この先何が起ころうと神を喜ぶ信仰に生きる備えのときは今
さらに厳しい飢饉、干ばつ、疫病… 戦争、市民戦争などで命ある動植物のすべてが失われるときが来ようと、神を喜ぶ信仰に生きる決意をした預言者ハバククから学ぶ…
神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる。セラ その威光は天をおおい、その賛美は地に満ちている。その輝きは光のよう。ひらめきが御手から上り、そこに御力が隠されている。疫病はその前を行き、熱病がうしろに従う。神が立ってご覧になると、地は揺るぎ、国々は震え上がる。とこしえの山は打ち砕かれ、永遠の丘は低くされる。しかし、その道筋は永遠だ。
私が見ると、クシャンの天幕は不法の下にあり、ミディアンの地の幕屋はわなないていた。
主よ、川に対して怒りを燃やされるのですか。川に対してあなたの怒りを、海に対して激しい憤りを。
確かに、あなたは馬に、あなたの救いの戦車に乗っておられます。あなたの弓は覆いを取り払われ、ことばの杖による誓いが果たされます。セラ あなたは地を裂き、いくつもの川とされます。山々はあなたを見て震え、あふれる水が押し寄せます。深い淵は声を出して、その手を高く上げます。太陽と月は、その住む所にとどまり、あなたの矢の光によって進みます。あなたのきらめく槍のひらめきによって。あなたは激しい憤りをもって地を行き巡り、怒りをもって国々を踏みつけられます。あなたは御民を救うために、油注がれた者を救うために出て来られます。あなたは悪しき者の頭を打ち砕いて首までにし、彼の家の基をあらわにされます。セラ あなたは杖で戦士たちの頭を突き刺されます。彼らは、苦しむ者をひそかに食い尽くすように、ほしいままに私を追い散らそうと荒れ狂います。あなたは馬で海を、大水の泡立ちを踏みつけられます。その音を聞いたとき、私のはらわたはわななき、唇は震えました。腐れは私の骨の内に入り、足もとはぐらつきました。攻めて来る民に臨む苦しみの日を、私は静かに待ちます。
いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。 ハバクク書3:2-19
神に忠実であり続けたいと願う「正しい人」が、悪が支配しているこの世にあっても、その背後で絶えず働いている神の義、永遠の義を現在の落胆、失望を越えて見ることができるようにとの意図のもとに書かれた『ハバクク書』の3章は、先行き不透明な疫病COVID-19に脅かされている今日の私たち、神の預言を信じ、神の劇的なご介入を信じる者たちに、信じ続けることに大きな確信を与えてくれるメッセージです。
ハバクク書の重要なメッセージ「正しい人はその信仰によって生きる」(2:4)は、使徒パウロの三つの書簡に引用されています。3章で預言者ハバククは、イスラエル史の重要な出来事、―モーセが率いた出エジプト、ヨシュアが率いたカナンの地入植、士師デボラとバラクによるキション川での大勝利と、17節では神ご自身がもたらされる天災― に言及して、危機に瀕して神のご介入を願う祈りを楽器の調べに乗せて、優れたヘブル詩で唱えています。
『詩篇』で七十一回登場する「セラ」がこの文脈でも三回登場していますが、次節に移る前に立ち止まって沈思黙考するようにと、意識的に「間」が置かれているようです。
おそらく七世紀BCEのユダ王国、ヨシヤ王の時代に生きたと思われる預言者ハバククにとってイスラエル史での神のご介入の出来事はどれも恐ろしいものばかりでしたが、今、ユダ王国は神の来臨の力を求めざるを得ない状況に置かれています。
1章にはハバククの二つの苦情、「神の民の間にも悪が満ちている。正しい者の叫びを、主よ、なぜ聞いてくださらないのですか」と「神を信じない敵をなぜ、神の民を打つために用いられるのですか」が吐露されています。
神の来臨は邪悪な者にとっては裁き、正しい者には救いですが、神の民が必ずしも皆正しい者とみなされるのではなく、神の裁きは敵にも民にも及びます。疫病の後にもさらに恐ろしい第二波の疫病「熱病」を伴って来られる神の来臨を避けることのできる者はだれもいないのです。
5節「疫病はその前を行き、熱病がうしろに従う」
は、神が御目的を達成されるまでは、たとえ先立つ「疫病、悪疫」を逃れた者たちでも、後から来る「熱病、ペスト」に倒されると解釈することができます。
神のこの世へのご介入は稲光、嵐、疫病、雷、地震…と、世界中の民を震え上がらせる恐怖を伴いますが、みな明瞭な目的があっての神の意識的な行為なのです
。
9節「あなたの弓は覆いを取り払われ、ことばの杖による誓いが果たされます。セラ あなたは地を裂き、いくつもの川とされます」は、
9節「あなたの弓は覆いを取り払われ、ことばの杖による誓いが果たされます。セラ あなたは地を裂き、いくつもの川とされます」は、
古代ヘブル語聖書の注釈によると、「神の弓が覆いから取り出され、放たれると、それは破壊のために向けられた制御できない力ではなく、御言葉に従って行動する力である。神は、選びの民への永久の真実と全創造界に対する創造者の言葉の力で働かれる。神の創造的行為の切り裂く力は、まさにかつて地を裂いて川々を造られたと同じ力である。神はそのように御旨を行われる」となり、この聖句は神の裁きには御目的と秩序があることを詩的に表現しているのです。
それにしても、「あなたは激しい憤りをもって地を行き巡り、怒りをもって国々を踏みつけられます」と表現されているように、神が憤りで大自然を、また、人だけでなく動植物をも死に至らしめる異変、大災害を次々と起こされる理由は何でしょうか。
