TRANSLATE

AD | all

第220号 ユダの手紙5-13節:

地獄の体験談の聖書的解釈

― クリスチャンの証しする瀕死の状態での霊的体験や臨死体験は果たしてキリストからの啓示だろうか? 真理だろうか?
聖書的でない主観、個人的体験、偽りの教えが混入してはいないだろうか?
超自然的な物事、現象を正しく捉えるために要求される「霊的見分け」は、すべて、「神の言葉」聖 書から養われる―

 
あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。しかし、この人たちは、自分には理解できないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。ああ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラクの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。彼らは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れげもなくともに宴を張りますが、自分だけを養っている者であり、風に吹き飛ばされる、水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木、自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。                             
ユダの手紙5-13節

  昨年の暮れに、ある教会で配られた印刷物「アフリカ、ナミビア共和国のクリスチャン、ビクトリア・ネヘールの地獄の体験談」を、教団のキリスト教会では拒絶される内容に違いないと思いながら読みました。瀕死の状態での霊的体験や臨死体験はクリスチャンに限らず、この世の人たちの間でも多くの例証が報道されたり、出版されたりしていますが、そのほとんどは聖書に照らすと、真理がゆがめられ、利己的、感情的な体験の訴えになっているようです。今回、地獄の体験談について、クリスチャンのサイトでも結構多くの情報が載せられていることを知りました。上記の印刷物、ビクトリア・ネヘールの体験には聖書的に裏づけられる重要なことも記されていますが、聖書的でない主観、個人的体験、あるいは、偽りの教え(キリスト以外の情報源)も混じっているようです。彼女の証しに限らず、同じような体験談に共通して言えることですが、地獄に落ちた人たちの非常におぞましい苦しみの描写や悲痛なうめき声をあげ助けを求める人々をキリストが憐れみ、涙を流して応答する描写ほか、そこで苦しんでいる人々の個人名が挙げられていることは聖書的ではありません。だれが地獄に落ちるかは審判者、神のみが知ることで、一個人に知らされることではないのです。このことは、キリストが甦り後ガリラヤ湖畔で弟子たちに三度目にお姿を顕されたとき、「どのような死に方をして、神の栄光を現すか」を具体的に示されたペテロが、キリストの愛弟子ヨハネの行く末にも関心を示したのに対し、キリストが穏やかにたしなめられたお言葉から明らかです。そのとき、キリストは「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)と言われたのでした。その後弟子たちの間に、キリストのこの謎めいたお言葉が「その弟子は死なない」という意味で行き渡ったのですが、キリストが強調されたことは、自分自身の信仰の歩みと自分とキリストとの関係の重要さであって、他人の行く先を詮索することではありませんでした。

  超自然的な経験をし、ビジョンや預言を受けたと信じた人たちは、キリストの奥義を啓示するために選ばれ、主から促されて公表するに至った経緯を体験談の中で語っていますが、個々人の経験は、それがどんなに素晴らしいことであっても、必ずしも公表するようにとは示されていないのが、聖書に記されていることです。素晴らしいビジョン、あるいは、恐ろしいビジョンを彼らが何らかの形で見たことはまず間違いないことだと思われます。問題はその源です。使徒パウロは第三の天に引き上げられ、キリストの他の弟子たち、一番弟子と思われるペテロでさえ経験していない霊的体験をする特権にあずかったことが、聖書に記されています。パウロの場合、初代教会の働きを後世の読者に告げるという非常に重要な役割を担わされた者であったがゆえに、特に、そのような特別な体験が許されたと理由づけることは道理が行きます。「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです」(使徒の働き9:15-16)とキリストが、パウロ以外の主のしもべアナニヤを証人に立て、ご計画を明らかにされたように、当時パウロが受けた迫害を考慮すると、そのような特別な主との関わりがなければ、キリストの重要な啓示、神の奥義を余すことなく反目の世に告げることはできなかったかもしれません。信者でありさえすればだれでも、いつでも、そのような特別な体験にあずかることができる、そのことを求めるという今日のような超自然的体験志向のご時世でなかったことは確かです。

  地獄の詳細、特にそこに落とされた人たちがいかに苦しむかの状況描写、―体験談では、人々が悪霊に暴行され、拷問を受け、身体的に苦しむ状態がとりわけ強調的に描かれている― に関して聖書は、おそらく必要のない情報なので、その存在の確証、永遠性、苦しみの永続性、霊の身体のある者たちが投げ入れられる場所であること、霊的、物理(身体)的苦しみについての最小限の叙述、神から完全に切り離された神不在、光のない真っ暗闇の場所であることが明確に語られている以外は、ほとんど沈黙しています「地の暗い所には暴虐が横行していますから」(詩篇74:20)と詩篇の著者が詠んだ「よみ」や新約聖書の「ハデス」は厳密には、「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火」(マタイ25:41)、すなわち「地獄」とは異なりますが、体験談では両者の区別がほとんど意識されず、あいまいになっているようです。しかし他方で、聖書では、よく「預言的遠近法」―預言的に時間の隔たりを取り除いて眺望する描き方― が用いられ、未来が圧縮的に一つの光景として描かれている箇所もありますから、地獄の体験者が両者を混同して語ることは、聖書的な許容範囲にあるといえるかもしれません。

