機感を抱く毎日です。ただ、若い世代の方々や、この世の競争社会を生き抜き、栄達をつかむことに日夜必死な方々は、このように現状を捉えることを「弱者の戯言(ざれごと)」と一蹴(いっしゅう)されるかもしれません。彼らの「弱肉強食」、「成功第一」の哲学にしっくりいかないからでしょう。
聖書は、「良心」を意図的に歪める生き方を習慣的、挑戦的に続けるとき、その者は「死罪に当たる」と、厳しく警告しています。人は神に反逆する道を自ら選ぶことによって滅びるのです。しかし、同時に、憐れみの神は、悔い改め、キリストによる救いを受け入れる者をみな、救ってくださいます。
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らはそのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。ローマ人1:28-32
聖書から得られる大きな慰めの一つは、こういった「曲がった邪(よこし)まな時代」(ピリピ人2:15、新改訳では「曲がった邪悪な世代」)が今に始まったことではなく、聖書のあらゆる時代に何度となく遭遇されてきた危機であり、主に寄りすがり、主の救いを信じ、教えを守って患難を耐え忍んですでに眠りについた先人達が、今、復活の日を待ちわびながら、私たちに聖書と主の聖霊を通して、絶え間なく警告を発してくださっていることです。
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。ヘブル人12:1-3
『ヘブル人への手紙』の著者は、11章に続いて12章でも、キリスト信徒を、賞を得ようと懸命になっている競技者とみなしています。この競技は、キリストを受け入れ救われた日から、肉体の死まで続くのです。ここで、キリストにある競技者は、11章で語られた旧約時代の多くの証人たちを見、ユダヤ教の因習や、背信の罪を捨て、キリストに目を据えて生きるようにと勧められています。
キリストがすでに通ってくださった、死に至る生涯のすべての苦しみの一つひとつを思いおこし、「神の言葉」、聖書に黙想するとき、信徒は、主が元気を失わないようにすでにすべてを備えてくださっていたことに気づかされるのです。主の備えは完全です。
私たちが、神が愛する者を懲らしめられること、また、懲らしめは父子の密接な関係のしるしであることを体験から知り、神の御旨がいつも「子の成長」であることを確信できるとしたら、それは私たちが紛れもなく「神の子」であるという証拠なのです。
生涯の課題は「慈愛の灯」を持ち続けること
先日、両親に便りをしたためるため、聖書を開きました。
マタイ24:10、24:12とピリピ人2:14ー16、黙示録2:4などが心に留まり、自分の愛の冷えに再び気づかされています。「この世の中にあっても心の中に残っている慈愛の灯が決してかき消されることがないように」、これが私の生涯を通しての課題、かつ、祈りです。
クリスチャンの信仰生活というのは、Hさんが仰るとおり、つまずきの連続で、主の慈愛にすがり、悔い改め、また主にある兄弟姉妹の助けを借りながら、そこから何度も這いあがっていく毎日の連続だと知り、有り難く思うようになりました。こんな私でも変わることなく愛してくださる主と、キリストの御名にある兄弟姉妹に、心から感謝いたします。
皆さまの上に、主の祝福が豊かにありますように。