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第216号 列王記第一3:16-27:

ソロモンの知恵

―「二人の遊女への判決」に反映された神の国の掟―
ソロモン、「生きている子ども」を、神の国の原則に生きる女の手に託した
神の御前に「生きている人」、―神を信じ恐れる者―は、このソロモンよりもまさった方、イエス・キリストの御手に委ねられており、動乱のこの世にあっても真の平安を得ることができる

  そのころ、ふたりの遊女が王のところに来て、その前に立った。ひとりの女が言った。「わが君。私とこの女とは同じ家に住んでおります。私はこの女といっしょに家にいるとき子どもを産みました。ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。この女は夜中に起きて、はしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って、自分のふところに抱いて寝かせ、自分の死んだ子を私のふところに寝かせたのです。朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きてみると、どうでしょう。子どもは死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、まあ、その子は私が産んだ子ではないのです。」すると、もうひとりの女が言った。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子です。」先の女は言った「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」こうして、女たちは王の前で言い合った。
  そこで……王は、「剣をここに持って来なさい。」と命じた。剣が王の前に持って来られると、王は言った。「生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」すると、生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」しかし、もうひとりの女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください。」と言った。
  そこで王は宣告を下して言った。「生きている子どもを初めの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。」                列王記第一3:16-27   

神の知恵

神の知恵を授けられたイスラエルの王ソロモンの名声、うわさが近東一帯に広がり、近隣諸国から王たちはじめ多くの要人が都エルサレムを訪れたのは、紀元前十世紀半ばのことでした。イスラエル王国は、ダビデ王朝の跡継ぎソロモンの時代に、イスラエル史上最大の領土にまで拡張され、南のエジプトや東のアッシリヤ、北のツロとも外交的に対等な関係を保つことができ、神の大いなる祝福と平和を謳歌し、まさに神のアブラハムへの約束「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる」(創世記17:6-8、下線付加)の成就をみたかのようでした。

ダビデの多くの子たちの中で世継ぎとして神ご自身が選ばれ、ダビデと民すべてに王として承認されたソロモンは「主を愛し、父ダビデのおきてに歩んで」いました。そんなある日、主が夢のうちにソロモンに顕れ、何でも願うものを与えると言われました。ソロモンの即座の応答は、神ご自身の大いなる民を「王」として支配する重責を担っていくのに必要な「善悪を判断し、聞き分ける心」を与えてくださいという願望でした。神権国家(神ご自身が真の王、人間王は神の代理人)の「人間王」としてのソロモンの姿勢は、主の御心にかない、主は「自分のために長寿……富……敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので……わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える」(列王記第一3:11-12)とソロモンに、後にも先にも並ぶ者のいない最高の知恵を授けられたのでした。さらに、主はソロモンに、願わなかった富や誉れも与え、父ダビデの道を歩み、主の掟に従順であるかぎり、長寿も約束されたのでした。今日も上に立つ者の常ですが、当時の王たちがまず求めたことは自らの長寿、富、無敵でしたから、ソロモンの無欲さは、何よりも主を第一優先にした心の状態、姿勢の表れでした。主を第一優先にするということは、自身の名声、繁栄より主の民の福利を配慮するということで、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ……あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません」(マルコ12:30-31)とキリストが語られた教えに通じる神の国の掟でした。

冒頭に引用した「二人の遊女への判決」は、広く知れ渡ったソロモン王の巧みな裁きの一例で、異邦人だけでなくイスラエル人も、人知を超えた神の知恵に満ちた王に非常に畏敬の念を払ったのでした。この裁きの光景から、ソロモンがこの世の片隅に生きる貧しい者たち、しかも女性にも、王の面前で意見を自由に主張できる機会を与えたことが分かり、このことだけでも驚きですが、それ以上に、裁きの手段が意表を突いたものであったことに、神の知恵がうかがえます。この事件にこの世的なアプローチを試みようとする人たちの中には、おそらく、死んだ子どもがこの問題を王に訴えた最初の女の子どもではなく、同居している女の子どもであったという起訴を証拠立てるすべがないことを指摘し、DNA鑑定をしないかぎり真相は分からないと、ソロモンの判決を疑問視する人がいるかもしれません。しかし、この事件で、ソロモンの視点は際立っています。ソロモンは最初から、母親と子どもの血のつながりではなく、神が授けられた「人のいのち」の価値の分かる本来の母親、―神の御国の子どもたちの管理を担うことができる者― に、「生きた子ども」を与えるべきであるという視点に立っていたのでした。それは血のつながり以上に、生ける神の御国の兄弟姉妹のきずなを重視する姿勢であり、キリストの教え、「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか……天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(マタイ12:48-50)や、キリストがもたらされた「神の国」を受け入れながら、この世のしがらみから解放されないで、二足のわらじをはいている人に向かってたしなめられた厳しいお言葉、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」(ルカ9:60)に通じるものでした。

