Yさんは困難を振り返って、今、心静かに自分が歩んできた道を分析しています。その中でYさんが学んだこと、強く生きるために実践に移したことは、今現在、大変な苦しみの中にある人たちに大きな助けとなることでしょう。
Yさんの信仰の戦い
1. 私の信仰の弱さや主への不信感の赤裸々な告白を聞いてくれる人がいた。また、主にある兄弟姉妹、教会の方々の執り成しがあったからそ、今日に至ることができた。
―主イエス・キリストは信じる者の御そばにいつもいてくださり、励ましてくださいますが、生身(なまみ)の人間にとって、見える助け手、悩みを聞き、聖書に則った指針を与えてくれる人間の助け手は不可欠です。
主イエス・キリストを信じる信仰によって固く結ばれた共同体の交わりの中に置かれていること、執り成しの祈りによって支えられていることは、試練のさなかにある信徒が困難を乗り切るための大きな助け、力です―
2.そのとき、受けたのは、私の不信仰に対するとがめではなく、むしろ不満、不信感を主に素直にぶつけるようにとの勧めであった。
主の御前に、苦しみ、悲しみを訴え、唇を震わせて祈っていたハンナを見た祭司エリは、言った「『いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。ハンナは答えて言った。『いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。』エリは答えて言った。『安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。』……彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」(サムエル記第一1:14-18)
―主に心の悩みを包み隠さず訴えることは、周囲の者たちに誤解されようと、悩める者には大きな解放をもたらすのです。憐れみの主は、必ず、心の嘆きに答えてくださいます―
3.それまで私は無意識のうちに主の前で「良い子」でいようとしていたのかもしれない。実際、私に次から次へと起こったことは理不尽なことの連続であったが、そのとき、「なぜお助けくださらないのですか」と主に不満をぶつけることは主の怒りを買うことであると信じていたので、そのようなことを口に出すことは当然はばかられた。
そのため、「このことは主が決められたことなのだから」と、私は無理に自分を納得させようとしていた。
「ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。兄は答えて、『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。』彼らは言った。『あとの者です』イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです」(マタイ21:28-31)
4.旧約聖書に出てくる信仰の人々のことが思い起こされた。彼らは想像を絶するほどの艱難に見舞われ続け、それでもなお信仰を貫くことで
主に栄光を帰し、「眠りについた」(肉体の死を迎えた)のであった。彼らは常に主への祈り、すなわち、対話を通して、主に自らの正直な気持ちをぶつけて来たのであった。
そのような姿勢こそ、「主に対してどこまでも誠実であった」ということなのだと、私は悟った。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです……この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした―荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした……」(へブル人11章)と、へブル人への著者は、イエス・キリストの再臨のとき、旧約時代の聖徒たちに大きな報酬が待っていると教えた。彼らは「全うされた義人たちの霊」(へブル人12:23、強調付加)として言及されているが、究極的な完成と報酬は、メシヤの王国の到来とともに来る
5.あまりよい「たとえ」ではないかもしれないが、かつての私の主に対する態度は「のび太」が「ジャイアン」を恐れて服従するという、あの態度だったように思う。他方で、信仰の人たちと主との関係は、「のび太」と「ドラえもん」のような何でも言いあえる信頼関係に近いようだ。
「のび太」はいつも「ドラえもん」に助けてもらっているのに、時折「ドラえもん」のすることが気に入らず口論/絶交し、その挙句は決まって「のび太」がトラブルに巻き込まれる。しかし、その都度「ドラえもん」に救ってもらうというシナリオが子ども心にとても不思議であった。
何の役にも立たない「のび太」くん!
でも、「のび太」との友情は「ドラえもん」にとっては切っても切れない、かけがえの無い関係のように思える。いや、「ドラえもん」は「のび太」を放っておけなかった、というのが真相かもしれない。
「主=ジャイアンの決めたことだから」(刃向かえない、畏怖、諦念)と
「主=ドラえもんの決めたことだから」(間違いない、信頼、安心)とは
雲泥の差である!
6.今、私と主の関係は、少しずつではあるが、「のび太」と「ドラえもん」の関係に近づいているのかもしれない。
7.これから先も、私には前途多難な毎日が続くような気がしているが、
困難を通してたどりついた今の私の願いは、これからも容赦なく訪れる艱難にあって、私自身の心の中から、周りの人たちへの愛がなくなるようなことが決してないように、また、私自身、愛のある人として信仰の生涯を全うできるように、ということである。
主は言われた「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか……」(マタイ5:44-48)
このことをひき続きお祈りいただければ本望で、これが、今私が一番望んでいる私のための祈り/祝福のリクエストである。困難と戦っておられる人々に、私の体験をぜひ役立てていただきたい。
皆さまの上に、主の祝福が豊かにありますように!
心からハレルヤ!