聖書の中の子ど もの位置づけは「救いの相続者」。人類学者の研究は、子どもは発育過程で自然に創造論を受け入れ、天地が崇高なる存在、神の御目的とデザインで構成されていることを信じていることを 明らかにした……
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。『それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。』そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。しかし、わたしを信じるこの小さい者たちの一人にでもつまづきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとって良いことです。また。もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりも見下げたりしないように気をつけなさい。まことにあなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
マタイ18:1-10
信仰告白の年齢に達していない幼児の洗礼(No.198、No.197、No.195参照)に関して、伝統的な教会が幼児洗礼を礼典に定めているため、それを否定する解釈に抵抗を覚えるクリスチャンが多いようですが、教理を優先するか、聖書の主張を優先するかを選ぶなら、後者をとるべきであることは明らかです。むしろ、なぜ反発を感じるかの背景には、聖書が幼児に関してどのように語っているかを理解していないことが指摘できるようです。聖書が、幼児を初めから神の国に入る者として語っていることを知れば、だれも、救われるために幼児に洗礼を授けなければならないと信じる者はいないでしょう。今月は、幼児の救いに関する聖書の主張が、人類学者によって裏づけられたという情報をも交えて、考察してみたいと思います。
旧新約両聖書は一貫して、幼児の救いを説いています。ヘブル語(旧約)聖書のサムエル記第二に、一生、神への忠誠を守り通したダビデ王が、生まれて七日目に亡くなった子どもに対して語った言葉があります。「しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」(12:23、下線付加)は、幼くして死んだ子どもの行く先が神の御許であることを明白に裏づけている聖句です。罪を犯したときすぐに悔い改め、「私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください」と祈り、「まことに、主は公義を愛し、ご自分の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれ……そこにいつまでも住みつこう」(詩篇 37:28-29)と主のしもべである自分の死後の行く先が主の御許であることを確信していたダビデは、死んだ子どもの行く先を当然主の御許として語ったのでした。ヘブル人への手紙には「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」(1:14、下線付加)と書かれており、この聖句から、救いに入れられている者に守護天使が遣わされていることが裏づけられます。冒頭に引用したマタイの文脈では、「小さい者たち」に「彼らの」天の御使いが遣わされており、これらの御使いはすぐに行動に移せるように、神の下される命令をいつもうかがっていると記されていることから、このように天の御使いに見守られている子どもたちは「救いの相続者」、救いに入れられている者ということになります。しかし、御使いはあくまでも仕える霊で、祈り、崇拝の対象でないことは明らかです。御使いによる守りは、御使いにではなく、神への感謝になるのです。さらに守りの詩篇といわれる詩篇「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる」(91:11)では、御使いたちが複数形であることから、各々の子どもたちに二人以上の御使いが遣わされているかもしれないと考えることができます。
また、ニサンの月の第十日は、モーセの掟では、過越のいけにえの子羊が選択され、完璧かどうかの吟味が始まる日で、教会暦では、この受難週のシュロ聖日に、キリストがろばに乗ってエルサレムに入城されました。大群衆がキリストをユダヤ人のメシヤとして迎え、特に宮の中では「ダビデの子にホサナ」と子どもたちまでが叫んでいるのに腹を立てた祭司長、律法学者たちは、キリストに「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか」と、キリストに詰め寄りましたが、キリストのお答えは「『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか」(マタイ 21:16)でした。聖書に精通していると自負していた当時の宗教的指導者たちにキリストは、詩篇「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした」(8:2)からの引用で答えられたのでした。彼らの心の中の陰謀をすでに見抜いておられたキリストの何と冷静で、的を射たお答えだったことでしょう。この箇所は、キリストがエルサレム入城後、宮で不当な売買をしていた商人たちを追いだす「宮聖め」をされた後のキリストの御言葉で、新約聖書はLXX(ギリシャ語訳旧約聖書)からの引用のため、ヘブル語聖書の「力」が「賛美」になっている違いはありますが、紛れもない詩篇への言及でした。この文脈から二つの点が指摘できます。(1)神は「乳飲み子」を用いられる:聖書に誕生の次第が記されているモーセ、サムエル、イエス・キリスト、これらの赤子誕生はイスラエル史に転換期をもたらしたのでした。
