聖書の語る真のキリスト者とは?
聖書は、「私はかつてクリスチャンであったが今は…」 と語る人をキリスト者とはみなしていません。キリストを「救い主」として受け入れ、信仰告白した者は、とこしえにキリストの守りの中にあり、今も、引き続き、真のキリスト者なのです。愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。ヨハネ第一4:1-6
神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、世全体は悪者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。ヨハネ第一5:18-21
偽預言者、偽教師、反キリストが真のキリスト者でないことは聖書から明らかですが、キリストの共同体の中で、彼らを見分けることは必ずしも容易ではないようです。そのため、今日に至るまで、教会の中にすでに多くの異端的教えが加えられてきました。昨今では、伝統的な原始キリスト信仰、すなわち、一世紀のキリストと使徒たちの教えを書き換える異端的な混入が見られるようです。冒頭に挙げたような警告が聖書の至るところに記されていること自体、キリストが再臨されるまでの「教会の時代」、多くの人たちがだまされることを暗示しています。
多くの人たちがだまされる大きな要因として、そのような教えや預言を持ち込む霊的指導者たちがみな、神が自分に特別に明かされたことを、神の代理人として、神の民のために語るのだと豪語し、多くの人たちが、彼らの知名度、影響力、わざ、奇蹟がゆえに、彼らの教えや現象を盲目的に受け入れることが指摘できます。終末の末期のこの時代、中東や異宗教圏でのキリスト者に対する迫害に心を痛め、主の速やかなご介入を求め、執り成しの祈りをささげている主にある兄弟姉妹は多いのですが、霊的欺瞞に冒され、聖書に基づいた信仰が失われているキリスト教会の状態に心を痛めている兄弟姉妹は多くはないようです。
主にカリスマ派、ペンテコステ派の指導者たちによってもたらされた新奇な教えの中に、神からの伝言の受け方には二通りあり、聖書で情報の受け取り方の違いが「ロゴス」と「リーマ」という二つのギリシャ語で表現されている、という見解があります。彼らは、前者が書き記された神の言葉であれば、後者は神が語られる言葉であるとして、今日も神が彼らに語られる言葉「リーマ」は、聖書に書かれている言葉「ロゴス」と同等か、それ以上の権威ある言葉であるとして、彼らの主張を発展させます。実際には聖書では、これら二語は交互に使用されており、全く違いはないので、彼らの主張には聖書的裏づけはないのです。
「リーマ」を主張する指導者たちは、すでに聖書に記されていることに照らして吟味することなく、神が自分たちの心に印象づけられた(と思い込んだ)ことを信じ、神の権威ある言葉として広めていますが、感情、主観を優先させるこのような教えは、危険です。四世紀半ばまでに正典とされた旧新約両聖書は、すでに完成された、源が神にある啓示の書で、後世、神の新しい啓示として新奇、主観的な言葉を加える余地は全くないのです。
たとえば、イスラム教ではイエス・キリストを「予言者」として認めていますが、キリストよりもはるか後世、七世紀に現れた予言者ムハンマドを、アラーの神の最高の予言者で、最新「アップデイト」な予言をもたらした、キリストにまさる予言者であると主張します。しかし、果たしてこの主張は正しいでしょうか。なるほど、移り行くこの世の事象には、「アップデイト」は最重要かもしれませんが、真理には適用できないのです。聖書が主張しているように、神の言葉が真理、―神の不変の教え、ご計画― であることを確信している者にとっては、当世風の「アップデイト」ということはないのです。
今日、神の言葉を聞いたと主張する人たちは臆面もなく「主は仰せられます」と宣言し預言を語りますが、これらの教えを信奉するグループ自体がすでにだまされた状態に置かれているようです。何よりも、そのような教えが聖書の普遍的、客観的性質を損なうことを憂慮しなければなりません。すなわち、神の言葉が彼らが神から聞いたと信じたものと混ぜられることにより、何を神が本当に語っておられるのか、客観的に見分けることが難しくなります。
まさに「アップデイト」な偽預言者の言葉が、人々の関心を買うようになると、聖書に記されている神の言葉がむしばまれ、ゆがめられていくことになります。聖書の歴史的背景、文法的考察、文学形式、文脈、全聖書を通しての驚くべき一貫性は無視され、偽預言者、偽教師たちの期待する筋書きに沿った、非常に主観的な解釈、願望が、神ご自身が語られたメッセージに置き換えられていくのです。このようにして聖書は、偽預言者、偽教師が望むままに解釈されていくことになります。
聖書の基本的な解釈学を無視した、神の霊感によって受けたと自称する影響力ある指導者が、「リーマ」を神からの預言的メッセージとして、望むように語っていくとき、人々は惑わされ、聖書が語っていない間違った結論に導かれます。その結果、当然のように生み出される正道をはずれた教えと非聖書的な慣習は、純粋なキリスト信仰を教会内部から揺さぶり、多くを背信へと導いていくことになります。
