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第231号 エペソ人5:22-33

「三つ拠りの糸」に象徴される三者の関係

すべての人間関係は、互いを強力に結びつける三人目の存在によって、不動、永続するものとなるのです。夫婦関係を永続する愛と揺るがない安全保障で堅く結びつける「第三のきずな」…

妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自分がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、きよく傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛している者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。
エペソ人5:22-33

結婚、家族の意義

創造の秩序、文化、道徳基準をはじめ人の生活のすべての領域に適用されるようになった相対主義は、聖書に記されている創造者なる神の絶対基準を大きくゆがめ、人が生まれ持っている良心を急速に浸食し始めています。社会の最小単位といわれる家族、人間関係 ―夫婦、親子、兄弟、対人― 、結婚、子育ては、天地創造以来、神の大家族構想を破壊し、自らの王国を打ち立てようとの野心にとりつかれたサタンの攻撃を受け続けてきた領域です。
昨今、世俗の心理学、哲学、社会学、医科学によって、聖書が語る結婚、家族の意義は破壊され、あまりにも歪められてしまっています。絶対基準がほとんど語られなくなった結婚について、聖書の定義を今一度認識することは、二人三脚の新しい人生を正しい土台の上に築きあげたいと願っている人たちには、欠かせないことです。
結婚は、創造の初め神ご自身が設立された、人にとって重要な人生の里程標です。神に祝される結婚生活を送るためには、まず、創造の秩序、神の御計画を正しく把握する必要があるといえるでしょう。

冒頭に挙げたくだりで、使徒パウロは創世記2:24を引用して、聖句
「人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」(下線付加)
の奥義の重要さに言及しています。ヘブル語聖書には、ユダヤ教徒にとって最も重要な神の言葉の一つに数えられている‘シェマ’「聞け、イスラエル」のメッセージの中に、
「主は私たちの神。主はただひとりである」(申命記6:4、下線付加)
という聖句があります。ここで「ただひとり」に用いられているヘブル語‘エハド’と同じ用語が、パウロが引用した聖句に用いられているのです。このように、神が設立された結婚、人間関係には、三位格の神の美しい相互関係が反映されているのです。

三つ拠りの糸

三千の「箴言」を書いたというダビデの子ソロモンは多くの興味深いメッセージを残していますが、箴言4:9-12は、夫婦関係として読むと意義深い洞察を得ることができます。
「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりではどうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ拠りの糸は簡単に切れない」(下線付加)
この世の出来事を注意深く観察したソロモンは、交友関係、夫婦関係の大切さ、仲間と一緒に物事に取り組むことの大きな価値を見いだしたようです。
このくだりを王の通商路、いわば公道を行き来する巡礼者たちの行動から得た結論と捉えるなら、二人でともに労働、共有することの利点、―より多くの仕事量、よりすぐれた効率、より大きい報酬、利益、より速やかな難題克服、励まし合い、労わり合い、より大きな安心感、慰め合い、喜びの分かち合い等々― が発見されたのでした。
同様に、夫婦関係と捉えることもでき、少なくとも五つの永続する関係に言及されています。互いを助け、支え、最後まで信頼関係を維持していくとき、このような数々の益を達成することができ、互いに恩恵にあずかることができるのです。
ここには、「ひとり…ふたり…三人」でクライマックスに達する構成の、ヘブル文学における典型的な強調法が用いられていることからも明らかなように、最後の「三つ拠りの糸」に象徴される三者の関係は一番の重点です。すべての人間関係は、互いを強力に結びつける三人目の存在によって、不動、永続するものとなるのです。夫婦関係を永続する愛と揺るがない安全保障で堅く結びつける「第三のきずな」は、「神の言葉」、主イエス・キリストご自身です。

神の掟

ソロモンは、御言葉、―神の言葉― について、
「わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。それをいつも、あなたの心に結び、あなたの首の回りに結びつけよ。これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ」(箴言6:20-23、下線付加)
と、教えました。ここで用いられている用語「命令」は、ヘブル語では‘トーラー’で、両親が子らに伝承する教え「神の掟」、律法です。
人生に確かな指針を与え、導く「神の掟」は、神を恐れるイスラエル人の家庭教育の基で、今日も‘トーラー’の暗唱は教育の一環なのです。
「教え」、「おしえ」、「訓戒」はすべて、神の掟を異なった言葉で表現したもので、人を生命へと導く神の道を照らす「ともしび」も「光」も、源はすべて「神の掟」、すなわち、「神の言葉」なのです。
ユダヤ教徒は「手の上のしるし…額の上の記章」(出エジプト記13:9)として、テフィリンを額から片腕に巻きつけ、祈りのショールを羽織って祈りをしますが、これは、内に保った神の掟を外に表したものでした。
内も外も御言葉、健全な教えに支配された信徒には、掟と教えの光に照らされ、軌道修正され、その諸活動は完全に神に導かれ、この世の誘惑からも守られる祝福の人生が約束されたのです。