(2)神は「幼子」を用いられる:キリストの受難週、シュロ聖日に幼子たちが全身全霊で主を迎えた賛美の声は純粋で、まさに、天(神の御旨)を地にもたらす「力」であったのです。他方で、非難、脅威に委縮し、人目を気遣って声を落としたに違いない大人の不純な動機は、主への真の賛美の声にはならなかったでしょう。また、キリストが引用されたこの詩篇は、主に敵対する者が黙らされるのは、権力ある者、力ある武勇の者によってではなく、「一つ心で父なる神に依存する純真な子どもたち」によってであることをも告げているのです。究極的に、「敵、復讐する者」に対して神ご自身が復讐されるので、幼子たちのように無力でいいのです。神への信頼を持ち続けさえすれば救いを得るのです:「諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから」(申命記32:43)。
聖書の中の幼子の位置づけはこのように「救いの相続者」であることが明らかですが、人類学者の研究成果にも目を留めてみましょう。2008年11月に、オックスフォード大学の人類学者ジャスティン・バレット博士は、子どもたちは真の神を信じる者として生まれ、宗教教育、教化を経て宗教心、信仰を習得するのではないことを発表しました。博士は、子どもたちはこの世のすべてが当然、目的の下で創造されたと思っており、崇高なる存在を信じる傾向を生まれつき持ちあわせていると唱え、たとえ家庭や学校で信仰について教えられなくても、子どもたちには信仰心があり、孤島に一人で生きるような環境下に置かれたとしても、真の神を信じるようになるであろうと、語ったのでした。また、過去十年ほどの科学的研究の結果、子どもの心には自然な発育過程で、大人がこれまで考えていたよりはるかに多くのことが育まれているという裏づけが優勢を占めることも発表されました。たとえば、自然界が目的をもってデザイン、構成されていることや、その目的の背後に何か知的な存在があることを当然と捉える傾向は、子どもたちに発育過程で自然に育まれることなのです。また博士は最近、「鳥はなぜ存在するようになったのだろう?」と聞かれた六、七歳の子どもたちが「素晴らしい音楽を作るため」「世界を楽しくするため」と答えることなど多くを例証して、ケンブリッジのファラデー学究機関での講義や英国BBCラジオ4で、「子どもたちに心理学的実験をした結果、子どもたちは本能的に、およそこの世のすべてのものが特別な目的の下でデザインされたと信じていることが分かった」と語りました。さらにバレット博士は、子どもたちは四歳までに自然に、人工のものと自然や自然界の産物との違いを理解することができるように成長し、たとえ家庭や学校で進化論(人間の仮説)を教えられたとしても、はるかに創造論を信じる傾向にあり、「自然の発育過程で神の創造、知的なデザインを信じる子どもたちにとって、進化論を信じることは難しい。進化論は人の心には不自然な教えである」と結論づけたのでした。
冒頭に引用した箇所でキリストは、いつも比較で自分を見、力を誇示したいと思っている大人と自らの無力さを知っている子どもたちの大きな違いを指摘して、「だれが一番偉いのでしょう」という弟子たちの質問への答えとされました。神に受け入れられなければ、天の御国に入ることはできません。「救いの相続者」にはなれないのです。子どもへの虐待はさることながら、新生児の生死も父親の一存で決定された、女子どもの地位が非常に低かった当時、「だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」というキリストの教えは革命的でした。神の国の原則は、人が編み出したこの世の原則、伝統、習慣など既成概念を捨て去らないかぎり、受け入れることができないような法外な教えだったのです。この世で力があると思っている大人が幼児を、あるいは、権力ある者が弱者をつまずかせるとき、つまずかせる者の罪の恐ろしさを、キリストは、神の国とは正反対の「ゲヘナ」、地獄に入れられる者として描かれました。
真の神を知って生まれ、成長するはずの幼児がこの世の教育、環境、知識で無神論者になり果てるとしたら、つまずきを与えるのはこの世の教えです。聖書は、西暦一世紀以降キリスト教会に忍び込み、その流れが今日に至るまではびこっている異端、救いへの道を「霊知」として説いたグノーシス派の教え「反対論」「俗悪なむだ話」(テモテ第一6:20)に、至る所で警告を発していますが、この世はまさに無神論の「人の知識」で毒されています。この世の支配者が神に真っ向から反対するサタンであるため、真の神、真理が阻害されるのです。この異端は、キリストの贖いの死を信じる信仰による救いではなく、「人はみな神性を備えているが、邪悪な肉の世、この世に捕らえられているため、解放される必要がある。イエスはこの世からの脱出の奥義、霊知を与えるために来た。人はもともと属していた『光の国』に戻る必要がある」と、奥義を知ることによる救いを説くのです。神の存在を否定する進化論はじめ根拠のない仮説、キリストを利用したこのような作り話、欺瞞は残念ながら今日、ちまたに満ちているのです。サタンの攻撃の矢面に立たされているのは救いの相続者、子どもたちなのです。