3月5日(日)
不合格、不合格…
先月はとても不可解・理不尽な面接を二回体験しました。
初旬にP合同裁判所のパートタイムの"Bailiff Officer" 執行官付き事務官の面接を受けました。
R団体の助言をいただいて準備万端で臨んだのですが、すでに臨時雇いとして働いていた人に内定していたようで、さっさと済ませたいといわんばかりの態度を露骨にとられてしまいました。
人生こんなこともあるさ、と思いながらも気持ちを奮い立たせるのに時間がかかってしまいました。
先月下旬には現在、出向として働いている文書管理課の採用試験を受けました。二人募集だったこと、すでにこの管轄下で働かせていただいていたのでその経験を踏まえて、希望を持って面接に臨みました。R団体から助言、模擬面接をしていただき、適正に基づいたインタビューも内部の仕事での経験をもとに、しっかり準備して臨んだのですが、これも不合格でした。同じチームの同僚から「驚きを隠せない」と言われました。
フィードバックは、「とても良い事例だったが、採点のためにもっと内容の詳細を話してもらいたかった」とのことでした。STAR技法に沿って備えた私には、このフィードバックは腑に落ちませんでした。
よみがえる悪夢
ここ数年、主の御心が全く理解できないことが重なり、祈るときはいつも腹立たしさと悲しみが同時にこみ上げてきます。
R団体によれば、障害者(十二ヶ月以上鬱を患っているため、障害者扱いになるのだそうです)の私に残された道は、前の部署に戻るか退職か、のどちらかになるそうです。
現在の職場もこれが潮時かなと考え、身体第一で再就職先を慎重に探しているところです。
この職場での一年半とかつて郵便局にいた頃のことが重なります。
B郵便局では、お客さまからの心無い言葉、匿名で送りつけられた嘘の苦情や言いがかりで警察に嘘の通報をされたこと、こういった理不尽な数々の出来事に対して自分でできることを尽くして主に祈り、助けを求めました。それでも結局精神的に崩壊し、家から外に一人で出られなくなり、退職することになったのでした。苦しかったとき、主が助けの手を伸べてくださらなかったことに対し、主への不信感と憤りをぬぐえないまま今日に至っています。どうしたらこの気持ちを払拭できるでしょうか。ご指南ください。
3月27日
明日、現在の職場の出向で、法的補佐/法的調査の面接を受けます。
これも不採用のときは、四月からまた休職願を提出、会社の解雇を待ちながら再就職活動を続けることになります(辞職すると求職の申請ができないため)。
ここ数年鬱で何ごとにも集中することが難しく、好きだった読書も手がつかず、読み始めて三分の二ぐらいすると、すべてが無意味に思え、図書館に返却するを繰り返しています。
夫曰く、「目の前にエリヤがいても全く無関心、車が来ようが見向きもせず道路を横切っていく」など、鬱症状が一層顕著になってきたので、かかりつけ医に相談しましたが、できるのは薬の処方だけとのこと。薬を飲むと余計頭が混乱して生活が成り立たないので、11月から薬は服用していません。
主の絶対権に無力な私
マルコ4:24-25、出エジプト記33:19の聖句が思い起こされます。「だれに憐れみをたれるか否か、与えるか奪うか」は、主に決定権がありますので、私にはどうすることもできません。
仕事、健康、家族、家、生命、すべては主の思うままに与えられ、奪われる、それだけです。
今後は、何事も一喜一憂せず、それを「あ、そう。」と静観し受け流したいと思います。
怒ったり悲しんだりすると相手の思うつぼ、まさにいじめと同じで、こちらが徹底的に無視・無反応を決めこめば、相手は攻撃する意味を失うからです。これが執拗に繰り返される就職難に対する私の答えです。
4月9日
霊の戦い、証しにならない私
「日本人の持つ先祖供養という概念がキリスト教へ帰依を妨げる要因の一つになっている」と聞いたことがあります。私の家族もまた同様に異霊への信心があるため、おっしゃるように霊的戦いがいかに壮絶であるか、すこしは想像ができる部分もあるかと思います。
我が家の霊的戦いは、残念ながら私には勝算がありません。戦いにすらなっていないかもしれません。
私自身の二十年来の精神疾患と就職のあらゆる試みに対する不成功の連続を見守ってきた家族は、私が勧めても、『福音』に耳を傾けることはないでしょう。私に降りかかったこれらの出来事がすべて、私が聖書を真剣に読み始めてからの二十年間と重なることを、彼らは熟知しているからです。このような形で家族を福音から引き離してしまったことまで、主にとがめられるかと思うと、正直辟易します。
救いの道は本当に一つ? キリストを通してのみ?
「主は憐れもうと思うものを憐れむ」とは、こちらが憐れみを乞うたとしても、憐れみの対象にならないものもいる、という意味なのでしょうか。相手は創造主ですから、公平・不公平を言えた義理ではありませんが。
時々、ユダヤ人たちをとてもうらやましく思います。確かに、イエス・キリストの贖いを信じることで、異邦人の私でも救いにあずかることができました。でも、この贖いの信仰を捨てるとき、私自身とイスラエルの神との間には何の由縁もないのだと感じ、とても空しくなるのです。
異邦人の信仰を神の養子縁組にたとえることがありますが、養子にもらわれた人は、養父(親)との関係に、このような空しさを覚えるものなのでしょうか。
もちろん、ユダヤ人の場合はその逆で、彼らは「アブラハム」の子孫であること、すでにアブラハムを通して永遠の祝福を受けていることを強調し、イエスの贖いの死を受け入れず、この唯一の救いを否定し続けているという点では残念以外のなにものでもありませんが、それでも、実子への神の愛は不動で、彼らはたとえ信仰を捨てたとしても、ユダヤ人であるという事実から逃げられない以上、イスラエルの神からは離れられない、と私には見受けられるのです。このことを私は、妬(ねた)ましいほどに羨ましく感じます。養子の実子に対する嫉妬も、このようなものなのでしょうか。
「何人であろうと救いの道は一つ、イエスキリストを通してのみ」というのは頭では十分わかっていますが、Jesusさまの贖いの死を受け入れ、イエスさまの再臨を待つユダヤ人たちには、本当は二重の祝福(アブラハムへの祝福とイエスを信じる者への祝福)が宿っているのではないか、とひそかに思っています。私の勘違いでしょうね。
Y
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