系図には、驚くべき神意が秘められています。神は人類救済の御目的のために掟を作られ、守ることを命じられました。聖書に記録されている系図には、神が掟によって正しく裁かれること、預言を成就されること、創造以来、人間史にご介入しておられることが反映されているのです! 聖書は、神が約束されたことが人間史において成就したことを示して、まだ成就していない数々の預言をも含め、すべてが必ず成就することを保証しています。
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサク……ヤコブにユダが生まれ……エッサイにダビデが生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、アビヤにアサが生まれ、アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、ゾロバベルにアビウデが生まれ……ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた、キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
マタイ1:1-16 、下線付加
教えを始められたとき、イエスは……人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって……ゾロバベルの子、サラテルの子、ネリの子……ナタンの子、ダビデの子、エッサイの子、……ユダの子、ヤコブの子、イサクの子、アブラハムの子……アダムの子、このアダムは神の子である。
ルカ3:23-38、下線付加
多くの反キリスト・カルトの格好の攻撃目標は、聖書に精通していない者にとっても比較が容易であるせいか、聖書の系図に当てられているようです。マタイとルカの福音書に載せられている系図と歴代誌との系図を比較して、その大きな違いから聖書の誤謬を指摘するわけです。聖書の信憑性を打ち砕くことができれば、聖書を偽りの神の言葉とみなすことはおろか、イエス・キリストを通しての救いを宣教するキリスト教なる宗教も根拠のない偽りの宗教として排斥することができるからです。彼らは、系図に関してだけでなく、福音書を互いに比較して違いを見つけると、「改ざん」という言葉を用いて、福音書記者がキリストの言葉をゆがめて伝え、挙句の果ては、キリストの初期の言葉は失われ何が本物なのか分からない、結局は全書すべてが信頼できない書であるとして、彼らの目標を達成させようとするのです。初めから聖書を信じまいとして読む人たちがそのような結論に至ることは当然ですし、聖書はそのような神を冒涜する人たちには初めから真理が明らかにされないように考案された「神の知恵の書」であり、預言書でもあるので、どの時代にも「あざける者」がいることをすでに予知、警告していました。しかし、問題は、そのような無責任な議論が、すでに信仰告白した者たちをも含めた多くの人たちに悪影響を及ぼしているということにあります。キリストは、神が無条件で招いてくださったキリストによる救いを受け入れた弟子たちに次のように言われました。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません……わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです……しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。
また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです」(マタイ13:11-16)。キリストは「人の子」に対するユダヤ人のあからさまな拒絶を境に、もはや公では「たとえ」以外は語られなくなりました。「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」(マタイ 7:6)と主が警告されたように、真理を拒絶する者は奥義を知る必要がないからです。ときが迫っているので、福音は、求め、捜し、たたく人々に優先的に語られなければならないのです。神の言葉の真理は今日も変わりません。キリストを求め、神の霊感によって書かれた御言葉の信憑性を信じる者には、聖書は時代を超えて、驚くべき神の知恵が息づいていることを垣間見させてくれるのです。
マタイとルカがともにダビデの血筋の、しかし明らかに異なった系図を記した背後には深い神意があり、マタイはダビデの子ソロモンの血筋のヨセフの系図を、ルカはダビデの子ナタンの血筋のヘリの子マリヤの系図を載せています。ルカは誤解のないように注意深く「イエスは……人々からヨセフの子と思われていた」(下線付加)と表現していますが、このギリシャ語は「法的に認められる」の意で、聖霊によってお生まれになったイエスはマリヤの子ではあってもヨセフの子ではなかったのですが、ヨセフの嫡出子として法的に認められ、ヘリの系図に連なったのでした。しかし、約束のダビデの血筋のメシヤが正規の手続きを経て嫡出子として系図に連なるには掟が必要でした。律法がモーセに与えられたとき、相続権は男子だけで女子は家系を継ぐことはできませんでした。ところが、イスラエルの民がカナンの地に入る直前に、勇気あるツェロフハデの娘たちの嘆願によって、「息子がいない場合、娘が同族の者と結婚するなら、娘を通して相続が認められる」という例外規定が、神ご自身の認可でモーセを通して定められたのでした。歴史を最初から最後まで把握しておられる神は千四百年も前に、メシヤに適用される掟をこのとき認可されたのでした。この特例の恩恵に与った人たちのことはエズラ記、ネヘミヤ記、歴代誌第一にも記されています。マリヤに男兄弟がいなかったであろうことは、夫ヨセフに早死にされ、一家の大黒柱であったイエスをも十字架刑で失う直前、キリストがヨハネにマリヤの世話を託したことから推し量ることができます。また、夫ヨセフがマリヤと同族のユダ族であったことを明らかにするため、福音書に二人の系図が載せられたということは、世の終わりの侮る者の到来をも含め、すべてを予知しておられた神の知恵です。聖書の主張通り、キリストが聖霊によってお生まれになったのであれば、ヨセフの系図を載せる必要はないのですから。このようにして、両系図は、キリストが預言を成就するメシヤであることを遺伝的、合法的に裏づけることになったのです(「一人で学べるルカの福音書」―キリスト教神学の立場からではなく、聖書を歴史書、預言書、ダイナミックな神のご計画の書としてそのまま受け止める立場からの注釈書―参照)。