聖書では、「死人」という表現は、神による贖い、罪の赦しを受け入れず、依然として「罪と罪過の中に生きている者」に対して用いられており、神の提供してくださった救いを受け入れ、神の御旨に従っている者は神の御前に「生きている」とみなされ、肉の身体による物理的存在ではなく、神との正しい関係に生きる霊的存在に視点が置かれています。使徒パウロは、キリストの福音を受け入れる前と後の違いを「あなたがたは自分の罪と罪過の中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威をもつ支配者(サタン)として今も不従順の子ら(未信者)の中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな…自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒り(裁き)を受けるべき子らでした。しかし…罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし…キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ」(エペソ人2:1-6)と語ったのでした。

ソロモンは治世時、ダビデが建設を夢見たエルサレム神殿を、神の君臨の場として建てました。異邦の民であれば、神殿に偶像を置くでしょうが、イスラエルの民が神殿に運び入れたのは、民と神ヤーウェとの契約の象徴である御座「主の契約の箱」でした。ソロモンは箴言、伝道者の書、雅歌を残すことはじめ、多くの分野で神の知恵を発揮しましたが、諸国の民を驚かせたこの神殿を奉献するとき捧げた祈りは、まさに神の知恵、預言的洞察による未来のイスラエルへの警告でした。出エジプト後、雲の中にご臨在された神の御座は、幕屋の窓一つない暗やみの至聖所に置かれましたが、ソロモンの神殿でも一番奥の、やはり暗やみの「内堂」に置かれました。それ以降、神のご臨在を目に見える形で象徴する「主の契約の箱」の物理的存在は、確かに神殿でのヤーウェ崇拝を絶対的にする大きな要因となりましたが、しかし、祈りの中で、ソロモンの執り成しは、民のそれぞれの場での神殿に向かっての祈りが聞かれるようにとの請願から、罪のゆえに敵に負けたとき、干ばつ、ききん、疫病の流行、敵による包囲、あらゆる災い、病のとき、民の心底からの祈りに答えてくださるようにとの哀願に及び、さらには、異邦人であってもヤーウェを信じる諸国民の崇拝と、民が戦闘で外地に置かれたときの礼拝や祈りが受け入れられるようにとのことにまで及ぶものでした。最後には、イスラエルの民が国外追放、外地で捕囚に置かれた場合の崇拝のあり方にも言及されたのでした。列王記第一8章の神殿奉献の描写は、そのことを強調的に描いています。すなわち、大事なのは神殿や「主の契約の箱」など物理的なものの存続ではなく、どのような状況に置かれようと、民と生ける神との契約関係が存続していること、個々人が神との正しい契約関係に生きていることが礼拝の最も重要な要因であることが預言的洞察で語られたのでした。

ソロモンが両手を天に差し伸べて、全会衆の前で祈ったとき、「あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です」(列王記第一8:23)と明言したことを列王記の著者は告げていますが、著者が繰り返し用いたこのヘブル語用語‘ヘセド’「愛」は、契約を守られる神の永久の真実を表す言葉で、イスラエルの民が神との永久の契約関係にあり、民に対する神の真実、愛は不変であることをソロモンが深く認識していたことを物語っています。たとえ民が罪のゆえに神から離れ、「死んだ」状態になったとしても、悔い改めて神に立ち返るなら、憐れみ赦してください、との執り成しをソロモンは「彼らがあなたに対して罪を犯したため―罪を犯さない人間はひとりもいないのですから……」(8:45)と語り始めました。奇しくもここには、その後、神よりも王国の繁栄、自らの名声に心移りしていくソロモン自身の行く末が、神の知恵によって洞察されていたかのようです。聖書は、ソロモンが悔い改めて、神に立ち返ったか否かは語っていませんが、長寿を全うすることができず六十一歳で生涯を終えたソロモンに、主の掟に不忠実であった後半生が反映されているようです。異邦人女性を含めた多くの妻やめかけとの結婚生活、外交的平和を守るための政略結婚、多くの戦車、軍馬生産、要塞建築など軍事強化による平和維持、国民に課した強制労働、在留異国人に課した徴兵、王宮や神殿の維持や人件費のための過重な徴税等々、見かけの国家繁栄、平和の背後で、神の掟に不忠実な結果の国家破綻はすでに始まっていたのでした。新約聖書には、自らを「ソロモンよりもまさった者」(マタイ12:42)と評され、神の知恵に満ちた方がダビデの血筋の王として登場します。周囲の者たちやこの世に染まり、落ちぶれていったソロモンとは対照的に「富んでおられたのに罪人のために貧しくなられた」キリストこそ「この世が与えない真の平安」の遺産を、信じる者たちに残された真の王でした。

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