メシヤニック・ジューのラビ、ジョナサン・カーンの著書「先ぶれ」がこの世に受けたのはなぜか。「ダ・ヴィンチ・コード」や「ハリー・ポッター」がこの世に受けたのと非常に似ている謎解き、魔術、神秘の世界へのいざないをこの 世は好むようである。果たして、著者ジョナサン・カーンが意図した ように、「先ぶれ」は、災いの背後に神の裁きがあることを正しく理解し、神不在の人生を悔い改め、真の神に立ち返るようにと、人々を正しく導くであろうか?
主がヤコブに一つのことばを送られた。それはイスラエルに落ちた。この民、エフライムとサマリヤに住む者たちは、みな、それを知り、高ぶり、思い上がって言う。「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう。」そこで主は、レツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちをあおりたてる。東からはアラムが、西からはペリシテ人が、イスラエルをほおばって食らう。
それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。しかし、この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めなかった。そこで、主はイスラエルから、かしら尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。この民の指導者は迷わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。それゆえ、主はその若い男たちを喜ばず、そのみなしごをも、やもめをもあわれまない。みなが神を敬わず、悪を行い、すべての口が恥ずべきことを語っているからだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
イザヤ書9:8-17
今年一月初めにアメリカで出版された、救世主信奉ユダヤ人のラビ、ジョナサン・カーン著の“The Harbinger (先ぶれ)”は、すでに2012年のベストセラーの地位を確保するほどの勢いで米国中に、また海外に広まっています。おそらく、邦訳版が出るのも時間の問題ではないかと思いますが、ニューヨークタイムズのペーパーバック版のリストの十位で世に出され、十日以内に四回も再版されたというこの書は、信者、未信者に関わらず、なぜそのように多くのアメリカ人を魅了したのでしょうか。救世主信奉ユダヤ人である、著者ジョナサン・カーンは、ニュージャージー州ウェインのエルサレム/ベト·イスラエル礼拝センターの主任牧師で、広く「ラビ」と呼ばれており、この教会のウエブサイトでは、合衆国で最大のメシヤニック・ジューズ(救世主信奉ユダヤ人会衆)の教会と称しています。カーンの主要なメッセージは、今日、米国は神の直接の裁きの下に置かれており、反逆のゆえに滅びた古代イスラエルの歩んだと同じ道をたどり始めている、滅びを免れる道は国家としての悔い改めしかないということで、書中では、預言者とジャーナリストのノリエル・カプランとの対話を通して、フィクションの形で、主張の根拠となる兆候、前兆が提示されていきます。米国の未来、行く末を握る鍵が聖書の預言に記されている古代の謎をひも解くことにあるとの興味深い触れ込み、提示された九つの先触れ、2001年9月11日の同時多発テロとイザヤ書9:10-11に記されている古代の謎との密接な関係等々が大衆受けしたのか、想像を絶した反響を呼んだのでした。
この書に対する評価はちまたでは絶賛されているようですが、クリスチャンの間では大きく二つに分かれ、内容の是非を問わず全面的に受け入れ、この世に悔い改め、神に立ち返ることを警告している画期的な書と高く評価している人たちがいる反面で、この書の聖書解釈上の重大な欠陥、多くの逸脱、誤導による潜在的危険のほうが、むしろもたらされる益よりはるかに大きいと憂える人たちも多いのです。中でも、デイビット・ジェイムズは、“The Harbinger (先ぶれ)” が出版された四カ月後に、“The Harbinger :Fact or Fiction?(先ぶれ、事実か虚構か?)”を出版し、「ジョナサン・カーンが信じているように、アメリカの未来の秘密を解く古代の謎が本当にイザヤ書9:10に含まれているであろうか」と疑問を投げかけました。『箴言』は「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える」(18:17)と語っていますが、ジョナサン・カーンの主張に自己矛盾が多く見られることが指摘されるまでは、彼の謎めいた物語の展開のとりこになってしまった読者が結構多かったのではないかと思います。デビュー直後からカーンがドキュメンタリー番組、DVD録画、ユーチューブほか、多くのインタビューに登場、広く報道されたことはすべてを物語っているようです。
カーンは、イザヤ書9:10「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう」を鍵となる聖句として、この聖句から神の裁きのパタンを引き出し、九つの「先ぶれ」を文字通りアメリカに適用しました。
- 最初の先ぶれは、神の守りの取り除き。この神のしるしをイスラエルに適用するなら、守りが取り除かれたことによってアッシリヤ人の攻撃にさらされることになったのでした。アメリカに適用するなら、国の安全が取り除かれ、世界貿易センター双子ビル崩壊に象徴されるテロリストの攻撃にさらされることになったのです。
- 第二の先ぶれはテロリスト。主は究極的には神と神の民に反逆するアッシリヤ人を討たれますが、イスラエルの背信の間は、むしろアッシリヤがイスラエルを撃つことを許されました。ショック、恐怖、暴虐、脅威をもたらす敵として描かれているアッシリヤはまさに、標的を組織的に撲滅しようとはかる「テロリスト」を象徴しているのです。