さて、マタイの系図のソロモンからバビロン捕囚時の王エホヤキン(エコニヤ)に至るまでの名を歴代誌第一3章の系図と比較しますと、四人の王たちの名が欠落していることがよく指摘されます。ヨラムとウジヤ(アザルヤ)との間にアハズヤ、ヨアシュ、アマツヤが、ヨシヤとエホヤキンの間にエホヤキムの名が入るべきなのですが、なぜか系図から抹消されています。しかし、これも掟に従うとき、その理由が明らかになるのです。ユダの王ヨラムは、北イスラエルの背信王アハブと異端の偶像崇拝を北イスラエルに持ち込んだフェニキヤ人の王女イゼベルの間に生まれた娘アタルヤと結婚したことにより、この時代、ユダ王国にイゼベルの邪道、偶像崇拝が持ち込まれました。ヨラムの全兄弟抹殺、アタルヤの一人を残す全王子殺しはダビデ王朝撲滅をねらったサタンに扇動されたユダ王国の危機でしたが、暴力死を遂げた三人の悪王の名がマタイの系図から抹消されているのはまさに、モーセの十戒の第二番目の掟を犯した呪い、偶像を拝む者には「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」(出エジプト記20:5)、「その者の名を天の下から消し去る」(申命記29:20)が適用された結果だったのです。ユダ王国の晩年期には、ヒゼキヤ、ヨシヤなどのイスラエルを神に立ち返らせるために、全イスラエル十二部族を招集しての掟に則った神殿礼拝を再現させ、大々的な宗教改革を行った善王も登場し、イスラエルが完全に偶像崇拝から聖められるかのように見えた時期もあったのですが、ヨシヤが亡くなった後、ユダは列強のエジプトやバビロンに威嚇され、貢を支払う従属国に成り下がりました。マタイの系図から抹消されているもう一人の王エホヤキムは、預言者エレミヤによる神からの重大な警告が書き記された巻き物が王宮で読まれたとき、不敵にも、巻き物全部を暖炉の火で焼き尽くした王でした。その冒涜行為の直後に神は、エレミヤにエホヤキムについて「彼には、ダビデの王座に着く者がなくなり、彼のしかばねは捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる。わたしは、彼とその子孫、その家来たちを、彼らの咎のゆえに罰し……わざわいをもたらす」(エレミヤ書36:30-31、下線付加)と、呪いの預言を語られました。バビロンに盾ついたエホヤキムは残虐死を遂げ、野ざらしの埋葬で屈辱的な一生を終え、預言は見事に成就したのでした。その子エホヤキンについてもエレミヤは「彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいない」(22:30)と呪いの預言を語り、バビロン捕囚に連れて行かれたことにより、事実上、この呪われた王たちの系図からメシヤが生まれるはずがないことが明らかにされたのでした。このように呪われ殺害された王たち四人がダビデ王朝の系図から外されたことは偶然ではなく、掟に照らされた結果の裁きの成就だったのです。厳密に言えば、エホアハズとゼデキヤもマタイの系図から外されていますが、二人とも主の御前に悪を行い、すでに占領下に置かれていたユダで君臨する間もなく、エジプト、バビロン各捕囚先で屈辱的な生涯を終えたのでした。
バビロン捕囚七十年後、神の憐れみにより本国帰還が許されたユダヤ人は、ゼルバベルをユダの総督としてエルサレム神殿の再建に取り組んだことが、エズラ記、ハガイ書に記されています。このゼルバベルの名がマタイとルカの系図の両方に「ゾロバベル」の表記で登場し、父「サラテル」も同様に記されています。後者はヘブル語聖書では「シェアルティエル」の表記で登場しますが、歴代誌第一3章では「ペダヤの子ゼルバベル」であるのに、エズラ記やハガイ書では「シェアルティエルの子ゼルバベル」というように食い違っており、聖書の攻撃者たちはまたも間違い発見と歓喜するのですが、このような問題は申命記 25:5-6 に記されている『兄弟の妻との結婚の義務』を適用することによって解決されるのです。兄弟が子を残さず死んだ場合、その兄弟の家系継続のために、「買い戻しの権利のある親類の者」がその兄弟の未亡人と結婚し、子を残すことが義務づけられていたのでした。ボアズがモアブ人ルツ(奇しくも、ダビデ王の曾祖母となる)と結婚したのは、まさにこの掟が実践された典型的な例でした。ルツの義母ナオミは孫「ボアズ」を「ひざに抱く」(邦訳では「胸」で適訳ではない)ことによって、自分の夫エリメレクの系図に連なる子であることを意思表示したのでした。したがって、「ペダヤ」はおそらく、子を残さず亡くなった「シェアルティエル」の未亡人と結婚し、生まれた子「ゼルバベル」はシェアルティエルの子として家督を継ぐことになったに違いありません。このように、理由のある表記の食い違いは、系図では非常に多いのです。ルカの系図で、「エコニヤ」ではなく「ネリ」が「シェアルティエル」の父として挙げられている背後にもおそらく、この『兄弟の妻との結婚の義務』が関わっていたことが考えられるのです。しかし、聖書の系図には様々な機能、形状、統一だけでなく、リストの意識的な短縮、部族間の合流など『流動性』が適用されているので、論争に系図を用いるとサタンの罠に陥ると、パウロは警告したのでした。
聖書は神の人間史へのご介入の赤裸々な史実を記録した真理の書で、そのダイナミックな一貫性、時代を超えた継続性の醍醐味を味わうには、重箱の隅をつつくような近視眼的、猜疑的、狭小な姿勢ではなく、最初から最後まですべてを総括的に把握し、神の御旨を知ろうとする意欲的な姿勢で臨まなくてはならないのです。