答えは13節「御民を救うために、油注がれた者を救うために」
から明らかなように、選びの民に対し永久に真実である神は民の不義を懲らしめた後、究極的に民を聖め救われるのです。
13節の後半部は邦訳では不明瞭ですが、新国際版聖書(NIV)「あなたは邪悪な地の支配者を打ち砕き、頭から足まで裸にされました」から、11-15節の記述は、過去、おそらくイスラエルの民のカナンの地入植時に神がしてくださったことが、未来に起こることの確証として語られていることがわかります。
過去神がしてくだった驚くべきわざを思い起こすことによって未来が顕され、神の御旨に従う民には、現在の境遇が如何なるものであれ、間違いなく神の守りの中に置かれていることを確信し感謝することができるのです。今、主にある平安に満たされる信仰に生きることができるのです。
16節のハバククの決意「攻めて来る民に臨む苦しみの日を、私は静かに待ちます」には、現在の苦境の先の、悪しき者を正しく裁かれる真実な神への期待が表現されています。ハバククは1章で、神が異邦の民カルデヤ人にご自分の民を攻撃させることに対して抗議したのでしたが、人の思いをはるかに超えた神の不可思議なご介入をただ信仰によって見守ろうと決意したのでした。
たとえ、さらに厳しい飢饉、干ばつ、疫病などの自然災害や戦争、市民戦争など人災で命ある動植物のすべてが失われるときが来ようと、信仰に生きるハバククには、すべてを救いの神にある喜びとして受けとめることができたのでした。
神の民、―ヤーウェを信じ、御旨を行うイスラエル(ユダヤ人)とイエス・キリストによる救いを受け入れ、御旨を行うキリスト者― が懲らしめを経て聖められ、究極的に残りの民全員が贖われることは、旧新約聖書の一貫した預言ですが、今日の私たちの時代が人類史、人類文明の最後の世代なのです。ハバククの預言の後バビロンのエルサレム攻撃によってユダ王国が滅亡したように、ノアの大洪水以降、人類が築き上げてきた現今の文明も崩壊し、人類の唯一の王イエス・キリストの来臨によって、この世がメシア(救い主)の御国に変えられるときが来ます。人類史に一瞬のうちに、これまでとは気象的にも物理的にも、また何よりも、霊的に全く異なった時代、神ご自身による支配が始まるときが非常に近づいているのです。
預言者ゼカリヤが
私の神、主が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る。その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海(死海)に、残りの半分は西の海(地中海)に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。主は地のすべてを治める王となられる。その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。(ゼカリヤ書14:5-9、補足付加)
と幻想的に美しく描いたメシアの時代の到来です。私たちがさしかかっているこの終末末期は、まさにハバククが決意したような生き方が信じる者に要求されている厳しい時代、艱難の時代です。
2020年の幕開けとともに始まったCOVID-19は、究極的に神に属するものだけが残され聖められるために神が全世界に送られた疫病の第一波で、世界中の医療、介護従事者、医科学研究者の犠牲的尽力にもかかわらず、被造物にすぎない人にとって、感染回避能力の限界を認めざるを得ない状態が続いています。
だれが軽症から快復し、だれが重症から死に至るのかを学識によっても統計学的にも経験的にも予測することはできず、まさに、申命記32:39、サムエル記第一2:6、マタイ10:29他に明確に記されている聖書の原則「人の生命は父なる神の御手にあり、だれでも父の定めのときまで生かされる」に則り、自らを神の御手に委ねる以外に未来はおろか、現在をも知るすべはないのです。
この二、三年間、地震、津波、火山噴火、森林火災、疫病等々の頻度、強度が全世界で急増し、人知を尽くしても天災に不可抗力であることをだれしも認めざるを得なくなっているはずですが、危機打開に向けての人々の関心は異星人探査に向けられても、天地万物を司り、すべての源である創造者なる神に立ち返ろう、依存しようとの思いには至らないようです。
神の民であっても人は「罪人」として生まれ、その生まれつきの性質は悪で、国家の法に触れる罪を犯す、犯さないにかかわらず、人は神の御前に皆同罪です。神の律法によって罪を示され、悔い改めなければ、神を認めない罪の生涯を送ることになります。
しかし、人には生まれつき善悪を判断する良心が与えられており、神の掟を知らなくてもこの世の基準に従って、少なくとも外的には正しく生きることはできます。神の契約の民イスラエルは、モーセの律法『旧約』を守ることによって外的には正しいとみなされましたが、律法は心の中の罪までは裁くことができなかったので、人が全人類の父祖の堕落前の状態に贖われ、神の家族に戻されるには、神への反逆の根源、内住の罪の問題を解消するための神の手段、メシアの来臨が必要だったのでした。
イエス・キリストはこのため「救い主」として地に来られ、人に宗教行為、働きによってではなく、死に至るまでひたすら信じ続ける信仰によって救われる『新約』をもたらしてくださったのです。