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第221号 ルカの福音書16:19-31:

聖書が語る地獄の五つの特長

― 聖書の中で、地獄についての情報源のほとんどはキリストご自身―

ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによって、アブラハムのふところに連れていかれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら、目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかもそのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみ悶えているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです……もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」    
ルカの福音書16:19-31
  

聖書の中で、地獄についての情報の主な出所はキリストご自身の教えです。ヘブル語(旧約)聖書の執念深い怒りの神ヤーウェと新約聖書の憐れみ深い赦しの神キリスト、愛の福音を説いたキリストと律法を重視する批判的なパウロというような間違った概念で、対比させて聖書を解釈していた人たちには、このことは意外な情報に違いありません。
実際、古来、「地獄への引用文は初代教会の考えを反映しているかもしれないが、キリストの教えではない。それゆえ、福音書の記録は不正確である」とか、「キリストは霊的な原則を伝えるために、当時の考えを用いられたにすぎない。たとえば、金持ちとラザロのたとえは、聴衆の思考体系を利用しただけで、死後の生命についてのキリストご自身の信念を反映しているものではない」とか、「地獄の脅威をキリストが用いられたのは聴衆に刺激を与えるためで、そのような脅しがよもや実行されることはないことを、キリストご自身知っておられた」というようなキリストの警告を見くびる解釈がなされてきました。
キリストの愛や救い、天の御国に関する教えにはこのような異論はないのに、地獄に関しては文字通り受け止めることを避け、拒絶反応を示す人たちが多いようです。しかし、真理を語られただけでなくご自身が真理であると主張され、また、
ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している (ヨハネ8:28)
と言われたキリストの教えは、偽りでなければすべて真理で、神ご自身のメッセージということになります。
 
地獄に関しては他のどの書よりも、神の民ユダヤ人に向けて語られたマタイの福音書に不釣り合いに多く、また、キリスト昇天後の信徒たちへのメッセージであるヨハネの黙示録に多く記されていることから、キリストがだれに向けて地獄を語られたかが明らかです。キリストは地獄について毒々しく、長々と詳細に語られず、控えめに言及されただけでしたが、失われた生命のごみ捨て場、エルサレム南西の陽の当たらない、焼却の過熱と悪臭におおわれた深い峡谷「ヒノムの谷」への類比で語られた‘ゲヘナ(地獄)’という用語は、聴衆に効果的に恐怖を植えつけたに違いありません。
 
聖書が語る地獄の特性は次の五つに集約することができます。
1. 物理的、肉体的に不快な場所:地獄は霊の行く先ではなく、身体の行く先で、実在の場所。高温、渇き、
不快臭―多くの悪臭の基本的成分、硫黄は特に、腐食、腐敗に関係深い―、真っ暗闇に特徴づけられる
2.精神的抑圧の場所:キリストが頻繁に用いられた表現「泣き叫んだり、歯ぎしりしたりする」は、非常に異なった二つの感情、悲しみと怒りとを一つにした悶え、失望の状態に追いやられた自己中心的な苦悩を描いており、記憶が存続する場であることを明らかにしている
3.道徳的堕落の場所:仮面がはがされ、実際の自己がむき出しになる場所。パウロは人が神を拒絶、放棄するとき、神はそれに応え人を放棄され、ご自分の守りから外されるので、その結果は、人の隠れていた弱さの露呈であることを明らかにしている(ローマ人1:24-32)。地獄はまさにこの過程の完成の場、神からの永遠の隔離、「外」への締め出しである
4.社会的退廃の場所:混んでいる地獄で群衆の中にいながら、絶望的に孤独な状態は、冒頭に挙げたたとえの中の金持ちや、
神の国にアブラハムやイサクやヤコブが入っているのに、あなたがたは外に投げ出される(ルカ13:28)
という神の家族からの締め出しの表現から窺える。実存主義者サルトルは「地獄は他人である」と言ったが、聖書は、自己中心的な自分と永久に生きる過酷さを訴えているようである
5.霊的な死の場所:身体、霊、魂で構成されている「人」の通常の死は肉体の滅びで、「第一の死」と呼ばれているが、霊魂は創り主に戻る。しかし、肉体の滅びの後「黄泉」に下っていた霊魂に不死の身体が与えられた後、神の「大きな白い御座」(ヨハネの黙示録20:11-15)の前で最後の審判、判決が言い渡され、神から究極的に隔離される状態は霊魂の死滅で、「第二の死」と呼ばれ、その受け入れ場所は地獄である。神との接触が完全に失われるとき、神の御姿に似せて造られた「人」も完全に消失する。地獄では「人」の本質は崩壊し、神の不在は、すべての悪の根源であるサタンの存在による恐怖で埋め合わせられることになる。

