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第215号 マルコの福音書5:1-20:

クリスチャンの中には、霊界の生き物、サタンとか悪霊、また神の御使いをも神話化して、実在の生き物とみなさない人たちがたくさんいますが……キリストのサタンや悪霊との対決は心象現象では決してなく、歴然とした実体との対決でした

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こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
ところで、この山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖になだれ落ちて、湖におぼれてしまった。豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」そこで、彼は立ち上がり、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。
マルコの福音書5:1-20

聖書の語る「死」とは

悪霊につかれていた人のキリストの権威あるお言葉による劇的な解放のこの話しは共観福音書のすべてに載せられており、このとき癒された人の数がマタイの福音書では二人という相違を除けば、内容はほとんど同じで、ガリラヤ湖東岸の異邦人の住んでいた十の町から成る「デカポリス」地方で起こった同じ出来事を伝えたものとみなしてよいようです。マルコの福音書では、続く6章の終りに、この地方の多くの人々がキリストを大歓迎で迎え入れたという、この癒された人の宣教の大きな成果を記録しており、二千頭もの豚を一瞬のうちに失ったこの地の人々のキリストに対する即座の反応、―反感をにおわせる「この地方から離れてくださ(い)」― がほんの一時的なものであったことを明らかにしています。クリスチャンの中には、霊界の生き物、サタンとか悪霊、また神の御使いをも神話化して、実在の生き物とみなさない人たちがたくさんいますが、もしそうであれば、新約聖書には、空想上のサタンや悪霊を相手にしたキリストの話や勧告が実に多く語られていることになるのです。しかし、聖書を文字通り神の御言葉と捉えるなら、キリストの対決は心象現象では決してなく、歴然とした実体との対決であったということになります。

モーセの掟では儀礼的に「汚れた動物」として禁じられていた豚が飼われていたこのゲラサ人の地は、ローマ帝国のペレア州の首都ガダラで、ガリラヤ湖畔南東部の山の頂上にありました。ガダラの遺跡といえば、町の崖という崖に点在した墓場で、この「汚れた霊につかれた人」のように、住民はまさに墓場の中に住んでいたも同然で、無防備の旅人にとっては極めて危険な一帯でした。墓場、すなわち「死人」の間に住んでいたこの「生きた人」がこの世の人からも隔離された存在であったという描写は、神を知らずサタンに支配されて生きている人が神の目には「死人」と呼ばれる状態であることを象徴しているかのようです。キリストが出会ったこの人がだれの目から見ても、自分を制御できない状態にあったということは、この人が現実に、サタン、悪霊の破壊的な力に支配され、長年苦しめられていたことを物語っていますが、使徒ペテロは、真の神を受け入れない者の人生はすべて、外見的にはそのように見えなくても、サタンの支配下に置かれ、神の裁きの対象になっていることを教えています。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ人2:1-3、下線付加)。「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」とは言うまでもなく、世俗の世の支配者サタンのことです。

聖書が語る「死」は、神との分離です。人は神から身体、魂、霊を授けられ「生き物」となりました。人は死が訪れると、その構成体である「身体」と「霊魂」が分離し、神を信じた人はその霊魂が、源である神の御許に帰ります。すなわち、死後、栄光の甦りの身体、―キリストの甦り後の新しい「からだ」と同じ永遠に生きる身体― が与えられるまでの間、一時的に天の「パラダイス」に置かれます。他方で、神を信じなかった人の場合、死後、肉体を失った霊魂は神から分離され、神不在の場「ハデス(よみ)」に下り、最後の審判の日を待ちます。神の「大きな白い御座」の前での裁きの日、人類史に生きたすべての人は、各々が肉の身体で行ったすべての言動に対して、審判者なる神の御前で裁かれ、最終的な行く先が決定されます。そのとき、そこに「着座しておられる方」は言うまでもなく、人類の贖い主イエス・キリストです(黙示録20:11-15)。

