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クリス・ドーン師の「レントのメッセージ」

宇宙の究極的な神意

クリス・ドーン師の「レントのメッセージ」
4月16日、イースターに向けて

2017年4月14日(金)英国BBC4ラジオで放送、15分間のスピーチ
〔3月1日(水)、日本、六本木で収録〕

四十日間のレントとイエスの断食

イエスの四十日間の断食を覚えるレントの時期がやって来た。
イエスは、この世の煩わしから離れ、荒野に行かれた。食物、友人、家族から離れて。
私はこのことを畏敬の念で見る。私は目覚めている間中、ほとんどオンライン接続をしている。食べることが好きだし、一刻一刻変わる刺激ある二十一世紀の速いペースの人生が好きである。
私は今、東京に住んでいる。このことをあらゆる形で、強調したい。
明るく輝く電灯、ひらめくネオン、音の壁が身体への打撃のような地区がここにはある。
二歩進むともうそこに、別の拡声器、メガスクリーン、あるいは、群衆がいる。私はこれが大好き。食べ物、友達、家族、楽しい…
これらから離れて何とか一日を過ごすことができたが、一ヶ月以上、これらを捨てる意志の強さを持つということなど、私には想像もつかない

イエス、神の子、メシヤ

聖書には、当時の驚くべき話の断片が記されている。
それは、ちょうどイエスが公に神の子、メシヤ、―イスラエルのすべてが待ち望んでいた方― として確認された後のことである。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と宣言された神の声で。
大きな期待がイエスの上にあった。
この人は、自分の民をどのように解放するつもりなのだろうか?この人は、ローマの圧政を追い払い、平和を回復する、勝利の王だろうか?この人はどのようなメシヤになるつもりなのだろうか?この人は、どのようにこの宿命を成し遂げるだろうか?

東京にいる理由

それゆえ、イエスにとって、この荒野でのできごとは、実際「神の子」としてのアイデンティティで始まったのであった。このアイデンティティの疑問「わたしはだれか」は、おそらく、もっとも基本的であるが、しかし、答えるのにもっとも難しい質問である。
私たちは自分自身を多くの異なったことによって定義する、―仕事、家族、信仰―。私はといえば、私は天文学者、宇宙の衛星を用いてブラックホールの研究に取り組んでいる。これが、私が東京にいる理由である。
私は、昨年打ち上げられた日本の新衛星からのデータをどのように用いるかを計画していたチームの一員であった。
そう、私は、ロケット学者。このことは、パーティーで自己紹介をするとき、いつもよく受ける。私は既婚で、夫は数学者。といって、二人が同じ反応を示すわけではないが!しかし、仕事も関係も永久には続かない。

予期しないことに直面

私はむしろ劇的な方法で、予期しないことに直面することになった。
私は、新しい衛星からのデータに取り組むため、英国から一年間の「サバティカル(研究休暇)」を取ることになっていた。私がEメールを受けたのは、東京行きの飛行機に乗る直前であった。メールは、その衛星との無線連絡が絶たれ、何か極めて抜本的なことが衛星に起こった、というものであった。私の新しい仕事場での初日は、これまでの最悪の事態として記憶に残ることになるものであった。
私の友人と同僚が、日本がこれまでに打ち上げた最大の衛星を失ったという事実を甘受しようとしていたとき、ときは桜の開花の時期で、不似合いに楽しいピンクの花々の雲が咲き誇っていた。
それは、職業人生を築き上げるために彼らが年月を費やしてきたことであった。私たちは、新データによる発見と興奮、経歴を変える進展の七年間を期待していたのだ。私たちは三週間取り組んだ。人生のすべてのことは一時的、みな遅かれ早かれとり去られ得るもの、実際、とり去られるだろう。

私はキリスト者

それなら、私たちのアイデンティティを何かもっと確固としたものの上に築くほうがよい。
私はキリスト者、―科学と信仰が両立しないと考えている人々には、驚きのようだが― である。現代科学は確かに、文字通り六千年前の「六日間の創造」に反証を挙げてきたが、私は、この「六日間の創造」を創世記の最初の数章の唯一の解釈とは捉えていない。
教父であり、偉大なる神学者の一人に数えられるヒッポのアウグスティヌスは、西暦408年に、「創世記の文字通りの意味」と題する本を書いた。これは、「文字通り六日間の創造」に疑問を投げかけるのに科学を必要とするようになるはるか以前の書である。しかし、彼は「これがどんな類の日であるかは非常に難しい。おそらく理解することはできない」と書いた。そして彼は、私たちが、新しい証拠の光の下で、創世記をどのように解釈するかに関して、私たちの心を進んで変えるようにと勧めたのであった。
おそらく、アウグスティヌスはそのとき、「科学と信仰の対立」という考えには困惑したことであろう。私も同じである。