このような数知れないほど多いサタンの使い、悪霊のみだらな考え、言動に象徴される悪徳に満ちた場所に永遠に住むことになる者たちをキリストは、のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」(マタイ25:41、下線付加)と言われたのであった。四福音書とヨハネの黙示録に極めて頻繁に登場するギリシャ語「責め苦」―たとえば、「火と硫黄とで苦しめられる」(黙示録14:10、下線付加―は、「拷問」と同じ類の言葉で、肉体的であれ、精神的であれ、意識ある苦痛を意味する。


ちまたで信じられている地獄について、二つの神話が指摘できます。一つは、その場所がすでに存在しているかのように語られていることと、もう一つは、すでに住人がいるとみなされていることです。「天の御国」同様、地獄は用意され、究極的に存在することになるもので、両者とも最初の創造の一部ではなく、したがって、神が必要とされるときに存在することになるのです。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります……あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」(ヨハネ14:2)とキリストが弟子たちに約束された信徒たちの行く先が「天の御国」であれば、黙示録に登場する「獣」―反キリスト―と「にせ預言者」が最初の住人となる「硫黄の燃えている火の池」(黙示録19:20)が地獄です。
しかし、サタン、堕天使、悪霊どもがまだ地獄の住人でないのであれば、これらの生き物はどこにいるのでしょうか。パウロはサタンを「空中の権威を持つ支配者」(エペソ人2:2、下線付加)と呼び、キリスト信徒の格闘が「血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するもの」(6:32、下線付加)であると教え、ペテロは、キリストの実弟ユダとともに、「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました」(ペテロ第二2:4)という情報を残しています。すなわち、これら神に反逆する生き物は終末の末期、イスラエルの守護天使ミカエルによって天から地に落とされ行動領域が制限されるまでは、惑星に至る地の上空と地の回りを自由に徘徊しているのです。
しかし、ノアの時代に大きな罪を犯した御使い―サタンの手下の堕天使の一部― は究極的に地獄に引き渡される「裁きの日」まで今、「暗やみの穴の中」‘アビス’に閉じ込められているのです。

へブル人の手紙の著者は「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル人9:27)ことを明確にしていますが、これを人の霊の状態で表わすと、三つの位相に分けることができます。(1)「肉体を伴った霊」:人の誕生から死まで(地上、この世)(2)「肉体から離れた霊」:死から復活まで(「パラダイス」か「黄泉」、最終目的地に至る待合所)(3)「新しい身体を伴った霊」:復活から永遠(「天の御国」か「地獄」、来るべき世)。すなわち、「さばきを受ける」のは、新しい身体が与えられた(3)の状態においてで、死後直後の(2)の状態ではないのです。
現時点では、甦られたイエス・キリスト以外に(3)を経験している人はだれもおらず、聖書では、人に定められた摂理の(2)の中間的な状態と(3)の究極的な状態とは区別されています。

人に死が訪れると、肉体は急速な火葬か徐々に進行する腐敗によって地上の源泉に戻り、霊(霊と魂)は天上の神のもとに帰ります。
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る(箴言12:7
明らかなように、肉体の死は人の意識ある存在の終わりではなく、身体がなくても意識ある霊は存続するのです。これは、ちまたで幽霊としてその存在が目撃されている「悪霊」の状態から知ることができるかもしれません。人の霊は信者であれ未信者であれ、(2)の位相では、神の管理下に行きますから、この世の人と死人の霊が交信したり接触する現象は起こり得ません。もしそのような現象に関わっている人たちがいれば、身体がなく霊の状態の生き物、悪霊にたぶらかされているのです。
聖書では死者との交信が悪霊に門戸を開くことになるので、そのような試みを厳しく禁じています。他方で、このことが禁じられているということは、それが可能であること、(2)の位相の人には意識があることを示唆しているのです。
冒頭に引用したのは、人の死後の存在を描写している唯一のたとえですが、この話には幾つかの飛躍があり、その一つは、描写が「黄泉」(ヘブル語聖書では‘シェオル’、新約聖書では‘ハデス’)か「地獄」か定かでないということです。金持ちは死後直ちに責め苦の炎の中にいるようで、実際、「指先を水に浸して私の舌を冷やす」という表現は身体の存在をほのめかし、悶えと憤りの失望状態にあるまさに地獄の描写なのに、キリストは「ハデス」として語っておられるのです。

キリストはあたかも、この世で神を拒絶し黄泉に下った者の苦しみが、(3)の位相、審判に至る前に始まり、それ以降は一層ひどくなることをこの特異な描写で訴えようとされたかのようです。ここでは「黄泉」は中間状態ではなく、神の御旨に逆らった人の死後の存在に対する一般用語になっており、言い換えれば、裁判の前の拘留、(2)の位相がただぼんやりとした執行猶予期間ではなく、すでに地獄に至る苦痛が始まっていることを、人生の三つの位相を二つの位相に圧縮した「預言的遠近法」で描かれたものでした。

ご自分の行く先に関心を持たれた方は、『一人で学べるキリストの啓示:ヨハネの黙示録の預言』p.9の図表「あなたはどこにいますか?」で、向かっている先を確かめてください。