ある自称女預言者は、キリストから直接受けたと称する言葉の中で、「神のことば(聖書)だけでは、もう昨日のマナなのです。預言の教師たちですら、わたしの民を養うには、もはやそれだけでは不十分であることを心の奥深くに感じているのです」と記しています( ‘Journal of the Unknown Prophet: A visitation of Jesus Christ’ by Wendy Alec)が、このような聖書の権威を損なうようなメッセージをキリストが語られるということはあり得ないことで、このような異端的なメッセージは「神から出たものではなく、反キリストの霊による」と、判断することができるのです。
このようなメッセージに直面するとき、私たちが思い起こさなければならないのは、キリストご自身の御言葉
ヨハネは、『ヨハネの手紙第一』の別のくだり2:18-19で、
キリスト者は、キリストを受け入れ、信仰告白したときから人生の最後まで、真のキリスト者、―永遠の生命に至るキリストの群れ― であり続けることができます。それは、キリストご自身の明確な声明
したがって、真のキリスト者と自称クリスチャンの違いを聖書が明確に語っていることを知ることは大切です。教会誕生以降二千年間、多くの反キリストが、キリストの群れを共同体の内部から揺さぶってきました。そのため、教会には「真理の霊」に促されて信仰生活を歩んでいる群れと、「偽りの霊」にたぶらかされて歩んでいる群れとが共存しているのです。真のキリスト者とは、自らの救いのために、キリストにだけ依存している者で、聖書が語っている「罪」、「罪の報酬と神の赦し」、「キリストの出自に関する正しい知識」、「キリストが私たちのために何をしてくださったのか」、「キリストの十字架と私たちの罪との関係」を理解している者です。
真のキリスト者にとってキリストは、自分を「罪」から救うことのできるただ一人の「救い主」です。救われた者は当然、それまでの自分中心の生き方からキリストと周りの人たち中心の生き方に変えられることになります。パウロはこのことを
キリストに出会って変えられた人生がキリスト者の信仰の歩みで、永遠の生命に至るまでのこの世での歩みは、御霊の働きによって「キリストに似た者となる」べく、日々変えられていきます。パウロは、冒頭に引用したヨハネと同じく、真のキリスト者の歩みが、明らかにこの世の悪から隔てられた異彩を放つものであることを明確に教えています。
キリストだけが自分を罪から救ってくださる神であることを信じ、キリストを「救い主」として受け入れた者が主を否定することはあり得ず、むしろ救われた感動、喜びから、聖書に顕された神の真理、キリストの教えを伝播する御言葉の担い手に変えられていくはずだからです。
多くの人たちがだまされる大きな要因として、そのような教えや預言を持ち込む霊的指導者たちがみな、神が自分に特別に明かされたことを、神の代理人として、神の民のために語るのだと豪語し、多くの人たちが、彼らの知名度、影響力、わざ、奇蹟がゆえに、彼らの教えや現象を盲目的に受け入れることが指摘できます。終末の末期のこの時代、中東や異宗教圏でのキリスト者に対する迫害に心を痛め、主の速やかなご介入を求め、執り成しの祈りをささげている主にある兄弟姉妹は多いのですが、霊的欺瞞に冒され、聖書に基づいた信仰が失われているキリスト教会の状態に心を痛めている兄弟姉妹は多くはないようです。
主にカリスマ派、ペンテコステ派の指導者たちによってもたらされた新奇な教えの中に、神からの伝言の受け方には二通りあり、聖書で情報の受け取り方の違いが「ロゴス」と「リーマ」という二つのギリシャ語で表現されている、という見解があります。彼らは、前者が書き記された神の言葉であれば、後者は神が語られる言葉であるとして、今日も神が彼らに語られる言葉「リーマ」は、聖書に書かれている言葉「ロゴス」と同等か、それ以上の権威ある言葉であるとして、彼らの主張を発展させます。実際には聖書では、これら二語は交互に使用されており、全く違いはないので、彼らの主張には聖書的裏づけはないのです。
「リーマ」を主張する指導者たちは、すでに聖書に記されていることに照らして吟味することなく、神が自分たちの心に印象づけられた(と思い込んだ)ことを信じ、神の権威ある言葉として広めていますが、感情、主観を優先させるこのような教えは、危険です。四世紀半ばまでに正典とされた旧新約両聖書は、すでに完成された、源が神にある啓示の書で、後世、神の新しい啓示として新奇、主観的な言葉を加える余地は全くないのです。
たとえば、イスラム教ではイエス・キリストを「予言者」として認めていますが、キリストよりもはるか後世、七世紀に現れた予言者ムハンマドを、アラーの神の最高の予言者で、最新「アップデイト」な予言をもたらした、キリストにまさる予言者であると主張します。しかし、果たしてこの主張は正しいでしょうか。なるほど、移り行くこの世の事象には、「アップデイト」は最重要かもしれませんが、真理には適用できないのです。聖書が主張しているように、神の言葉が真理、―神の不変の教え、ご計画― であることを確信している者にとっては、当世風の「アップデイト」ということはないのです。
今日、神の言葉を聞いたと主張する人たちは臆面もなく「主は仰せられます」と宣言し預言を語りますが、これらの教えを信奉するグループ自体がすでにだまされた状態に置かれているようです。何よりも、そのような教えが聖書の普遍的、客観的性質を損なうことを憂慮しなければなりません。すなわち、神の言葉が彼らが神から聞いたと信じたものと混ぜられることにより、何を神が本当に語っておられるのか、客観的に見分けることが難しくなります。