創造者なる神への畏敬の念

私には、広大な広がりと複雑で美しい宇宙、―そこに私たちは住んでいる― を知れば知るほど、この宇宙を創られた神に対し、ますます大きな畏敬の念が呼び起こされる。それゆえ、これは私のアイデンティティのどちらかといえば基礎的な一部である。
神への畏敬は私自身を、人生のはかなさを仮定するよりもむしろ、永遠で不変の関係の見地から定義する。聖書の言葉では、神は、何か時を超えた存在である。このことは、実際、天文学者としての時の見方によく共鳴する。
「ビッグバン」で始まった私たちの宇宙の起源は、単に物やエネルギーの爆発的な始まりというのではない。それは、空間と時の起源でもある。アインシュタインの重力、空間、時は、そこに宇宙が展開していく固定された背景というのではなく、むしろ、その進化のために不可欠な、ダイナミックな部分である。創造者がご自身の創造から分かたれた存在であるかぎり、同様に神は、現今の宇宙やそのほかの宇宙の時空の外側におられるのである。

イエスのアイデンティティ

イエスにとって、神の子としての永遠のアイデンティティの宣言は、神に愛され、神に喜ばれているとの確認によっても、与えられた。確認、是認、愛、これらはみな、私たちが必要とするものである。これらは私たちに、根底の安全保障を与える。
イエスは、続く年々で、この安全保障をご自分の基盤として持つことが絶対必要な状態になっておられた。群衆のむやみな称賛や名声がいやでも脳裏に浮かび、ほかの人々から押し寄せられる期待の圧力が強度を加えた数年間に。
イエスには、ご自分が神に愛されており、認められていることを知ることが絶対、必要になっていた。

あらゆる選択枝を開く根底の安全保障

しかし、これがあれば、あらゆる種類の選択枝も開かれる。イエスは、御子、―永遠で全能なる神、すべてのものを創られた方、すべての力を持っておられる方…のアイデンティティを分かつことになる世継ぎ― である。それゆえ、すべてのことに力を持っておられる神、―イエスを愛し、公にイエスを御子として確認され、イエスを喜ばれた神―は、間違いなくイエスのすべての祈りを聞いてくださるであろう。
そして、そのように、荒野でのイエスの話、―そこでイエスは、「自分の目的を達成するために神の力を用いるがよい」と、悪魔に三度試みられたのであった― は終わる。
これら三度の誘惑はすべて同じく、悪魔の挑戦、「あなたが神の子なら…」と、イエスのアイデンティティで始まっている。
果たして、イエスは、神の子としてのアイデンティティから生じる力をどのように使うだろうか? 
イエスの行く末は何か? 
どのようにしてイエスは覚えられたいと思っているのか? 

永続する影響

私たちはみな、何かのことで覚えられたいと願っていると、私は思う。私たちは、自分の人生が、家族や友人たち、あるいは、もっと広範なコミュニティー全体に何らかの影響を与えたいと願っているものである。人として、私たちは、町を造り、芸術作品を創作し、本を書き、衛星を打ち上げる…これらのことはみな、私たちの人生の痕跡を未来に残す。しかし、そこにどんな永続する影響があるのだろうか?
私の衛星は、三週間もっただけであった!おそらく、子どもたちのいる人々には、遺伝子を通して自分たちのある部分が永遠に伝えられていく、という考えがあるかもしれない。自分たちの子らの、また子らの子らが、私たちが決して見ることのないはるか未来を形づくり、経験することになる。しかし、これはどこまで行くことができるのだろうか?

長期的展望

天文学者として私は、長期的展望をすることができる。私たちは、太陽が、今からおよそ五十億年で、その核燃料に尽き、最終的な死に際して、拡大し、地球を蒸発させることを知っている。おそらく、そのときまでに私たちは宇宙旅行を開発しているだろう。おそらく、多少遠い未来には、ほかの星々の周りに植民地が存在し、そこで、私たちからの遺伝質がまだ役割を担っているかもしれない…
しかし、これらの星自体もついには、燃料が尽き、暗くなってしまうだろう。しかし、新星と惑星の形態が、銀河の中の気体とちりから生まれ、おそらく私たちはそこに移ることができるかもしれない。私たちの宇宙には、宇宙は再び崩壊するというのではなく、永久に膨張するであろうから、永遠の未来がある。
しかしその未来は、その過去のものとも現在のものとも同じではない。無限に膨張している宇宙では、すべての物質はついには、ますます拡散していく。銀河は新しい星を形成する気体が尽き、古いものは消滅する。ブラックホール、―私自身の心に近い主題― でさえも、ついには蒸発する。すなわち、生命を支えるためのエネルギー源の最後の可能性も失われる。おそらく、複数のほかの宇宙の存在が考えられる… 
しかし、この時点までに、皆さんのうちに何らかの形が見えてきたのではないだろうか。