- 第三は落ちたれんが。イスラエルに関して言えば、れんがは町の城壁を築くために用いられ、敵の攻撃後は修復が必然でした。アメリカに適用するなら、世界貿易センタービル崩壊時に大量のれんがが崩れ落ちたのでした。
- 第四は塔。イスラエルが破壊された町を再建すると豪語したとき、それは神に対する挑戦でした。アメリカの指導者たちが崩壊した双子ビルを再建すると明言したとき、傲慢、誇り高くも自らの力で再建を誓う、同じ挑戦の霊が働いていたのでした。カーンは、自らの主張をさらに裏づけるため、「切り石で建て直そう」がずばり「塔を建てよう」と訳されている七十人訳ギリシャ語旧約聖書(LXX)を引用しています。
- 第五は切り石。この用語は岩から切り出され、建造用に整えられたブロックのことで、イスラエルはアッシリヤに攻撃された後、山から切り出した石を持ち運び、破壊されたもろいれんがにとって代えたのでした。同じように、テロの爆心地に運ばれた二十トンの巨大なブロックは「自由の石」と呼ばれ、荘厳な儀式を通してアメリカの新しい力と確信を象徴する再建の岩盤、隅のかしら石とされたのでした。
- 第六はいちじく桑の木。中東ではどこにでもあるこの木は、米国では生長しない類ですが、テロ攻撃の爆心地の境界上で、双子ビル崩壊によって降り注がれたがれきで倒された木がありました。このプラタナスの木はまさに中東の「いちじく桑」の木に分類されるもので、英語版の「いちじく桑」だったのでした。
- 第七は杉の木。よくレバノン杉として翻訳されるこのヘブル語は、常緑の針葉樹の中でも松科の木とみなすのが一番ふさわしいようで、弱い木に代えて強い木を植えることがこの預言の趣旨です。ニューヨークの人たちは、樹齢六十年の倒れたプラタナスに代えて、同じ場所に「希望の木」と称して松科の木を植えたのでしたが、まさかイザヤの預言を成就することになろうとは、考えもしなかったのでした。
- 第八は首都で宣言された誓い、―大惨事の後、民の指導者たちはテロリストの暴虐に屈さない挑戦の公宣言をした―。2003年11月に、倒れたいちじく桑の木の代わりに、杉(松)の木が地中に下ろされ、2004年の7月には、落ちたれんがに代えて、二十トンの花崗岩が爆心地の床にクレーン車で下ろされたことにより、2004年の夏までに、古代イスラエルの預言に言及されているすべてのものが奇しくも爆心地に積み下ろされたのでした。かくして、アメリカ同時多発テロ事件の第三周期の2004年9月11日には、当時アメリカの副大統領候補のジョン・エドワーズの口を通して、ワシントンDCで、このイザヤ書の箇所が公に銘記されたのです。
- 第九、最後の先ぶれは預言。2001年の同時多発テロ事件の翌日に、米国州議会、上院の多数党総務がやはりイザヤ書9:10を引用し、最後に「私たちはそうしよう」と締めくくったことは、本人の意図に関わらず、まさに預言の言葉となり、上述したように三年後には、その宣言通りのことが現実になったのでした。イスラエルの掟では、法的に出来事が打ちたてられるには二人以上の証人が要求されますが、図らずも二人がイザヤの預言を引用し、アメリカが引き続き神に挑戦することを宣言し、その道を歩み続けていると、ジョナサン・カーンは解釈しているのです。
以下の解説のように、イザヤ書のこの聖句は八世紀BCEの神を捨てた北イスラエル王国の堕落ぶりを描いたもので、直接にはイスラエルに向けられたものですが、同時に、すべての人々に対して、神が警告として送られる自然界、社会におけるしるしから神の御旨を察知し、応えなければならないことを告げているものとして普遍的に捉えることのできるメッセージでもあるのです。
(1) 虚勢に対する裁き イザヤ書 9:8-12
「切り石」(10節)は豪邸を建てるのに用いられる贅沢な建築資材であり(アモス書5:11)、「杉の木」(10節)もカナン一帯(今日のパレスチナ)ではレバノンの杉に代表されるように、最も貴重な木材(列王記第一7:2-3)でした。当時イスラエルの各地で起こり始めていた「れんがが落ち(る)」「木が切り倒され(る)」(10節)という現象に象徴されているのは、神が天災、人災を通して民に警告のメッセージを送られたということです。民は落ちたり、倒れたりする災い、すなわち神からのしるしが暗示するものを悟って、悔い改めへと促されるべきであったのですが、正反対にそのような災いを一笑に付し、古いものが壊れてちょうどよかった、今度はもっと豪華なものに建て替えようと虚勢で対処したのでした。そのようなイスラエルの民(エフライム、サマリヤ)の様子が10節に風刺されています。民の思い上り、現実逃避の姿勢をイザヤは鋭く捉えたのでした。実際、732BCEにシリヤの首都ダマスコがアッシリヤに征服されると、シリヤはじめ隣国のイスラエルに対するアッシリヤの風当たりはますます強まったのでした。東からは存命が危うくなった同盟国のシリヤ、西からは旧来の敵ペリシテ、しかもそれらの国々の背後には大国アッシリヤと、圧力は強くなる一方で、おごり高ぶったイスラエルはすでに逃げ場を失った獲物同然に追い詰められたのでした。悔い改めの心のない民に待っているのは神の裁きのみです。] (『一人で学べるイザヤ書』p.55-56から抜粋)
神の裁きは国家の最も神聖な場所を撃つことで始まると信じるジョナサン・カーンは、清教徒が最初に上陸し、神に奉献した地がまさにテロ爆心地の隣接地であったこと、米国は初代大統領ジョージ・ワシントンによって神に奉献された国であることを強調していますが、ジョージ・ワシントンがフリーメイソンの会員であり、また、ニューヨーク州の最初の首相で、ニューヨーク・フリーメイソンの最高名マスターであったローバート・リビングストンが作成した大統領就任宣誓によって、フリーメイソン主義の聖書に手を置いて儀式が行われたことには、全く触れられていないのです。米国が拠り所にした神が、聖書の証しする神ヤーウェでなければ、イザヤの預言に基づいた物語の展開自体に矛盾があることはいうまでもありません。