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Yさんの証し その1

七年に亘るYさんの闘い

もうあれから一年。
その前にもう六年以上も、Yさんの闘いは続いていた。
ほぼ一年前の2012年十月、中傷、蔑視(べっし)、いじめ、差別待遇の闘いのさなかでも、Yさんは感謝の気持ちを忘れなかった。
そのときの便りにこんなのがある。
 
母が渡辺和子さん(ノートルダム清心学園理事長で修道女)の「置かれた場所で咲きなさい」という本を送ってくれた。
そういえば以前、ラインホールド・ニーバーの「神が置いて下さった所で咲きなさい」という詩を与えられていたことを思い出した。
渡辺和子さんは、若くして重責を伴う学長に任命され、精神的葛藤にあったとき、この詩が与えられ、励まされたそうであった。

先日、学生に向けた彼女のメッセージを“YouTube”で拝見した。
その中で引用された句 ―戦後まもなく欧州に留学し、現地で劣等感に
さいなまされながら悶々と過ごしていた日本人学生が、ある朝、けなげに咲く小さな花を目にして、気持ちが吹っ切れ、詠(よ)んだ句― にとても感動した。

「小さきは 小さく咲かむ 小さくも 小さきままに 神を讃(たた)へて」
「人 見るもよし 人 見ざるもよし 我は咲くなり」

私は、今の職場で同僚たちに、「そんなに懸命にやってもだれもほめはしないし、それで一(いち)ペニーでも多く支払われるというのでもない」とよく言われる。
それでも、私は、だれが知らずとも、神さまは見ておられるのだから、神さまが見ておられるからこそ、どんなに些細(ささい)なことも誠実にやり遂げる意味があるのだと信じて、日々仕事に専念している。
主が、素敵な詩と出会わせてくださり、感謝。

2013年2月

2012年暮れに退職後、しばらく人と接するのが恐ろしくなってしまい、GP(かかりつけ医)の勧めでカウンセリングを受けることになった。二年前に受けたカウンセリングは全く効果がなかったことと、“Christian Counselling”についての注意事項を念頭に置いて、今回は自分の目標、どのように導かれることを望んでいるかをはっきりカウンセラーに伝え、また、前回効果のなかった原因を自分なりに分析した内容も、伝えた。
 
その結果、“Visualisation:Positive thinking”、―創造的視覚化(目標を達成するために用いられる、自己暗示、自己催眠を用いた信念体系の変革法)、肯定的思考―のような猫騙(ねこだま)しではなく、“Assertiveness Training”、―職場や人生での人間関係におけるストレスを緩和するため、攻撃的でも受身的でもなく自分の主張をきっぱりと表明する訓練―を今回は受けることになった。
 
その間、霊的指導者たちの聖書に則(のっと)ったメッセージを、夫とともに聞くようになったが、精神状態が少しずつ安定し始めた。
“Being Salt and Light”と“Cost of Being Salt and Light” はとりわけ、私の疑問にしっかりと光を投げかけてくれた。
 
「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません……このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:13-16)
 
「塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい」(ルカ14:34-35)
 
印象に残ったことが幾つかある。
ユダヤ教の主の例祭の‘Yom Kippur’「贖罪の日」に関するメッセージはそのひとつ。
 
「贖罪の日」は七つの「イスラエルの主の例祭」の六番目の、秋の例祭で、大祭司はこの日だけ幕屋の至聖所、(神殿の内堂)に入り、一年間のイスラエルの民と自分自身の罪の贖いのため、命がけで主の御前で、モーセの掟に従って儀式をとり行った (レビ記23:26-32)
 
また、父なる神に関して以前抱いていた偏見(主の赦しに対する甘え)も解消された。すなわち、‘Our God is ready/willing to forgive us if we repent.’ しかし、同時に ‘Never take it (God’s mercy & forgiveness) for granted, for He is our King and Judge to come back.’ 
この『絶妙なバランス 』こそ「ユダヤ人の知恵」の結晶だと思った。
そういえば、かつて、「片方のポケットに『自分はこの世のちりにすぎない』と書かれた紙を、もう片方のポケットには『この世は自分のために在る』と書かれた紙を入れて歩きなさい」というユダヤの知恵を読んだことがある。
 
「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる」(イザヤ書33:22)

2013年8月

Yさんの感謝報告
「除霊」の祈りのお陰で、薬なしでの精神的な面での改善が見られた。
今でも敵の攻撃はかなり強く、近所の女性はしばしば猛り狂う毎日であるが、キリスト者の夫とともに根気よく、悪霊からの守りを祈るようになった。
―近所に異端の宗教の霊にとりつかれた女性が住んでおり、その女性を制御している悪霊はキリストの霊に激しく反応する―
 
とはいえ、敵もさるもの、いろいろな面で揺さぶりをかけてきた。
雇用者全体を揺さ振り、士気を下げ混乱をもたらしてきた。会社の存続が危ぶまれる危機に立たされ、生き残りをかけてお互いを蹴落としあう生存競争が最悪の場合起こりかねない状態だ。
そのような事態が起きても、隣人、同僚に対する愛が冷えないように、主が私の心を守ってくださるように、と祈る。
 
もともと離職率の高い職場であったが、ここ数ヶ月、長年勤めてきた人たちの辞職、転職続きで、以前は活発であった新規雇用も今は募集を制限している。今までとは違う空気を何も知らされていない下っ端の私でも感じる毎日。
かつての勤務先が倒産したときもそうだったが、私自身は、とにかく一日一日、与えられている仕事をこなし、士気を下げぬよう心がけるつもり。しかし、何にもまして、主の御言葉を通して主に出会えたこと、主の聖霊に守られているという確信に救われたことは大きな感謝。
主の配剤を信じ、動じずに参りたい所存。
 

2013年10月

あなたは、祈っても祈っても目に見える改善が何も起こらず、むしろ、ますます悪い状態に陥っていく恐ろしい体験をされたことはありますか。
真理を憎むこの世で、キリストの従者として生きることは決してやさしいことでは
ないと、キリストは教えられましたが、確かに世界中で真のキリスト者は迫害され、患難、試練の日々を生きています。 ヨハネ15:18-25
信仰生活の中で、信仰を失ってしまいそうになる危機は何度か訪れます。しかし、困難の中にあって主の御旨から離れまいと歯を食いしばる信徒には、主が必ずご介入くださり、危機を脱出させてくださいます。試練を通して、多くの御霊(みたま)の賜物を与えられ、主イエス・キリストとの親密な交わりに生きるようになった信徒は実に多いのです。まさにパウロが語った通りです。
 
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか……しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ人8:35-37)
「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています……そればかりではなく、患難(かんなん)さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ人5:1-5)