生命の永遠の意義

私たちの生命は暗闇の宇宙では、時の永遠性に何の影響も感化も与えない。しかし、物理的宇宙の結末が私たちの究極的な行く末を決定するのだろうか?
私は、もし神がおられるなら、そのとき、私たちの生命はむしろ永遠の意義を持つことになると、信じている。もっと大きな心象について思案すること、永遠の光の中で私たちの生命の意義を思案することは、人の文化の中で一般的なことである。
ビードは、彼の初期の中世のテキスト、『英国人の伝道者的な歴史』の中で、異教徒のアングロサクソンのコミュニティーにやって来たキリスト教宣教師のことについて語っている。彼らは、人生のはかなさを、つばめがミード・ホールの窓を通って飛んでくるようだと、述べている。鳥は、火明かりに飛び込み、向こう側の窓から飛び立っていくだけである。テキストは次のように語っている。
…内側にいる間、つばめは冬の大嵐から安全である。
しかし、短い晴天の期間ののち、つばめはたちまち視野から消える。
そして、冬から再び冬へと過ぎる。
そのように、人は地上にほんのわずかな間現れる。
しかし、後に続くことになっていること、あるいは、先立ったことを
私たちは全く知らない。

神にあるアイデンティティ

あるいは、聖書の『伝道者の書』の言葉によると、神は、彼らの時代に、すべてのものを美しくされた。神は、また、人の心の中に、永遠を据えられた。しかし、神が始めから終わりまでなさったことを推し量ることのできる者はだれもいない。もし物理的な現実がいつもそこにあるわけではないとしたら、私たちは、私たちの人生に意味があることをどのようにして推し量ろうか?
イエスは、ご自分の生命が究極的には、物理的宇宙によって定義されるものではないこと、しかし、ご自分のアイデンティティが神との関係にあることを知って、荒野に行かれた。そして荒野で、四十日間の断食の間に、ご自分の「神にあるアイデンティティ」が、全能で永久の神の力を確かに分かち持ったということであると知る時点にまで至られたと、私は思う。
少なくとも、イエスの最初の二つの試み、「この石がパンになるように、命じなさい」と「神殿の頂から下に身を投げ、御使いたちに支えさせなさい」を、私はそのように読んだ。
しかし、これらのことは、私を誘惑するような類の事がらではない。そのようなことが私の力の及ばないことであることを、私は知っている。
しかし、イエスは、これらのことで試みにあわれた。それは、イエスが完全に人でありながら、その基本的な本質が神である方として、それらの試みが、ご自分の力の中、手中にあることを知る時点にまで至られる必要があったからである。

物理的宇宙を超える永久の御国

しかし、その次の三つめの試みは、もっと直接的であった。悪魔は、イエスにこの世とすべてを与えることができると言った。一時的な、しかし美しいものすべてを。しかしイエスは、ご自分がこの世と永久の御国の両方の世継ぎであることを知っておられたので、立ち去られた。
イエスはご自分がだれであるかを、また、ご自分の行く末を知っておられた。このことは、内なる誘惑、―私たちすべても直面することになる見通し― を拒否する強さをイエスに与えた。イエスは、ご自分の生命を永遠のバランスの中で量られ、ご自分の選択、行く末を決められ、時にせよ、空間にせよ、無限がいかなるものであろうと、この物理的な宇宙よりはるかに大きなキャンバス上を重要とされた

神と共なる私たちの選び、私たちの行く末がある

私たちの一年の滞在が終わりに近づくにつれ、再び、日本では花々の開花時期である。桜はまだまだであるが、荒涼とした冬の後、早期の梅が春の約束をもたらしている。移り行く花の流れがその美しさを増すという考えは、何か、日本文化に極めて根深く埋め込まれたもののようである。ここでほんの三週間の間に出始めようとしているものがあり、木々におおわれているものがあり、落ちるものもある。
率直に言って、もし、衛星からの新しいデータを三週間以上得ていたなら、私は、新衛星の美しさにもっと感謝したことであろう! しかし、すべてのものは過ぎていく。
重要なことは、時にせよ、空間にせよ、無限がいかなるものであろうと、私たちが永遠のバランスの中で、私たちの人生を量り、この物理的な宇宙よりはるかに大きなキャンバス上に、「神と共なる私たちの選び、私たちの行く末がある」ということを知ることである。