神の救いを妨害し、人を神から遠ざけ、滅ぼすことを目的としているサタン、この人を支配していた「霊」が、キリストが人類の救い主であることを知っており、神の預言を信じ、審判の日を非常に恐れていたということは、人は神に対する恐れと知識によって救われるのではなく、公の信仰告白と信仰を実証する言動、神に対する姿勢によってであることを明らかにしています。このことをキリストの実弟ヤコブは「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか」(ヤコブ2:19-20)と語りました。自らの人生をサタンや悪霊のなすがままにさせているかぎり、その人は神に敵対しているのであり、この世はそのようなサタンや人の罪が引き起こした諸問題、霊の世界のことに対処することはできません。

冒頭に引用したくだりから、悪霊が、宿る身体を必要としている生き物であること、人の意志とは無関係に人や動物にのり移ることができ、とりついた身体を発狂させることができることが分かります。「コックリさん」と呼ばれているウィジャボード、星占い、頭の中を空にする瞑想、霊体離脱などオカルトに手を出し、悪霊の世界への関心を持っている者はみな、悪霊のエントリーに門戸を開いていることになりますから、いつサタンの罠に落ちても不思議ではない非常に無防備な状態にあります。パウロは、キリストによって救われたこの人の場合のように、数えきれないほど多くの悪霊にとりつかれた最悪な状態にある人に対してもまだキリストの救いの御手が伸ばされていることを、「それで悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるのです」(テモテ第二2:26)と語り、神が、悔い改めさせ真理を知らせるための手段としてサタンを用い、そのような荒療治をも許されることを教えています。

このくだりで、主権者なるキリストが「汚れた霊ども」すなわち、悪霊どもが恐れ恐れ願いでた「豚」へのエントリーをなぜ許されたかに、疑問を持たれた方がおられるかもしれません。異邦人の町では豚は大切な糧食でしたからこれらの豚の死がこの町に多大な損害を生ぜしめることを知っておられながら、なぜ、悪霊の願望を優先し、このような無謀なことを許されたのでしょうか。キリストは、不信仰なこの世に、悪霊の存在が実在であることをだれの目にも明らかな現象として提示するために、この途方もない豚の集団が崖から湖になだれ落ち、溺死するという出来事が起こることを許されたのでした。それはまさに、人への悪霊の実際の関わりを一笑に付して取りあわない人たちへの警告でした。悪霊に支配され、凶暴になり、この世からは精神病ということで隔離されていたこの人が、キリストの権威あるお言葉によって解放され、正気に戻ったとき、霊の世界で創造以来続いているサタンの神への挑戦「反逆」を知らないこの世は、ただ恐怖で沈黙したのでした。

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハネ10:11)と言われ、救われる価値のない一人の罪人を救うためにご自分の尊い生命を捨ててくださったキリストによる、一人の精神病者の救いは、ここで、この世の財産である家畜を優先した人々と大きく対照させられています。町の人々は奇蹟的な癒しを起こされたキリストに、異口同音に町から立ち去るようにと、願ったのでした。キリストはここでも、この世の声を聞き入れ、静かに立ち去られましたが、その癒された人に、宣教命令を託されました。おそらく、マタイの福音書で解放された二人のうち一人が、マルコやルカが焦点を当てているように、このようにキリストに応答し、もう一人は癒されてもキリストを受け入れず、神の愛に応えなかったのかもしれません。しかし、冒頭で触れましたが、この一人の罪人の救いは、異邦人町をキリストを信じる町に変えたのでした。

  今月号では、今日起こっている悪霊との関わりの実例を十分に挙げるスペースがありませんでしたが、自己改善、自己啓発のために、霊の世界で自由にコミュニケーションすることを理想化し、瞑想、自己催眠、霊体離脱、交霊術のような霊的体験を通して、悪霊の世界にどんどん深入りしていくケースが多いことをまず警告しておきたいと思います。東洋神秘主義やニューエイジに代表される霊性復興運動などでは推奨されているこれらの手段はどれも、聖書が禁じているサタン、悪霊との関わり以外の何ものでもなく、キリストの権威、神の権威によって除霊されなければならないものです。英語に「カエルは冷血動物なので、なべの水をゆっくり過熱しても気がつかず、ついにはゆで上がって死ぬ」という類比がありますが、一見神の言葉に反していないように見える、さして重大でもないように見えることに関わることを通して、その人生に悪霊が深く入りこみ、ついには、生きている死人と化すということを描写しているようで、クリスチャンにとって要注意です。

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