TRANSLATE

AD | all

第303号  ルカ1:67-79、エペソ人1:17-23

バチカンが披露した2020年の型破りなキリストご降誕場面の展示

メシア、―世の救い主― の間違った概念は、主の御国で永久に受け継ぐ素晴らしい栄光へと信徒を導かず、教会を、ますます拡大している全世界統一宗教へ、キリスト信仰のアップデートへと導いている…

さて、父親のザカリヤは聖霊に満たされて預言した。「ほむべきかな。イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。私たちのすべての日々において、主の御前で、敬虔に、正しく。…これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の影に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。 ルカ1:67-79

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。 エペソ人1:17-23

クリスマスの時節が巡ってくると、イエス・キリストのご降誕場面の模型が展示されたり、教会ではキャロルを歌い、降誕劇が披露され、商魂たくましいこの世ももろ手を挙げて降誕節を祝いますが、これまでは規模こそ拡大の傾向にありましたが、あくまで伝統的な場面設定、装飾、イルミネーションが主流でした。

しかし、コロナ禍で世界的な社会、経済秩序の変化、生活様式の変化がもたらされた今年2020年は恒例の風物詩、降誕劇の解釈にも現代アートを取り入れた新奇なてらいが登場しました。陶磁器生産で有名なイタリア、アブルッツィ地方の芸術家が古代ギリシャ、シュメール、エジプトの芸術を混合させて現代風に創作した彫像によるご降誕場面の公開です。

12月18日、バチカンは、現代的で型破りなキリストのご降誕場面の展示を発表し、複雑な批評が寄せられました。そこには、時代考証を全く意に介さない違和感を感じさせる宇宙飛行士の彫像をはじめ、観衆に、米国SF映画スター・ウォーズシリーズに暗闇の敵対者として登場する黒い鎧、かぶとの架空人物「ダース・ベイダー」を連想させた悪魔的ないで立ちの死刑執行人騎士を含む二十体の陶磁器像が並び、多くの批判者は、ぞっとする、忌まわしい、不名誉、困惑、あざけり等々、嫌悪感を表明しました。

2021年1月10日まで展示予定のこの催しを、ごく少数の支持者は「ポストモダン芸術」と称揚しているようですが、英国の日刊紙デイリー・テレグラフは「絶対に恐ろしい」と評し、悪魔の芸術との非難の声も上がりました。

このバチカンのご降誕場面には、背景に山や野原、草木など大自然は全くなく、並んだ彫像の背景には、ところどころ鋭く曲がった一本の白色のネオン管が走っているだけで、おそらく最小限の形象で山脈の稜線を意図したものとみなされていますが、観衆の印象のほとんどは「キリストの家族を討とうと構えている光輝く稲妻」と、喜びの降誕劇に全くそぐわない背筋が寒くなるようなコメントでした。赤子イエスの姿は、赤い絹の布で覆われていましたが、25日には覆いが取り除かれました。

異星人の存在を信じ、光学天体望遠鏡「ルシファー」で観測を続けているバチカンがこの新奇な展示で、未来を先取りして異星人をも交えた降誕劇を披露したのか、その意図は分かりませんが、『聖書』は永久に真実なので、神がご介入された人類史をそのまま反映すればよいのであって、神の意図されない、聖書とは無縁の登場人物を加えたり、今風なアップデートとかアップグレードは必要ないのです。

民数記24章には異教の預言者バラムが

ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり…

と、イスラエルのメシアのご降誕とメシアによる世界支配を預言したことが記されています。おそらく、この預言の情報を得た東方の賢者がエルサレムのヘロデ王を訪ね、祭司長たち、律法学者たちがヘブル語聖書を調べた結果、「ユダヤのベツレヘム」がご降誕の場であると知らされ、輝く星に導かれ、幼子の居住地を訪ね、黄金、乳香、没薬を献げたことがマタイの福音書に記されています。

ミカ書5:2、詩篇22篇、イザヤ書53章ほか多くの預言は、ユダヤ人のメシアの来臨が初臨と再臨の二回に及ぶことを告げており、キリストのご降誕のとき現れて賢者たちを導いた、バラムが預言した「ベツレヘムの星」も、キリストが再臨される直前に「人の子のしるし」(マタイ24:30)として再び天に現れるに違いありません。