エペソ人への手紙』から冒頭に引用した箇所は、
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」
で始まる『コロサイ人への手紙』3:16-25と共通したメッセージが語られている箇所です。
神の言葉、―掟と教え― と、賛美歌、―心の底から湧き出る感謝の歌― にあふれた人生とは、愛にあふれ、キリストの歌に満ちた力強い人生です。
聖書を通しての神の知識と、賛美歌を通して心の喜びを神に表現する賛美、礼拝は、人生に欠かせない生命の真髄ですが、神の知識なくして心から湧き上がる賛美をすることはできないので、ソロモンが先に引用した箴言で子に命じたように、「神の教え」、聖書の知識が人生にとって不可欠なものになるのです。

キリストをかしらとする家族

パウロが『コロサイ人への手紙』を60-62CE 頃、ローマで牢獄に入れられていたときに書いた理由には、当時、コロサイの町に生じた異端を正す必要に迫られたという事情がありました。そのような状況下でパウロがもう一度確かにしておきたかったことの一つは、神が地上に最初に樹立されたのは「家族」、―キリストをかしらとする家族― であったということでした。
ある統計によると、1980年代から家庭崩壊が始まり、社会の秩序も崩れ始め、今日はそれに拍車がかかっているとのことですが、聖書は、やがて人間が築き上げた文明やすべての国家組織が崩壊する時代が訪れることを預言しています。
神の御国の到来は信徒には最大の喜びですが、しかし、この世に生ある間は現今の神の秩序に従って生きることを、神はすべての人々に望んでおられるのです。

神は、国家に政治体制を敷かれたように、妻に「主に従うように、自分の夫に従いなさい」と命じられ、家庭の中にも支配体制を敷かれました。妻は夫に従うことによって、夫のかしらであるキリストに従うことになると、主は言われたのでした。
サタンが最初の人間を誘惑したとき、エバはアダムの地位を奪い、人類に罪を導入することになりました。人間史を見ると、神の秩序によって定められた領域を離れた女性によって、教会が破滅、カルト教団誕生に追いやられた例がたくさんあり、キリストご自身の啓示、黙示録の七つの教会への警告からもその実態を知ることができます。
しかし、正反対に、神の御旨に従い、役割を成し遂げた女性たちも聖書には多く登場し、キリストはそのような女性たちに囲まれ、地上でのミニストリーの財政支援を受けられたのでした。ヘブル語(旧約)聖書では、箴言31:10-31に、神の御旨を行う女性の模範が記されています。

キリストが言われた「夫は妻のかしらである」は、しかし、この世が解釈するような、夫が暴君として立ちはだかるという意味ではなく、夫の愛、導き、指針、養い、守りが妻を十分に喜ばせ、安心保障を与えるものであるということです。
キリストと夫(花婿キリストと花嫁教会)との関係が、夫と妻との関係に対照させられていることから明らかなように、両者は対等な相棒というのではありません。教会がキリストの権威に従わなければ、破滅するように、妻が夫の権威に従わなければ、家庭は崩壊するのです。このことから思い起こされるのは、
「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません…キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう…神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう」(コリント人第二6:14-18)
で明確に警告されている教えです。
この箇所は多くのキリスト教指導者たちが、クリスチャンはクリスチャンと結婚しなければならないと、断定的に決めつけている箇所ですが、聖書の他の箇所に記されているように、「不信者」の定義が「未信者」、―まだキリストを救い主として受け入れていない者― ではなく、不信仰に陥っている信者、神から離れてしまった、すなわち、ベリアル(サタン)に関わるものとなった者の意ですから、配偶者の信仰を理解し、聖書を学ぶ姿勢のある者は、「不信者」とはみなされないことになるでしょう。
むしろ、二人のクリスチャンが神の御旨でない結婚をする場合に、この聖句は適用されるべきでしょう。神が制定された結婚の神聖さが失われて久しくなりますが、さまざまな理由でクリスチャンが独身のままでいることも、神の御旨であることを知ることは重要です。

神が設立された結婚

聖書では「愛する」ことは、アブラハムがひとり子イサクを捧げよとの神の御命令に信仰によって従ったこと、また、神が、人類を罪から解放し、永久の生命に生きるように、ひとり子イエス・キリストを最初で最後の究極的、完璧ないけにえとして捧げてくださったことに象徴され、定義される犠牲的な献身の行為です。
キリストが教会を愛し、御言葉と真理で聖め、聖なるものとして完成させてくださるように、夫は自分自身を満たすかのように妻を犠牲的に愛し、養い、ともにキリストの教会として受け入れられるようにする役割を果たす責任があるのです。
このように結婚は、キリストと教会との一体という深遠な真理、奥義を反映した聖い関係なのです。