私たちのフィリピン伝道のために主が同労者を送ってくださるようにお祈りください
11月15日
フルダミニストリーの皆さま
謹んでご挨拶します。
この二、三日というもの、私はあれこれ、考えを巡らしています。
先週末、ブラカンに住むデュマガト部族を訪ねました。嬉しいことに大部分の家族が教会活動を熱心に続けています。そのデュマガト部族の首長の家族は人数が増え、持続可能な生活を送っています。
ザンバレスのアエタ部族と比較するなら、教会活動、持続可能の生活維持という点ではザンバレスのアエタ部族はデュマガト部族に劣っています。またナブクロドのアエタ部族について言えば、彼らのうちの多くは教会活動、持続的生活という点で引き続きそれらを実行していることを神さまに感謝します。
私が思案しているのは、次のことです。
アエタ部族と一緒に農業を今後も継続する価値があるのかどうか? あるいは、いっそのこと農業をやめてしまうかどうか? 私には、彼らに食料の持続的生産について教えたい、という気持ちがあったのです。
現在、私たちの古い車は、エンジンの分解検査が必要で、まだ修理工場に入ったままです。ですからアエタ部族、デュマガト部族に行く際は公共バスを利用せざるをえず、日用品、食料、お菓子類を持っていくので、難儀しています。同労者のリクがいたときは、彼が運転、荷物の持ち運びを手伝ってくれたので大いに助かりました。しかし今や彼は故郷アブラで結婚して、彼自身の人生を歩んでいるので、現状のままが彼にとってはベストの選択だと思います。
私は今、農場を管理し、人手の必要な農作業を私とともにしてくれる助け手が与えられるように祈っています。私の兄弟たちはだれも手伝ってくれません。彼らにはそれぞれ家族がいるので仕方がないと分かってはいるのですが……
先週、アブラに食料、必需品などが入った小包を送りました。
アブラに住む世話人兼農民の父親とその息子に、太陽光パネルと電灯、おむつ、食料品を箱に入れて送りました。彼のお子さんがどういう病気にかかっているのか、私は知りませんが、その子は話せず、歩けず、自力では食べられない状態で、おそらく四肢麻痺ではないかと思われます。
今月の24日、アブラのブルギ バイ ラガヤンで初めて福音伝道集会が開催されます。そこへは2020年1月、エゼキエレと私が伝道に訪れました。
どうか神さまの救いの力、そのために天が開かれますように、お祈りください。また、神さまが私たちのフィリピン伝道のために同労者を送ってくださるようにお祈りください。
多くの愛を込めて メアリー ジェイン
あとがき
神はなぜ、お子さんが障害をもって生まれることを許されたのでしょうか?
ヨハネの福音書9章1-7節には、キリストによる癒やしを通して神の栄光が顕されたことが記されています。
キリストは、通りすがりに、一人の目の見えない人に目を留められました。
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
キリストはこのように言われた後、生まれつき目の見えなかったその人を癒やされました。
キリストが事前に宣言したお言葉、「神のわざが顕れるために、その人は障害を持って生まれた」とは、神の栄光のわざがキリストを通して顕れ、その人の身体と魂が癒やされたことをこの世の人たちが知るように、その人は神の御目的の下で生まれた、ということでした。
キリストがこの奇蹟を行われてから二千年。
祈り、執り成し、断食、哀願によって世界中の多くの人たちが、さまざまな神の奇蹟、劇的な癒やしを経験してきました。瞬時の癒やし、徐々の癒やしがそれぞれ独自に、数えきれないほど多く起こりましたが、癒やされない場合もありました。
しかし、キリストが目を留められた目の見えない人の例は、身体と魂、両方の癒やしでした。神の栄光のわざとは、究極的に人が永久の生命に生きる、魂の癒やしです。
たとえ、この世で、身体の癒やしが起こらなくても、キリストに出会うことによって魂が救われれば、神は御目的を達成され、神の栄光が顕されることになります。
幼子や知的障害のため、信仰告白できない人たちはみな、身体の死の後、御国に入ります。御国では、キリストと同じ栄光の身体が与えられ、神とともに永久に生きることになるのです。
見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(黙示録21:3-4)
死後のあなたの行く先は決まっていますか?
幼子や知的障害のお子さんとともに永久に生きるためには、あなたも御国に入る必要があります。それには、今、イエス・キリストをあなた自身の「救い主」として、受け入れる必要があるのです。
信仰の人、イスラエルの王ダビデは、断食祈祷をして七日間、神に嘆願したにもかかわらず、最愛の子が亡くなったとき、
あの子がまだ生きているときに私が断食をして泣いたのは、もしかすると主が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び寄せるだろうか。私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない
と言い、心を悲しみから、御国で我が子に再会する希望に切り替え、神を礼拝し、日常生活に戻ったのでした。