冒頭に引用したルカの福音書1章の洗礼者ヨハネの父ザカリヤの預言には、68節

主は来られ、御民を贖われた(NIV、邦訳では定かではない)

にキリストの初臨が、78節

曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ

に再臨が預言されています。

後者、光になぞらえたメシアの来臨は、バラムのメシア預言をはじめ、イザヤ書の

闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く(9:2)、起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く…主の栄光があなたの上に現れる(60:1-2)

マラキ書4:2-5の

しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る…見よ。わたしは主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす…

にも預言されています。

二千年前、イスラエルの民が初臨のナザレ人イエスをユダヤ人のメシアとして受け入れることを拒んだため、メシアの来臨が二度に及ぶことになり、キリストの再臨によってユダヤ人の残りの者とキリスト者の残りの者、両者がついに救われ、キリストが支配される神の国に入ることになります。

旧約に替わって新約の時代が訪れたことを強調するあまり、神学のキリスト教会ではイエス・キリストがイスラエルの民への約束の成就としてお生まれになったことはほとんど語られませんが、

わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません(ルカ24:44)

とキリストご自身が言われたように、全聖書の預言を成就するために、キリストはユダヤ人の王としてエルサレムに戻って来られるのです。これが主の再臨です。

甦られた後、愛弟子ヨハネに啓示を与えられたキリストは、小アジアの七つの教会にメッセージを送られましたがその中で、迫害に苦しんでいたキリストの真の教会スミルナに宛てて

ユダヤ人だと自称しているが実はそうではない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられていることも、わたしは知っている   (黙示録2:9、下線付加)

と言われ、同じように、フィラデルフィアの教会に宛てても

嘘を言っている者たち(3:9)

による、部外者ではなく内部からの迫害に言及されました。

後世、「神を十字架上で殺したことにより、イスラエルへのすべての約束、祝福は剥奪され、すべての祝福は新約によって教会のものになった。『教会がイスラエルである』」とする神学体系が築かれることをご存じだったキリストが、警告として語られたのかもしれません。しかし、旧約で神が約束された真理が新約の時代に取り消されることは決してなく、このような改造論者の解釈はまさに、教会に忍び込んだサタンの声なのです。

聖霊によるご懐胎の12月25日がキリストの降誕日として祝われるようになった背景には複雑な成り行きがあるようです。

三世紀のカルタゴの司教キプリアヌスや四世紀のコンスタンティノープルの主教ヨハネス・クリュソストモスによると、ローマ帝国が古代ローマの太陽神崇拝の農神収穫祭が祝われた冬至を人類の救い主降誕の祝いに替える意識的な試みの結果、贈り物の交換、常緑樹の花輪、ヒイラギの果実、ヤドリギ、松かさ、ろうそく、ユール丸太の燃焼等々、ニムロデに由来するバビロンの秘義をはじめ異教の要素が次々と加えられて、聖書には記されていない祝日が生み出されたのでした。

しかし、ローマ帝国が折衷案として制定したこの祝日に対し、清教徒や一部の宗教改革支持者、人本主義者、無神論者の激しい反対にもかかわらず、今日も世界中で守られていることには神意もありそうです。クリスマスの廃止が神の敵サタンを一番喜ばせたであろうことを考えると、答えは晩年投獄されて自由な宣教活動ができなくなったときのパウロの言葉

見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます(ピリピ人1:18)

にあるかもしれません。

超自然的に第三の天にまで引き上げられ、神とともなる永遠の素晴らしさを垣間見た使徒パウロは、主の再臨で地上にもたらされる御国がどんなに素晴らしいかをエペソ人への手紙の中で

神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか…信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか…今の世だけでなく、次に来る世において…

と繰り返し語っています。聖霊に満たされ、甦りの生命に生きることがキリストを信じる者すべてに約束されているので、パウロは多くの人たちがこの栄光にあずかるようにと、福音宣教の重大さを説いたのでした。