まさに「アップデイト」な偽預言者の言葉が、人々の関心を買うようになると、聖書に記されている神の言葉がむしばまれ、ゆがめられていくことになります。聖書の歴史的背景、文法的考察、文学形式、文脈、全聖書を通しての驚くべき一貫性は無視され、偽預言者、偽教師たちの期待する筋書きに沿った、非常に主観的な解釈、願望が、神ご自身が語られたメッセージに置き換えられていくのです。このようにして聖書は、偽預言者、偽教師が望むままに解釈されていくことになります。
聖書の基本的な解釈学を無視した、神の霊感によって受けたと自称する影響力ある指導者が、「リーマ」を神からの預言的メッセージとして、望むように語っていくとき、人々は惑わされ、聖書が語っていない間違った結論に導かれます。その結果、当然のように生み出される正道をはずれた教えと非聖書的な慣習は、純粋なキリスト信仰を教会内部から揺さぶり、多くを背信へと導いていくことになります。
ある自称女預言者は、キリストから直接受けたと称する言葉の中で、「神のことば(聖書)だけでは、もう昨日のマナなのです。預言の教師たちですら、わたしの民を養うには、もはやそれだけでは不十分であることを心の奥深くに感じているのです」と記しています( ‘Journal of the Unknown Prophet: A visitation of Jesus Christ’ by Wendy Alec)が、このような聖書の権威を損なうようなメッセージをキリストが語られるということはあり得ないことで、このような異端的なメッセージは「神から出たものではなく、反キリストの霊による」と、判断することができるのです。
このようなメッセージに直面するとき、私たちが思い起こさなければならないのは、キリストご自身の御言葉
「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(マルコ13:31)で、この永久の真理の御言葉に照らして、聖書教師や霊的指導者の語っていることを吟味するなら、惑わされることはないのです。にもかかわらず、このような類の本やメッセージは人気があり、人々の嗜好に合っていようです。
ヨハネは、『ヨハネの手紙第一』の別のくだり2:18-19で、
「小さい者たちよ。今は終りの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです」(下線付加)と語っています。この声明は重大な真理を語っています。それは、この声明が、「私はかつてクリスチャンであったが今は…」という曖昧な表明があり得ないことを明確にしているからです。
キリスト者は、キリストを受け入れ、信仰告白したときから人生の最後まで、真のキリスト者、―永遠の生命に至るキリストの群れ― であり続けることができます。それは、キリストご自身の明確な声明
「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとり終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。』」(ヨハネ6:39-40、下線付加)で、約束されていることだからです。
したがって、真のキリスト者と自称クリスチャンの違いを聖書が明確に語っていることを知ることは大切です。教会誕生以降二千年間、多くの反キリストが、キリストの群れを共同体の内部から揺さぶってきました。そのため、教会には「真理の霊」に促されて信仰生活を歩んでいる群れと、「偽りの霊」にたぶらかされて歩んでいる群れとが共存しているのです。真のキリスト者とは、自らの救いのために、キリストにだけ依存している者で、聖書が語っている「罪」、「罪の報酬と神の赦し」、「キリストの出自に関する正しい知識」、「キリストが私たちのために何をしてくださったのか」、「キリストの十字架と私たちの罪との関係」を理解している者です。
真のキリスト者にとってキリストは、自分を「罪」から救うことのできるただ一人の「救い主」です。救われた者は当然、それまでの自分中心の生き方からキリストと周りの人たち中心の生き方に変えられることになります。パウロはこのことを
「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(コリント人第二5:15-17、下線付加)と教えています。
キリストに出会って変えられた人生がキリスト者の信仰の歩みで、永遠の生命に至るまでのこの世での歩みは、御霊の働きによって「キリストに似た者となる」べく、日々変えられていきます。パウロは、冒頭に引用したヨハネと同じく、真のキリスト者の歩みが、明らかにこの世の悪から隔てられた異彩を放つものであることを明確に教えています。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(コリント人第二3:18)。このように、聖書は、キリストの群れとみなされるキリスト者に、「かつてクリスチャンであったが今はわが道を行く者」や、聖書の権威を損ない、感情的、主観的に聖書を解釈する「自称クリスチャン」を含んでいないことを明らかにしています。
キリストだけが自分を罪から救ってくださる神であることを信じ、キリストを「救い主」として受け入れた者が主を否定することはあり得ず、むしろ救われた感動、喜びから、聖書に顕された神の真理、キリストの教えを伝播する御言葉の担い手に変えられていくはずだからです。