  しかし、体験者の、地獄が現実にあることをこの世に告げ知らせるためにキリストから新たな啓示を受けたとか、「永遠、裁き、死と死後の生命」についての奥義を知らされたという主張は聖書的ではありません。
神は私たちの手元にある聖書に、人間に必要なすべての啓示をすでに顕わしておられます。旧・新約両聖書は神の霊感によって互いを解釈するように記されているので、聖書解釈に必要な情報は両聖書の中にすでに収められているのです。新約聖書で明らかにされた奥義はヘブル語(旧約)聖書からすべてひも解くことができるもので、今世紀に入って一個人に示されたビジョンを通して初めて示さることになる真理や新しい啓示は何もありません。すでに二千年前、キリストはこのことを語られ、新約聖書ルカ24:44に記録されました。

「キリストが死から甦られた直後、エルサレムでナザレ人イエスに起こった惨事の一部始終を全く理解できず、当惑と悲嘆にくれて、エマオへの道を歩いていた二人の信徒がいました。そのとき突然二人の前に姿を顕されたキリストが語られたお言葉『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした』は、当時すでに流布していた全ヘブル語(旧約)聖書を悟っていれば、すべてを理解できたはずであったということでした」 (『一人で学べるキリストの啓示:ヨハネの黙示録の預言』から)。


  概してクリスチャンは、聖書解釈ではなく、個人の体験談、証しに重点を置くようですが、真のキリスト者にとって重要なのは、だれに何が起こったかとか、超自然的出来事、奇蹟、癒しが自分にも起こるように願うというのではなく、「自分に対するキリストの御旨は何か」をはっきり知ることで、それには御言葉を学ぶ以外にないのです。キリストは「神のわざが神のタイミングのときにその人に顕れるために」盲人に生まれついた人(成人になるまで二十年以上、おそらく三十歳近くまで目が不自由であった)を瞬時に癒されましたが、「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか」という弟子たちの質問に対する主のお答は「神のわざがこの人に現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます」(ヨハネ9:2-4)でした。キリストのこのお言葉は、すべての盲人がこの人のように癒されるという宣言、キリストによる癒しの一般化では決してなく、父なる神の定められたとき(昼の間)に、神の御目的の下でこの特定の個人が選ばれ、神のわざが現れたことを明らかにされたものでした。このように、主が個々人に起こされる癒し、奇蹟を含めた御働きはみな違い、すべての栄光は神に帰されるのです。

  昨今、カリスマ、ペンテコステ、福音派、超教派の多くの教会が、この世の人々を教会に導くため、人々の関心を引き、伝道の助けになれば何にでも飛びつくという安易さで、神の言葉「聖書」に照らすこともなく、超自然的な体験談、ビジョン、癒し、預言、「リーマ」(個人的に口述で受けた新たな御言葉)を受け入れる傾向にあるようですが、このような新情報志向はサタンの罠に陥る危険が伴うことを警告しておく必要があるようです。サタンは角や翼をつけた恐ろしい汚れた被造物としてではなく、「光の御使いに変装」(コリント人第二11:14)して人に近づき、混ぜ物をした真理を語り、人の心を魅了します。生来の「罪人」である人間は、まさにエバとアダムが蛇の新奇な誘いにたぶらかされ罪に陥ったように、全知全能の神によって、創造の最初の時点ですでに全ご計画が顕された神の人類救済の書「聖書」―神の言葉―ではなく、好奇心から未知なもの、新奇な情報に跳びつく傾向があり、その結果、サタンや自我に由来する偽りの教え、間違った思いに支配されてしまうようです。真理を交えて語るのがサタンの手口ですから、御言葉を正しく学び、キリストとの正しい関係になければ、人間的な価値基準で判断してしまうのが落ちでしょう。来月号で聖書が語る黄泉と地獄にもう少し焦点を当ててみたいと思いますが、地獄の体験談の中で一部の人たちが訴えている「すでにキリストを信じながら、罪の生活を続けていた自分が決して地獄に陥らないように、主はその深い愛で地獄の恐ろしさを自分に味わわせられた。地獄は現実で、永遠の苦しみの場である」との告白は聖書的です。キリストが地獄を語られたとき、対象は決して未信者(キリストを知らない、あるいは、受け入れていない)ではなく、冒頭に引用したユダの手紙が警告しているように、信者であったということを銘記することは重要なのです。